猫と楽器と本と人間

第03回

「昆虫図鑑が世界の仕組みの全て」だった

その世界では、角の立派なカブトムシも、小さなゴミムシも平等だった。

wakabayashi0103

幼稚園の頃「絵画教室」で描いた絵。パンダとネズミの会話。樹にはカブトムシ。 当時の(今もか?)私が心休まる場所のイメージなのだろう、上野動物園にパンダが初来日するのはこの12年後。絵画教師には「樹の陰を書く子どもは珍しい」と言われ、その後も描く度に「天才少年か!」と皆にもてはやされるが、クレパスに好みの色が無いことと、絵画教師と母が何となく良いムードになっていることが嫌(どちらも格好悪く思えた)で程なく「もう行かない!」と辞めてしまった。

 お坊さんが、しばしば「山ごもり」をするのには、幾つかの意味と理由があるのだろうけれど。私も人生の岐路や、難関にぶち当たる度に「山ごもり」をしたくなったものだ。しかし、その間も、膨大な楽器や音楽資料の家賃を払わねばならない。親元に居た頃は、学生だったから、「休学して山ごもり」と言う訳にも行かなかった。が、そんな思春期の頃から、半ば習慣になっている「山ごもりの代わり」が、「がむしゃらな勉強」だった。学校の授業などではない。自分が興味を持ったものだ。思春期の頃は、「世界の民族音楽」から「日本の伝統邦楽」そして、残念ながら、遅く生まれてしまった為にリアルタイムでは殆ど知らなかったビートルズの時代やそれ以前のロックミュージックについてがむしゃらに調べ学んだ。
「知識を蓄える」ということでは全く無いのだ。どちらかと言うと「三歩歩けば忘れてしまう」方だし、「頭の中は極力空っぽにしておく」のが子どもの頃からの生きる知恵だった。「忘れるのが早い代わり覚えるのが早い」。週にアジア五カ国の語学生の家庭教師を呼んで居た頃。翌週にはアラビヤ文字を全部暗記していて驚かれた。今は三割も覚えて居ない。
 では、がむしゃらな勉強は何の為だったのか? それは、「分類学と分析学の訓練」であり、「理解力、吸収力の訓練」だったのだ。

 その原点は、幼稚園の頃迄遡る。小学校に入る前に、既にカタカナを全て覚えて居た。 
小学校の授業中は、殆ど失神しているかの様な生徒だった。そもそも学校には「給食目当て」で行っていたに過ぎない。戦後十数年。ぼちぼち「貧富の差」が現れ始め、「好き嫌い」などという贅沢な精神性も生まれて来ていた。何でも喜んで食べる私の机には「これ美味しくないから食べて!」と溢れんばかり載せられた。持って帰れる揚げパンなどを、体が弱く休みがちだった妹と母に持って帰ることに義務感を感じてさえ居た。 だから授業中は、全く気が入っていない。
 そんな「駄目な子」と思われていたのが、カタカナだけは教師に誉められた。昆虫図鑑の御陰であった。 図鑑読みたさ、昆虫の名前知りたさに自然と読める様になったのだが。そこで身につけた最大のものが、生物分類学だった。 今日でこそ、「人気の昆虫」とか、「野原の昆虫」「林の昆虫」などという種別科目を無視した括り方も在り得るし、むしろ分かり易いと好まれるだろうが。昔の昆虫図鑑は、子ども向けであろうとも、極めて学問的な構成であったのだ。甲虫類、直翅目、鱗翅目……..などなどである。その御陰で、自然に分類学が頭に入るのだ。私の場合、昆虫図鑑がこの世の全てだったから。必然的に分類学的脳みそに成ったのだ。その上、各項目は、大きさ順だったり、必ず雄雌が並んでいたり。出現する季節や幼虫の食物など共通のプロフィールが「不偏的」に記されていた。角が立派な雄の「カブトムシ」から小さな「ゴミムシ」の雌迄が、全て同じ扱いで、分類学の世界の中では平等だったのだ。

 私にとっては、それが世界の仕組みであった。そのことに疑いを持たなかった私が、世の中の実際の仕組みに気付くのは、思春期を過ぎてからだった。だから、「役者の子!」とクラス中から石を投げられる虐めに合っても、被害者意識さえ生まれ出なかった。「あれは虐めだったのか」と気付いたのが中学生になってから、というほど無頓着だったのだ。角が立派な雄の「カブトムシ」である金持ちの息子の苛めっ子から「やーいゴミムシ!」と石を投げられても、当たれば痛いくらいにしか感じられなかった。「ゴミムシ」であろうと「役者の子」であろうと、言われて悲しくなる観念が無かったのだ。そもそも私は、「ゴミムシ」も好きだったし「石ころ」さえも好きだった。そして、実際、虐めっ子は、運動も達者だから、急所を外して投げて来る。当たってもそんなに危険じゃないし、外しても来る。怖いのは、つき合わないと自分も虐められるからやむなく投げる様な奴の石だった。良く狙いもしないから、地面にバウンドして屈んでいると顔を直撃する。程なく、私は屈むのを止め立ち上がって投げる彼らの顔を見据える様になった。それが不気味に写ったのだろう。程なく石投げの虐めは、「しらけた」で終わった様だ。 私は、子ども心に悟ったのだった。悪気のある奴の方が怖くない。怖いのは、悪気が無い奴の方だ、と。

 と、この原稿を書いている間にも、実際の世の中では、放射能をまき散らしていることが隠蔽され、人々も忘れたフリ、知らないフリをして、そのまま本当に忘れて行き。ほどなく原発は再稼働し、数年後には同じことが繰り返される。その前に、途上国と言われる国々で日本製の原発が何かをしでかすだろう。 
 誰が犯人か? 利権を手放さない我欲の塊集団だと? 否、アカラサマな彼らは下っ端で、黒幕は他に居る。あのアカラサマさ加減は、「囮」以外の何ものでもない。黒幕は、今やすっかりオヤジになっただろう、あの時付き合いで石を投げた連中であり、その子ども達だ。悪気無く日和見。問題が生じれば生け贄の犯人を吊るし上げ。常に自分たちは「何も悪いことをしていない善良な市民だ」と言い続ける。それでも何かを問われ追求されれば。「知らなかった」で済まし。それでも済まされなければ「悪気が無かった」でやり過ごす。問題は、やり過ごせるかどうかでは無い。彼らの思考、心の中に、悪気が微塵も無いことだ。問われ様が問われまいが、彼らは既に無罪なのだ。 

 後々思えば、あの時。カタカナが読めることを誉められた時。「誉められること」を喜びに感じなかったことが、我が人生最初の良き選択だったのだろう。 勿論、喜びを感じなかった訳ではないだろうが、「最も大切なこと」ではなかった。もし、「誉められること」を大切なこと、と思い込んでしまっていたらば。カタカナなどは数ヶ月もすればクラス中に追いつかれる。さすれば、その他のことで誉められようとする。日々そんなことばかり考えて居る子どもになっていたかも知れない。恐ろしいことだ。 

コラムニスト
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若林 忠宏
1956年、文学座俳優(当時、後に演出家)の父、ピアノ教師の母の下、東京に生まれる。1971年、中学二、三年の頃に、世界の民族音楽と出逢い。翌年、日本初の民族音楽プロミュージシャンとしてデヴューする。十代後半は、推理小説家としてデヴュー前の島田荘司氏のロックバンドにインド楽器で加入。テクノバンドとしてプロデヴュー前のヒカシューに民族楽器で加入。二十歳そこそこの1978年から20年間、都下吉祥寺で日本初の民族音楽ライブスポットを経営。日本初の民族音楽教室の主宰、同じく日本初の民族楽器専門店も経営し。在日大使館、友好協会、国際理解教室など、伸べ千数百回の演奏を経験する。新聞、雑誌、TVなどの取材も多く、「タモリ倶楽部」「題名の無い音楽会」には数回出演、「開 運なんでも鑑定団」では、特別鑑定士でもある。 著書に「アジアを翔ぶシターリスト」(大陸書房:絶版)、「民族楽器大博物館」(京都書院:絶版)、「民族音楽を楽しもう」、「世界の師匠は十人十色」、「アラブの風と音楽」(以上ヤマハ出版)、「もっと知りたい世界の民族音楽」、「民族音楽辞典」(日本初)」(以上東京堂出版)、「スローミュージックで行こう」(岩波書店)、「民族楽器を演奏しよう」(明治書院:学びやぶっく、2009年6月)、「まるごと民族楽器徹底ガイド」(YAMAHA、2010年2月新刊)の他、共著も多い。「民族音楽紀行:アジア巡礼編」(2008年春)、「アフリカ編」(2009年秋)、「カリブ・中南米編」(2010年9月)の15から16回を「西日本新聞」文化面に連載。2005年からの九州・福岡と東京の通いの頃から、保護猫活動を行 い。2007年には「福岡猫の会」を立ち上げ、2010年に大量の捨て子猫、野良子猫を引き受けて以後、何らかの疾患によって容易く里子に出せなくなった為、新たな引き受けを中断し、看病経験を研鑽することとなる。2013年には、西洋化学対処療法の限界に突き当たり、中医・漢方、西洋生薬(Herb)、様々なサプリメント、ヴィタミン・ミネラル療法などのホリスティック(全身的)療法、及び自然療法を懸命に学び、50頭に及ぶ保護猫の世話に活用。猫エイズなどの不治の病の哀しい看取りなども含め、経験を積む。集広舎サイトにも、インド人作家、グルチャラン・ダースの著書「インド 解き放たれた賢い象」の若林氏の書評がある。 及び、氏は、闘病中の保護猫の世話の為にも在宅で出来る執筆業に重きを移行したいところであり、新聞、雑誌、Webマガジンなどのコラム、エッセイの依頼を求めている。専門的な経験はもとより。引き出しの豊かさと視座のユニークさは、斬新且つ適所なものをお届け出来る底力を持っていると推薦したい。連絡をとってみたいと思われる方はご気軽に当集広舎迄ご連絡頂きたい。
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