劉暁波伝
余傑著 劉燕子編
劉燕子・横澤泰夫訳
価格:2,916円(本体2,700円+税)
判型:四六判並製/509頁
ISBN978-4-904213- 55-1 C0023
「心の自由のために、彼は身体の不 自由という代償を支払った」
1989年天安門事件、〇八憲章、ノーベル平和賞。
度重なる拘束や監視にもかかわらず中国にとどまり続け、
民主化を訴えた劉暁波とはどのような人間だったのか?!
最後まで彼と行動を共にした若手知識人作家による
劉暁波の人生録。
ぼくは、ぼくの行った事業が道義にかなったものであり、中国はいつかある日、自由で民主的な国になり、あらゆる人か? 恐怖のない陽光の下で生活するものと信じている。ぼくは代償を払った けれど悔いはない。独裁国家の中では、自由を追求する知識人にとっては、監獄は自由へ通じる第一の敷居であり、ぼくは既にこの敷居に向かって前進した。自由はそう遠いものではない。(本文劉暁波の言葉より抜粋)
劉暁波の略歴
1955年12月28日、吉林省長春に生まれる。文芸評論家、詩人、文学博士(北京師範大学大学院)、自由を求め中国民主化に尽力。1988年12月から米国にコロンビア大学客員研究員として滞在するが、天安門民主化運動に呼応し、自らも実践すべく予定をきりあげ急遽帰国。1989年6月2日、仲間3人と「ハンスト宣言」を発表。4日未明、天安門広場で戒厳部隊との交渉や学生たちの無血撤退に貢献し、犠牲を最小限に止める。その後、反革命宣伝煽動罪で逮捕・拘禁、公職を追われる。釈放後、文筆活動を再開。1995年5月~1996年1月、民主化運動、反腐敗提言、天安門事件の真相究明や犠牲者たちの名誉回復を訴えたため拘禁。1996年9月から1999年10月、社会秩序攪乱により労働教養に処せられ、劉霞と獄中結婚。2008年12月8日、「08憲章」の中心的起草者、及びインターネットで発表した言論のため逮捕・拘禁。2010年2月、国家政権転覆煽動罪により懲役11年、政治権利剥奪2年の判決確定。2010年10月、獄中でノーベル平和賞受賞。2017年7月13日、入院先の病院で多臓器不全で死去(一説では事実上の獄死)。著書多数。日本語版は『現代中国知識人批判』、『天安門事件から「08憲章」へ』、『「私には敵はいない」の思想』、『最後の審判を生き延びて』、『劉暁波と中国民主化のゆくえ』、『牢屋の鼠』、『劉暁波・劉霞詩選』(近刊予定)
目次
第I部 伝記篇
序 / プロローグ
第1章 黒土に生きる少年
第2章 首都に頭角を表す
第3章 天安門学生運動の「黒手」
第4章 ゼロからの出発
第5章 僕は屈しない
第6章 「〇八憲章」と「私には敵はいない」の思想
第7章 劉霞 土埃といっしょにぼくを待つ
第8章 ノーベル平和賞──桂冠、あるいは荊冠
エピローグ 「中国の劉暁波」から「東アジアの劉暁波」へ──日本の読者へ
第II部 資料編
資料「天安門の四人」の「ハンスト宣言」(1989年6月2日)
資料「〇八憲章」(2008年12月9日)
資料「私には敵はいない──最終陳述
あとがき
書評家の蓮坊公爾(れんぼう・きみちか)氏が小社新刊『劉暁波(りゅうぎょうは)伝』を氏のメルマガ「熟読玩味」で取り上げてくださいました。氏の許諾を得て転載いたします。
〈新刊紹介〉『劉暁波伝』余傑著、集広舎
劉暁波は、「私には敵もいないし、恨みもない」。信念の人・劉氏こそ、本質的に「中国への情愛が深い」人間だと云うこと。4度も投獄されたが、限りなく深遠な民族愛には、一点の染みも姑息な手段にて共産党政府に妥協する愚も起こさない。「国保」(中国KGB)の拷問にもめげぬ。此の鋼の意思・明察は、何処から導かれたのだろうか。「自身の良心に従い、責任を負うという姿勢で取り組む」(余英時・プロローグで語る)。同一民族が此の自由な言動を会得する。此れを弾圧した天安門事件一党独裁制の恐怖政治を目の当たりにし、護るべき本質に出合い行動指針と成す。劉氏の、生涯ぶれる事なく羽ばたく平和への思い。結果として「ノーベル平和賞」(世界の劉暁波)へと行き着いた。一党独裁に邁進する中国政府は、「国家政権転覆煽動罪」で締め付けた。氏の人間性が世界に評価されたにも拘わらす、人間の尊厳・人格を破壊する現体制は、凶暴な野獣だと云うこと。こうした閉塞した国家では媚びる人間が培養され、自我に目覚めた人間は埋没する。人間らしさは無残に砕かれてしまう。正に、ジョージ・オーウェル描く処の『1984』其のものだ。此の小説を読んだとき、スターリン独裁に依る粛清の嵐、痛ましさ。架空の物語。此のように捉えてをったが、今日の中国で行われて居る暗黒。其の屈折した熱狂民族主義(嫌日も含め)を批判した劉氏の崇高なる心意気。此れに敬服致すのは、私一人に非ずだ。然し、此の不幸なリアリズムと向き合う時、自由主義陣営の脆さと儚さを感じる。幾ら〈人権侵害〉を声高に叫ぼうとも、一人の「劉暁波」を救う事すら出来ぬ。禺公移山、劉暁波の情念は、やがて天に通じる。又、我が国は率先して〈中国の民主化〉を支援すべきだ。そして〈日中友好の御旗〉が、寸時燦然と耀くのである。
蓮坊公爾「熟読玩味」2月21日
書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW
劉暁波は、なぜ全体主義の過酷な牢獄にあっても、「絶望」と戦えたのか
最後の言葉は「わたしに敵はいない」
劉暁波の最後の言葉は「わたしに敵はいない」だった。
キリスト教の影響を受けたと見られる、この一言が世界の人々を感動させた。ノーベル平和賞に輝く民主活動家は、中国の監獄からメッセージを発信し、慌てふためいた中国共産党は遺族に火葬を命じたうえ、散骨を海にさせて、将来の影響力を抑え込むことに必死の形相だった。
しかし物理的な墓は地上に残らなくとも、多くの人々のこころのなかに墳墓ができたのである。
劉暁波の親友だった余傑は現代中国を代表する作家の一人である。余は中国の監視から逃れ米国へ渡った。事実上の亡命である。その余傑が精神を絞り込んで、書き上げたのが本書である。
余は、こう書いた。
「(遺言は)暴力を乗り越えて正義と和解を実現できる理念である」(中略)「中国では、それはまだ幽谷のこだまのように空しく響くだけである。しかし、劉暁波の提唱により、春雨のように『風に随って潜かに夜に入り、物を潤し細かにして声なし』(杜甫)と、人々にしみ浸みいることだろう」(351p)
劉暁波は天安門事件の学生運動を支援し、学生を背後で鼓舞して「黒子」とも言われたが、長年の思考の蓄積をもとに書き上げた、「08憲章」を起草し知識人を奮い立たせた。この憲章は忽ちのうちに全世界に伝播し、チェコの大統領バーツラフ・ハベルらが感動し、賛同を呼びかけた。
劉暁波は、何回も米国へ出国のチャンスがあったのに、自分の意思で中国に留まった。何が彼をしてそうさせたのか?
「心の自由のために、彼は身体の不自由という代償を支払った」と余傑は言う。
「どうすれば長期間もの牢獄にいる災厄に打ち砕かれずにすむだろうか?
劉暁波は自身で体得したことを次のように語っている。『極端に過酷な環境の中で、楽観的平常心を保ちさえすれば、時に襲われる絶望も自殺の毒薬にならずにすむ。特段の災厄に遭っても、男に捨てられてくどくどグチを言い続ける女のようにならずにすむ。なぜ自分はこんな不運な目に会うのだろう』といった自己中心の深い淵に陥らずにすむ」(286p)。
精神的に惰弱となった現代日本の若者に、この書を読んで貰いたい。
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成30年(2018)2月12日(月曜日)通巻第5611号より
書評情報(2018年06月06日追記)
04月01日 中日新聞 東京新聞でルポライター麻生晴一朗氏による書評が掲載されました。
04月10日 熊本日日新聞 安富歩東大教授による書評が掲載されました。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100010128933391&fref=ts
注:上記URLは Facebook 劉燕子さんの投稿です。Facebook メンバー以外は閲覧できませんのでご了承ください。
04月14日 日経新聞読書面で書評が掲載されました。
06月01日 選報日本に関連記事が掲載されました。