私の本棚発掘

第21回

圓仁著/深谷憲一訳『入唐求法巡礼行記』

圓仁著/深谷憲一訳『入唐求法巡礼行記』中公文庫、1990年

圓仁旅行概念図圓仁旅行概念図
圓仁像(兵庫県加西市、一乗寺藏)圓仁像(兵庫県加西市、一乗寺藏)

 圓仁の『入唐求法巡礼行記にっとうぐほうじゅんれいこうき』は、唐の僧玄奘の『大唐西域記』、イタリアの商人マルコ・ポーロの『東方見聞録』と並び世界三大旅行記の一つとされている。他の2著がそれぞれの弟子や友人が著者の口述を記録したものであるのに対し、『入唐求法巡礼行記』は圓仁の自筆の旅行記であることが大きな特徴だ。
『入唐求法巡礼行記』は平安前期の僧・圓仁(794~864)が最後の遣唐使に加えられ、承和5年(838)の出航から同14年(847)の唐からの帰国まで10年間の体験を日記に綴り、当時の中国(唐)の社会、政治状況、特に「会昌の廃仏」の状況をつぶさに記録したもので、唐史研究の貴重な文献とされる。全文漢語で書かれている。
 4巻からなる『入唐求法巡礼行記』の原本はすでになく、1883年(明治16年)に京都東寺観智院で唯一残された写本が発見され、改めて日の目を見ることになった。本書はこの京都東寺観智院本(国宝)を活字化したものをもとに、これまでの文語訳、研究成果などを参考に全文を現代口語に訳したものだ。訳者は序文で、「現代とは何か、口語とは何かという問題もあるが、より正確には漢文体で書かれた840年前後の文章を1100年後の1990年代の日本人が読んで分かる文章に直してみたというべきだ」と述べている。この序文からも読み取れるように、『入唐求法巡礼行記』の翻訳は一部分を現代語訳にしたものを除き従来すべて文語体で書かれており、本書は現代の読者にとり貴重な読み物だと言える。圓仁の漢語文の読解にはかなりの部分に諸説があり、本書ではそれらを一々( )内で紹介しているが、本コラムでは煩瑣にわたるのでそれらは無視した。本書は731ページあり、文庫本としては大部な一書だ。

『入唐求法巡礼行記』書影『入唐求法巡礼行記』書影

 著者圓仁は第三世天台座主。諡は慈覚大師。延歴13年(793)に今の栃木県に生まれ、15歳で最澄に師事し法華止観を学んだ。唐からの帰国後は天台密教を充実させ、堂塔の建立、教学の振興につとめ、比叡山興隆の基礎を築いた。著作には『入唐求法巡礼行記』のほか『金剛頂経疏』、『蘇悉地経疏』、『顕揚大戒論』などがある。

『行記』は4巻に分けて書かれているが、本コラムでは順を追い、大まかな内容別に小見出しをつけて紹介する。
 圓仁らの第17次遣唐使は最後の遣唐使で、大使は藤原阿臣常嗣、副使は小野篁で、一行は4舶に分乗して出発することになるが、暴風雨に遭遇したことで2度渡海に失敗したほか副使の小野篁の乗船拒否もあり、結局承和5年(838)6月13日に第一舶と第四舶の2舶だけが遣唐使一行を乗せて出発した(第二舶は後日別行動をとって出発した)。

写本「入唐求法巡礼行記巻第一」巻首(国宝/岐阜、安藤家蔵)写本「入唐求法巡礼行記巻第一」巻首(国宝/岐阜、安藤家蔵)

『入唐求法巡礼行記』第一巻の記述はここから始まる。大使の乗った第一舶には圓仁と圓載の二人の僧がいた。圓仁の身分は請益しょうやく僧、これは師から教えをうけ、不明の点について教えを請う短期間の入唐研究員のことで、もう一人の圓載は長期滞在の留学るがく僧だった。

渡海の苦難

 『行記』書き初めの注目点は当時の日本と大陸の間の大海を渡る航海の想像を絶する危険や困難の如実な描写にある。博多出航から11日後の6月28日、水深が浅くなり大陸に近づいていると思える頃の日記だ。

 ……そうこうしているうちに、東からの風がしきりに吹いてきて大小の波が高く猛り立ち、船は急に走り出して速度を増し、とうとう浅瀬に乗りあげてしまった。あわてふためいてすぐに帆をおろしたが、舵は二度にわたってくだけ折れ、波は東と西の両側から互いに突いてきて船を傾けた。舵の板は海底に着き、船の艫はいまやまさに破れ割けようとしている。そこで、やむなく帆柱を切って舵を捨ててしまうと、船は大波にしたがって漂流しはじめた。……船の上を波が洗い流す回数も数えきれない。船上の一同は神仏を頼んで誓い祈るほかなかった。こういう状態だから人々はなすすべを失って大使・船頭以下水夫にいたるまで裸になって褌をしめなおすのがせいぜいであった。……船の骨組みの接続部分の合わせ目は大波にたたかれて皆はずれとんでしまった。左右の手すりの端に縄を結んでつかまり、われもわれもと活路を求めるに懸命である。……とうとう船は沈んで沙土の上に乗ってしまった。……

 4日後の7月2日には潮が満ち船が浮き漂流をはじめたが、強く早い潮流で船は泥の中に埋まり沈没するばかりになった。人々は死を待つばかりだったという。更に船の破損が進み、

 人々は胆をつぶし涙を流して泣き叫び、神仏にどうかお助けください。そうすれば……いたしますと誓い祈るだけであった。

とある。やがて小さな倉船一艘が迎えにくるのに出会い、正午頃、揚子江の河口に到着、午後、付近の村に上陸した。
 日記には、日本国の承和5年(838)7月2日、すなわち大唐の開成3年7月2日で、年号は違っても月日は同じだとある。大使は6月29日午後3時ごろ船をはなれたということで、どこに着いたかこの時点では不明だったとある。記述が前後して分かりにくいが、上陸した近くに塩を管理する役所があったので、日本国遣唐使が到着した旨の公文書を提出した。この時は大使が合流していると分かる記述がある。
 翌日には航行中離ればなれになった第四舶が北の方の海に漂着したことを知る。
 その後は付近の村に行ったり、鎮の役人の慰問を受けたり、揚州の寺の僧侶が訪ねて来て筆談で交流したなどの記述がある一方、連日蠅ほどもある蚊やブヨに悩まされたとも書いている。蚊やブヨの話しは繰り返し出て来て、特に蚊に刺されると針で刺されるようで非常な苦しみだとある。揚州の寺の僧侶の訪問はその後もしばしばあった。

 7月18日にはあの隋の煬帝ようだいが掘らせた大運河を船で揚州へと向かった。水路の左右に富裕な家が連なっている様や塩を積んだ船が数十里(約20キロ)にわたって絶え間なく連なり行くのに驚くなど大運河沿いの風景の描写も見られる。道中は役人らの親切な接待があったが、船上の圓仁らを見るために多数の野次馬がわれ勝ちに集まって来たなどという記述もある。この頃から一行の中に病人や死人が出始めた。

天台山行きならず

 やがて揚州に着き、8月1日に圓仁、圓載の二人の僧は求法ぐほうのため浙江省台州の天台山にある天台仏教の発祥地・国清寺に向かいたいという文書を遣唐使本部に提出した。3日には圓仁らを台州に向かわせてくれるよう要請した遣唐大使の公文書を揚州の州庁に届けた。8月10日の日記には、李相公(州庁長官)から返書があり、「台州への出発は許さない。勅許を待って決定すべし」と言って来た。

 圓仁の天台山行きについては、長安で遣唐大使が天子に3、4度直接奏上して願うなど以後も頻繁に要請を繰り返したが、結局勅許は下りなかった。圓載一人だけは台州行きが許され、5年の間食糧の支給を受けることになった。
 圓仁の天台山行きに正式に不許可の結論が出されたのは翌年の開成4年(839)2月24日で、願いを出してからほぼ10ヶ月後のことだった。

 揚州に着いてから圓仁らは船や官設の旅館に宿泊していたが、やがて日本国使の接待役が「圓仁、圓載の二人の僧とその従者たちを(揚州の)開元寺に居住させる」という李相公の通達文書を持ってきた。これを受け圓仁、圓載の二人の僧とその従者たちは8月23日から開元寺に居住することになった。開元寺では入居早々からかゆや供養の接待を受けるなど丁重に扱われている。

 遣唐大使の藤原朝臣一行35人の官人は10月5日、5艘の船で長安京に向け出発した。この出発の前から、圓仁は遣唐大使を遣唐大使藤原朝臣の君という敬称で呼んでいる。
 9月29日の日記には、大使が出発を前にして圓仁に昆布ひるめ十把、海松みる(食用の海藻)一つつみや仏法を求める費用にと沙金を贈ったこと、圓仁の台州行きの件についての交渉の内容を記した手紙を与えたことのほかに、

聞くところによると、今、天子(文宗)はある人にはかられて皇太子を殺した。その理由は、皇太子が父王を殺して自分が天子となろうと計画したので、父王は自分の子を殺したのである、云々。

と唐朝の内紛の模様も書かれている。また11月24日には、天子により銅の鋳造が禁止された、庶民の銅の器の作りすぎで銅銭を造る銅が不足したせいらしいとか、その5日後には鉄の売買も禁止されたといった記述もある。
 この後、圓仁は開成4年2月、大使と共に最初の帰国の途につくまでほぼ7か月を開元寺で過ごすことになる。

開元寺での生活

 開元寺に残った円仁らのもとには州長官の李相公がしばしば慰問に訪れ、時には日本の諸事に関して質問をした。例えば、「日本には寒い季節があるか」「僧や尼の寺はあるか」「寺の数はどれほどあるか」「道士はいるか」「日本の京城の大きさはどれほどか」「夏安居げあんごはあるか」などである。
 李相公らの服装についての観察もあり、相公は紫の衣服を着、郎中・郎官3人は緋色の衣服、判官4人は緑色のひとえの上衣を着けていたなどと書いている。
 開元寺では国の忌み日(先帝崩御の日)、新年の供養、遣唐使揚州居残りの責任者・判官藤原貞敏による供養などさまざまな機会に食事会が開かれている。
 ここでは11月24日に圓仁が施主となって開かれた天台大師を供養するための食事会の模様を紹介する。本書では4ページあまりにわたり詳細に書かれているが概略を。

 集まった大勢の僧(60余人)がそろって堂内に入り席次に従って座った。何人かが清めの水を配った。施主の僧圓仁らは堂の前に立った。大勢の僧の中で一人の僧が木槌を打つ。さらにもう一人の僧が佛を讃える梵唄ぼんばい(仏を讃詠する偈頌げしょうをインド風に歌う)した。その讃えの歌では「どうしたらこの経によって最後にかの悟りの岸に行きつくことが出来るのでしょうか。仏よ、どうか言い知れぬ秘密を開き教えて、広く多くの生命あるものに説いてくださるようお願いします」という。その音声の調べは絶妙の美しさであった。梵唄をうたっている間に人が経を配った。梵唄が終わると大勢の者がそろって読経をした。……木槌が鳴り響いて読経が終わると、次ぎに一人の僧が「敬礼常住三宝」と唱え、僧たちは皆席から下りて立ち上がった。すると先に梵唄を歌った僧がまた梵唄を唄う。「如来の身体はなくなってしまうことがない」等一行の文である。この梵唄の間、寺の役僧が導いて請益僧(圓仁)らを堂の内側に入れて焼香礼拝させたあと、引続いて大勢の僧全部が焼香した。香を配り焼香する儀式は日本と同じである。
 斎嘆文を読み、人に供養をすすめる法師幻羣は皆の衆に挨拶して一足先に起立し仏像の左側に行って南に向いて立った。……法師幻羣は施主がまず供養の食事の会を開きたいと申し出た書状を披露し、次ぎに幻羣法師が斎嘆の文を読む。……
 斎嘆文を読んだ幻羣法師ほか寺を統率する監寺その他の役僧や施主の僧ら十余人は食堂じきどうを出て庫裡に行き、そこで昼食をとった。そのほかの僧と沙弥(小僧)とはみな食堂で昼食をとった。(この他、食事のほかに別に費用の一部を残し、食事の終わりにはその銭を僧たちに均等に分け与えるといったことなどが記されている。)供養の食事会がおわったあと、大衆は同じように一カ所で口をすすいで宿坊に帰った。……

 この後には、揚州城には40余の寺があり、これらの寺の順序を決め、その順序によって互いに僧を招きあうなどの細かい記述がある。
 開元寺での滞在中、圓仁、圓載の従者が僧になったという記述があるが、圓仁が仏法について学んだという記録はほとんどない。多分、仏法の学びは天台山に行ってからのことと考えていたからだろう。
 この時期には、薄氷がはった、彗星を見た(李相公の従軍が大乱の兆しと言う)、晴れ乞い、冬至の祝い、新年の風俗、立春を迎えた寺や庶民の姿など時候がらみの記述が多く見られる。
 このうち晴れ乞いと立春の記録を紹介する。先ず晴れ乞いの記述。11月24日の圓仁主宰の食事会の記事の後に出て来る。

 さる十月から、きょうまで長雨が数回にわたってあった。李相公は七つの寺に通達を出し、それぞれ7人の僧に読経させて“晴れ乞い”を行わせた。その期間は7日間であったが、“晴れ乞い”が終わるころになって天気が晴れになった。唐の国の習慣で、“晴れ乞い”には路の北側を閉鎖し、“雨乞い”には反対に道の南側を閉鎖する。昔から伝えてきた言葉に「晴れを乞うに路の北側を閉鎖するのは、陰を閉じればとりもなおさず陽が通じて天気は晴になる。雨を乞うときに路の南側を閉じるのは陽を閉じればとりもなおさず陰が通じて雨を降らすことになるはずである」と。

 翌年、圓仁らが入唐してから2年目の開成4年(839)閏正月5日の日記には、昨日雨乞いをし、夜に入って夏の雷雨のようにどしゃぶりとなった。満月の15日になってはじめて晴れた、とある。
 次ぎに立春については開成4年正月14日の日記にある。

 立春。物売りがうぐいすの形をした玩具を作ってこれを売り、人々は買ってこれで遊んだ。正月15日。夜、東西通りに沿った家々では灯りを燃やした。日本の大晦日の夜と同じである。寺の中でも灯明を燃やして仏を供養し、あわせて先師の尊像にお供え物をして祀った。世俗一般の人もまた同様である。当、開元寺の仏殿の前には灯りをつけた高いやぐらが臨時に建てられ、石だたみの階段の下、庭の中、回廊の両側に沿って皆、油を燃やした。その灯明の灯芯を入れた油皿の数は数え切れぬほど多かった。町中の男女は深夜遅くなるのも怖れることなく、寺の中に入って来てその多数の灯明を見物し、供え灯の前では身分相応にそれぞれお賽銭を置いた。見巡りが終わると、また別の寺に行ってお詣りし、お賽銭を入れる。だからどの寺のお堂の中も、どの院でも皆、競争で灯明を燃やす。お詣りに来る者があれば必ずお賽銭を入れていくからである。

 正月21日、遣唐大使らの昨年12月6日付の手紙が届く。12月3日に無事長安に到着、国賓として礼賓院に入ったとある。
 閏正月4日、新羅人の通訳金正南の要請で購入した船を修理させるために、工匠の監督、大工、船工、鍛工ら36人を楚州に向け出発させた。はっきり書いてないが、遣唐大使らは役目を終え、楚州から帰国の途に就くことになる。この項目はその準備の一環か?
(ここに新羅人の名が出てくるが、新羅人は当時大陸の東北海岸から揚子江付近の楚州、揚州など、南は明州(寧波)に至る地点に租界を設けており、居留民は新羅坊を作り中国公認の団長により統制のとれた生活をしていた。彼らの情報網もすばらしいものがあり、沿岸各地に寄港する船の乗組員やオーナーたちによってたちどころに伝わった。通訳、情報の伝達、手紙の受け渡し、帰国の船の世話まで圓仁も新羅人を大いに頼りにしており、彼らの協力なくして圓仁の求法の道はとうてい開けなかったといっても過言ではない=訳者解題より)

帰国の途から外れて

 圓仁らは2月20日、帰国する遣唐大使に合流すべく揚州を出て楚州(今の淮安)に向かい、2日後に楚州に着き、大使に会った。天台山に行く許可の出た留学僧の圓載と従者二人が揚州へ戻って行った。圓仁は、当初目的としていた求法が達成できずにいるので、唐に留まって住みたいという書状を大使の常嗣公に差し出し、大使からは「仏道のためであり、あえて反対しない。ただこの国の行政は極めてきびしく、役人に知れたら違勅の罪にとわれるかもしれない。このことをよくよく考えて決めるように」と返事があった。
 3月22日、遣唐大使一行は9隻の船で楚州を出発、帰国の途に就いた。大使は第一船に、圓仁は第二船に乗った。その後、大運河から淮河に、淮河の河口から北に向かったが、風向きが一定せず、波浪が高かったりし、渡航の方法について大使と他の船の指揮官との意見が一致しないという事態も起こっていた。一行は一週間後、海州管内東海山の東付近の港(今の連雲港?)に入った。ここからの出発は4月5日だが、その日の圓仁の日記にはこうある。

 請益僧圓仁は先頃楚州に滞在していた際、新羅の通訳金正南と謀って、密州の地に入ったならば上陸して人家に宿泊し、その間に朝貢船が日本に向け出発したならば山中に隠れていて、そこから天台山に向かい、併せて長安に行くことを計画した。大使もこの計画に反対されなかった。いま諸船はこの地から日本に向け渡海しようとしていて大使が密州の地に行く案に従おうとしない。そのうえ順風が毎日変わることなく吹いている状勢になったので、大使の第一船もここから大海を渡る説に従いまさに出発しようとしている。……請益僧と惟正、惟暁と水夫の丁雄万の4人は船を下り岸に上がって踏み止まった。……大使は金二十両を賜った。

 圓仁らは険しい山道やぬかるみの道を歩いて新羅人の村にたどり着いた。村の長老や警備の将校らに怪しまれると、日本の船からやって来た、病気になり船を下り、野宿していたため船が出てしまった、などと嘘を言い、その旨の書状を書いた。結局、圓仁らは将校らに伴われ、海州県の役所まで行き取り調べを受けたりしたが、東海県に停泊している遣唐使船の居場所が見つかり、再び乗船、帰国の途に就くことになった。唐への居残りを計画し遣唐使一行と別れてから6日後のことで、圓仁の試みはひとまず頓挫した。圓仁はこの間の心境を次のように記録している。

 上陸してその日にたどり着いた宿城村から東海県に行くまでの一百余里(役60キロメートル)はすべてこれ山路だったが、あるいは驢馬に乗り、あるいは歩き、1日で着くことができた。……僧らは仏法を求めようとして何度も計画を立てたのであるが、いまだにこの志をなし遂げ得ないでいる。いよいよ日本に帰るという土壇場になって苦心して唐の国に留まろうとはかったが、これもうまくいかずに、ついに探し出されてしまった。……役人は詳しく調べてわずかのことでも見逃そうとしない。よって入唐第二船に乗って、いまはもう日本に帰ろうと思っている。……

 出航はしたものの、船は浅瀬に乗り上げ動きが取れなくなったり、風向が定まらず、霧、雨などの悪天候に遭い、水夫や舵取りが死んだりと難儀が続いた。食糧も底をつき始めた。圓仁は体調不良で食事ができないこともあった。4月18日の日記には早く日本に着いて、最近発願したいろいろな願を遂げ果たしたいと、神職に頼み神や仏に祈願させたとある。
 その後も悪天候に苛まれ沿岸をまごまごし続け、5月27日には大きな落雷で船尾の甲板が大きくむしり取られ、帆柱もつんざかれ、大きな損壊を受けた。日記には船内の人々の心はみなまちまちで、上下の関係もうまくいかないと書かれている。
 この間、圓仁は唐に留まりたいとの願いを山東沿海で権力を持つ新羅人の有力者や遣唐船の幹部に書状を書くなどして伝えたが、聞き入れられなかった。

圓仁ら置き去りに

 その後船は少しずつ沿岸を進み山東省東部の登山県に着き停泊した。ここで事件が起こる。圓仁らは上陸して赤山院という新羅の寺院に宿泊していたが、7月23日の朝になって港に停泊していた9隻の船団の姿が見えない。昨夜のうちに出港していたのだった。圓仁と惟正、惟暁の3人の僧と従者の丁雄万の4人は置き去りにされたのだった。
 圓仁らは天台山に行きたいという一心から日本に帰りたいという気持ちを忘れてしまった。しかし、寺で聞くと南にある天台山への道のりはとてつもなく遠く、北へ向かえば比較的近くに五臺山があるという。そこで以前の意図を変更し、滞在中の赤山院で冬を過ごし、春になってから五臺山を巡礼しようと考えを変えた(五臺山は山西省五臺県にあり、清涼山とも言われた文殊菩薩の聖地で、天台教学も盛んだった。東西南北中の臺と言われる5つ峰から成り、そこで五臺の名がある)。

赤山院での生活

 その後、寺の役僧には県から、圓仁らの動静を把握し、行動先が分からないようならば、厳しく詮議し重い罪に問われることになるといった厳しい通達が届いた。一方圓仁は9月26日、寺院を通じて五臺山などの諸所を巡礼修行したいので公の旅行証明書を発行給付して欲しいという要請を文書で州県の当局に提出した。このような書状は翌年(開成5年)2月にかけ、寺院や地方の警備長官の張詠、新羅人の有力者・張宝高大使などに再三提出している。
 赤山院に滞在中の日記には、以前揚州にいた時のように雪降る、初霜、泉水凍る、月食など時候の記事がある。寺の行事の記述もある。

 11月16日、山院はこの日から法花経の講義を始めた。来年の正月15日でこの講義は終わる。この講義を聞くため諸方から大勢の僧や縁のある施主がやって来て相会した。……僧も世俗の者も男女がともに寺院内に集まって昼は講義を聞き、夜は礼仏懺悔と聴経とつぎつぎに及んでいく。僧らはその数40人ばかりで、その経を講じたり礼仏懺悔する方法は、新羅の風俗によって行われている。ただし、夕刻と早朝の二度の礼仏懺悔は純然たる唐の風習にしたがって行われ、あとはいずれも新羅の語音を使って行われた。その集会の仏教徒、世俗の人、老いも若きも、身分の貴い人低い人も全員が新羅人であり、そのほかはただわれわれ三人の僧と従者一人だけが日本人だった。

五臺山への旅

 開成5年(840)2月24日、文登県の旅行証明書を取得した。翌日、登州刺吏(長官)による供養の昼食会があり、終わって圓仁らは五臺山へと出発した(旅行証明書は行く先々で発行してもらうようだ)。以後の日記では行程に従い、方角や距離などが細かく記され、更に唐では5里(約3キロ)ごとに一つの土堆どたい(土で築いた道標、日本の一里塚に相当)を築き立て、10里ごとに二つの土堆を築き立てており、土堆は四角で上は狭く下が広く高さは4尺、5尺、6尺とまちまちで、里隔柱と呼ばれているとある。文登からやや北西に向かい、3月2日には渤海に臨む登州城に着くが、その間あるいは山坂を行き、歩きに歩いて足が破れ、杖にすがり脚を腫らしながら前に進んだと道中の苦しさを記している。また道中の見聞として、

 登州文登県からこの青州に至る地方はここ3、4年来いなごが大発生して五穀を食いつくすという災害が起き、役人も民間も共に飢え困窮している。このため登州の管内では専らトチの実を食べて飯の変わりにしているほどである。私ども客僧らにとって、このようにきびしい事情の地域を通り抜けるには食料の入手がまことに困難である。粟は一斗80文、うるち米は一斗100文もしており、旅の僧には食べる食糧がない。

とある。このようないなごの害による飢餓の描写はその後も度々出て来る。そのせいで、途中の家では醤油、酢、塩、菜など何もなくて入手できず、通りがかりの寺や民家では食事を出さないといった記述もある。圓仁らは道中、普通院と呼ばれる参詣路に設けられた巡礼の僧俗に休憩宿泊食事などを提供する施設に泊まることがよくあったが、こうした施設でもかゆも飯もない所があった。圓仁らは、食事は自分たちで作らず馳走になるのを基本にしていたので道中は大変な苦労をしたようだ。時には、州の長官など役人から米、麦粉、油、酢、塩などの施しや、これらを運搬するための驢馬まで提供されたこともあった。宗教心の厚い宿泊先の民家の主人から十分な食事を与えられた時も忘れずに特記している。一方では主人が横柄、無礼、極度にけちなどの記述もある。

 登州を出発して1ヶ月ほどで青州に着き、新たに旅行証明書の交付を受けたり、食糧の支給を受けたりし、10日あまり滞在した。そこから道を西にとり、4月11日に黄河の渡し口に着いた。

 時の人はここを薬家口と呼んでいる。水の色は黄色でどろどろしており速い流れはまるで矢が飛んでいくようである。河幅は1町5段余、東に向かって流れている。……渡し口の南北の両岸にそれぞれ渡口城があって大きさはいずれも南北が4町余、東西が1町余である。この薬家口には大小の船が多数あって、往く人来る人を懸命に集め乗せている。渡し料は一人につき5文、驢馬は一頭15銭である。河南は斉州(済南)の禹城県に属し河北は徳州の南部地域に属している。河を渡り北岸で休憩、中食をとった。4人が各人ごとに四つの椀で粉がゆ(うどんの一種?)を食べた。主人が驚きあやしんで言うには「冷たいものをそんなにたくさん召し上がっては、おそらく消化しないのではないか」と。……

* 当時と現在では黄河の河道は大きく違っている。

 その後も宿泊した寺院の待遇が悪い、同宿した禅僧20余人の心はきわめて猥雑喧噪、普通院でかゆも飯もないところがある、なとどいった不満が書かれている。それにやはりいなごの害についても。

五臺山にて

 4月28日、五臺山を望み見る場所に着いた。その時の感慨を圓仁は次のように記している。

 開けた谷に入って西へ行くこと30里で午前10時ごろ停点普通院の前に着いた。……西北の方向にはじめて五臺山の中臺の頂を望み見て、地に平れ伏して礼拝した。この地こそ文殊師利菩薩のいらせられたところである。五つの峰は丸く高くなっており樹木は生えていない。その形は銅のお盆を逆さにしたようである。遙かにその頂を望んでいると不覚にも涙が流れてきた。樹木や珍しい花々もよそのところと同じでないが、それよりも全く特別の地であることをひしひしと感じた。こここそ清涼山の金色の世界で文殊師利菩薩が現に衆生のために姿を現されたところである。……23日の午後4時ごろ最初に山に入ってから今日に至るまで毎日山や谷に入って行き、合わせて6日間になる。まだ五臺山の根源地をきわめたわけではないが、ともかくも五臺山に到達することができた。

 圓仁によれば、2月19日赤山院を離れてからまっすぐここまで2300余里(約1270キロメートル)、悪天候の日などを除けば44日間歩いたことになる。
 5月1日、圓仁らは竹林寺に入った。圓仁らも招かれて参加した供養の食事会には750人の僧が参加したとある。竹林寺は五臺山には属していないと書かれているが、六つの院をもち格式の高い寺だ。従者の惟正と惟暁はこの寺で具足戒を受け沙弥になった。圓仁らはこの竹林寺を拠点に五臺山の巡礼をした。
 5月16日、天台の中心地の大華厳寺に往き、天台座主の志遠和尚と師の最澄にまつわる会話を交わした。

「日本国の最澄三蔵法師は貞元20年(804)に天台山にやってきて仏法を求められた。台州の刺吏(長官)の陸淳公が自ら紙墨と書き手を拠出して仏典数百巻を写させ最澄法師に与えられた。最澄法師は経論の注釈書を入手し、刺吏に証明の印章を押してもらって日本国に戻ったのである」と。そして日本天台宗の興隆について質問をされたので、天台の高僧南岳大師が日本で聖徳太子として生まれ変わり仏法を弘めたことをあらまし申し上げた。大勢の僧がこの話しを聞いて少なからず喜んだ。志遠和尚も南岳大師が日本に生まれて仏法を弘めたという説を聞いてきわめて喜んだ。

 圓仁は寺院をめぐり、曼荼羅や仏画などを拝み、あるいは高僧に経典の疑義について教えを乞うたりし、仏堂内の華麗、荘厳な装飾に驚いたりしている。
 5月20日から五臺の巡礼にとりかかった。この日は中臺と西臺に行ったが、五臺を代表し他の四臺の中心にある中臺の描写を紹介する。

 中臺の頂上は平坦で周囲は百町余(薬9キロメートル)、周囲よりひときわ高く突き出ているように見える。臺の形は円くそびえ立ち、ここから他の四つの臺を望み見ると西臺と北臺とは中臺からやや近い距離のところにある。……五臺は明らかに高い峰で他の多くの嶺々の上に出ている。……五つの臺の頂は半分から上の方はどこも樹木が生えていない。中臺は他の四臺の中心でどこからも水が湧き、地上の柔らかい草は長さ一寸余、びっしりと生え繁り地面を蔽っている。……歩くごとに水が湿りその冷たいことはまるで氷のようである。……そこここに石塔が非常に数多く立っている。……珍しい花がきれいな色を山一杯に満ちさせて開いており、谷から頂に至るまで四方が皆花に埋まってちょうど錦を敷いたようである。……

 翌日は北臺、その翌日は東臺を巡り、残る南臺は長安へ向け出発した翌日の7月2日に登った。圓仁らは五臺山に40日滞在したことになる。
 唐の都長安への道中ではやはりいなごの害に触れ、いなごが異常発生し道いっぱいに満ちあふれ、城内の人家にまで及び、足を地面におろす余地もないほどだ、道々いなごは道に溢れ穀物を食いつくし、百姓は憂い沈んでいるなどと深刻な状況を書いている。

長安、会昌の廃仏(法難)

写本「入唐求法巡礼行記巻第三」巻首(国宝/岐阜、安藤家蔵)会昌の廃仏の記述は巻第三と巻第四にかけてある写本「入唐求法巡礼行記巻第三」巻首(国宝/岐阜、安藤家蔵)会昌の廃仏の記述は巻第三と巻第四にかけてある

 圓安らは1ヶ月半ほどの旅で8月22日に長安に到着した。翌日、全国の寺院、僧尼など宗教行政を統管する功徳使隷下の功徳巡院に出向き、いくつかの寺に寄留し師を尋ねさせてほしいと文書で請願、その日から資聖寺という寺に居住することになった。
 圓安らはそれから5年10ヶ月ほど長安に滞在したが、その間、世に名高い会昌の廃物の様子を目の当たりにすることになった。本コラムでは、ここからはこの会昌の廃物を巡る記述に絞り紹介して行く。『入唐巡礼行記』が注目される大きな理由の一つがこの会昌の廃仏毀釈の目撃記述にある。

 文宗皇帝亡き後即位した武宗皇帝は、圓仁らが長安に到着した翌年の1月9日、年号を開成から会昌に改め、会昌元年(841)とした。
 会昌の廃仏は会昌2年(842)に始まったとされるが、圓仁の日記によればその前年、改元を行ったその日(会昌1年正月9日)に長安の左街、右街でそれぞれ道教の講義が行われたとある。これらの講義は7年前から廃止されていたのが武宗の勅により新たに開かれたのだという。唐室は同じく李姓である老子を自らの祖とし、道教を帝室宗教の地位に置いたが、仏教もまた保護してきた。
 しかし武宗は道教に狂信的となり、廃仏に及んだのだが、その兆しが早くもこの圓仁の日記に見られた。

 会昌2年、いよいよ廃仏の始まりである。以下、圓仁日記から主な経過を時系列で辿ることにする。

 会昌2年3月3日、李徳裕宰相は僧尼に関する取締の法規を定め天子に奏上した。勅によって保(隣組のようなもの)に所属しない無登録の僧は寺から追い出し、すべての寺は年少者である童子どうじ・沙弥を置くことを許さないという。

 会昌廃仏の始まりである。この9日後の圓仁の日記には、ウイグルの軍が唐内に攻め入ったのを受け、長安城内のウイグル人数百人が斬殺され、多くの州や府でも同様の処分があったと出て来る。訳者は、武宗の道教への偏信とともにこのウイグルの反乱も廃仏の因となったようだとしている。圓仁の日記では、ウイグル軍は翌年9月に唐軍に大敗したとあり、唐はウイグルの反乱に少なくとも1年半ほど悩まされたことになる。

 圓仁と弟子の惟正、惟暁、従者の丁雄万については、彼らが滞在する資聖寺に功徳巡院から以下のような通牒があった。

 3月13日、保に入っていない外部の客僧は寺から外へ追い出せと言う指令が出ているにもかかわらず、その圓仁らはいまにいたるまで独断で勝手には寺の外に出て行っていない状態にあり、帰国を希望している。仇士良軍容(軍事長官)の決定に従えば彼らを外に追い出すには及ばない、以前通りに管理せよということである。

(通牒は3月10日付。なお圓仁は前年の8月7日に日本に帰国したいのでよきおとりはからいをという書状を功徳使に提出していた)
 5月25日、巡院から仏教組織の揚化団に属する諸寺へ功徳使からの通牒として、「外国の僧がいる場合、どこの国から来たか、長安に到着した年月、現に居住している寺の名、外国僧の年齢、何の才芸に通じているかなどの点について僧の名前を付けてお上に提出せよ」という通達があった。
 5月29日、勅により宮中の内道場に供奉する高僧の制度が廃止された。該当の高僧は左右両街でそれぞれ20名。
 6月11日、天子の誕生日。禁裏で仏教の大徳(高僧)と道士が相対し御前論議が行われた。二人の道士が優れているとして紫衣を賜った。僧は誰も紫衣を着られなかった(仏教側の負けということ。以後、同じような御前論議が何回かあったが、どの回も道士にのみ紫衣が与えられ、最終的には仏僧は呼ばれなくなった)。
 10月9日、以下の勅が出た。「全国の僧および尼僧で焼煉?呪術、禁気?に通じていたり、軍を逃走し、身体に笞打ちの刑に処せられたあざのある者、いれずみのある者、技術を持ちながら役に立たせないでいる者、以前に姦淫の罪を犯し妻を養って戒律を守らない者、以上の者はいずれも強制的に還俗させる。僧尼で銭や物および米穀・田園・荘園を持っている者は、官に収めさせる。……功徳使はすべての寺に通達を出し、僧尼が外出することを禁止し、寺の門を閉じさせる」。
 全国でこうした取締や制限が行われたが、長安城内では仇士良軍容が勅命を拒み、百日間の猶予を願い出て許されたが、僧尼が寺の外に出ることは禁じた。

 会昌3年(843)正月1日、左街功徳使の上奏では資財が惜しくて自ら還俗を希望する僧尼は1,232人、右街功徳使の上奏では2,259人。
 又、以下の勅も。僧は男の奴隷を一人、尼僧は女の奴隷を二人まで手元に置いてよい。僧尼が留めている奴婢ぬひでもし武芸の能力があったり、薬の処方や術に通じているなら留めおいてはならない。……
 2月1日、功徳使から僧尼で還俗した者は、寺に入ったり寺内にとどまってはならないという通牒があった。また保(隣組)から追い出された僧尼は長安城内に住みとどまったり、城内に入ることを禁じた。
 4月中旬、勅がくだり全国の摩尼まに教の布教者を殺させた。ウイグル人が摩尼教を崇び重んじていたというのがその理由。
 6月13日、東宮職長官の韋宗卿が「涅槃経疏ねはんきょうしょ(涅槃経の注釈書)」20巻を天子にたてまつったが、天子はこの経疏を焼き棄ててしまった。その上、命じてさらに韋邸にある経疏の草稿を探し求めて焼いてしまった。その際の勅文、

 韋宗卿に勅す。かたじけなくも高位に列する者は当然儒教の精神に従うべきである。しかるに邪説に溺れるのは、これこそ怪しげな気風を扇動することであり、……全く中国の三王五帝の趣旨に反している。まして儒教の聖人をけなすなど、本来禁じしりぞけるべきことなのにもってのほかのことである。外国の教えである仏教をどうしてはやしたて宣伝するのであるか。……左遷するがそれでも寛大なはからいといえよう。成都府の尹(府の長官)に任じるから直ちに出発せよ。……中国の民衆が長くこの悪い習慣(仏教への信心)に染まってしまうことは断じて許し難い。……

(ここでは儒教軽視を理由に仏教を攻撃しており、道教に関しては触れていない。) 
 6月27日から29日にかけ、長安城の内外で失火が続き、27日の火事では城内の商業地区東市で4000余軒が焼失した。圓仁はこれに関する記事の中で、これより先に勅により内裏にある仏教の経を焼き棄て、さらに仏像、菩薩像、天王像などを土中に埋めたと書いており、これらの火事が廃仏への報いだったことを強く示唆している。
 7月2日、圓仁は、「居住している僧房には圓仁、弟子の惟正、惟暁、従者の丁雄万の他には誰もいない、もし後になって誰かを僧房内にかくまっていると告発されたら、重い罪に処してほしい」という文書を書いた。(誰宛に書いたかは書いていない。)弟子の惟暁が7月25日に死亡。前年12月1日から病気だったという。
 8月13日、圓仁は日本に帰国する許可を求めるため、近衛軍将校の李元佐のもとを訪ねた。この人物はもと新羅人、仏教の信者で、相談に乗ることを承知した。
 9月13日、勅により、左右両街の功徳使が長安城内に住む寺僧の整理に乗り出し、役所の名簿に登録されていない者はすべて強制的に還俗させ原籍地に帰した。最近になって寺に住むようになった僧で、事情がはっきりしない者は全部捕まえられ、京兆府では新たに頭髪を布などで包み隠していた僧を逮捕し300余人を打ち殺した。

 会昌4年(844)3月、「仏牙(仏の歯牙)を供養することを許さない」との勅が下った。また別の勅では「代州(山西省)の五臺山と泗州(安徽省)の普光寺、終南山の五臺(南五臺)、鳳翔府(陝西省)の法門寺には寺の中に仏の指骨があるが、いずれも供養し巡礼することを許さない。背いた者は僧俗を問わず20回のむち打ちの刑にする」とあった。これにより上記4カ所の霊場は人の往き来が絶えた。そしてそれらの寺にいる僧をきびしく調べ、官の証明書のない者はいずれもその場で打ち殺し、姓名を記録し天子に報告させた。
 宰相の李紳と李徳裕が上奏して正月・五月・九月の三つの長月(長期潔斎の月)を廃止し、道士の教えにならって新たに三元日を制定した。正月を上元、六月を中元、十月を下元とするもの。圓仁は、唐国の恒例では三長月はものいみの月で殺生を許さないことになっていたが現天子は少しも守らなかったと書いている。
 天子は、河北道潞府の反乱軍を打ち破ろうと内裏に九天(中央と八方の天)道場を作らせた。毎日昼も夜も24時間にわたり81人の道士が道教の行法によって元始天尊を祭った。この祭りは4月1日に始まり7月15日まで休むことなく続けられた。
(以下、圓仁の武宗皇帝評)

 現天子武宗はひとえに道教を信じて仏法をにくむ。僧の姿を見ることを喜ばず、仏法僧三宝の教えを聞きたがらない。……現天子は経文を焼き、仏像を破壊し、多くの僧を宮中から追い出して帰属する寺に帰してしまった。そして道場内には道教の天尊と老子の像を安置し、道士に命じて道教の経典を読ませ道教の術を修練させている。
 道士が天子に上奏して言うには、孔子の説として“李氏は十八代で盛運がまさに尽き、黒衣の天子が出て国を治めるようになる”と言われております。臣らがこれをひそかに考えて見ますと、黒衣とは仏僧のことであります、と。皇帝はこのことばを真に受け、これがもとで僧尼をにくみ嫌うことになったのである。思うに李という字を分析すると十八子となり、唐皇室の李家は現天子で第18代に当たるから、李家の運が尽きて黒衣が位を奪うこともあろうかとおそれているのであろう。

 功徳使が各寺に、勅に従い僧や尼僧が市中に出ている場合は正午前に打つ供養の鐘が鳴るまでいてはならないという通達を出した。
 2月、天子は女子の道教寺院・金仙観にいる美貌の女道士が気に入り、金仙観を改築させ、ひんぱんにここにでかけるようになった。
(会昌4年になってからここまでの記録は時系列が乱れ分かりにくい。記憶を辿って書いたのか?)
 7月15日、盂蘭盆会。勅があり各寺の仏殿に供養している花や造花の芍薬などを全部道教の興唐観内に運ばせて道教の祖・天尊を祭らせ、天子が行幸した。圓仁は、人々は「仏へのお供え物を奪い鬼神を祭るとは何ごとか」と天子の横暴を怒り罵ったと書いている。
 全国の山林寺院、普通院、仏堂などで二百間未満のものと公的に登録されていない寺は破壊し、そこに属する僧や尼僧はすべて強制的に還俗させ雑役に充てろという勅が下った。長安城内にある他州の大寺に匹敵する寺でも例外とされなかった。全国の僧の墓碑などもみな破壊された。今年になり、多くの寺や道教寺院に雨乞いの祈りをさせたが、道士に限り恩賞が与えられ、僧尼に対しては何もなかった。
 8月中ごろ、太后が亡くなった。太后は宗教心が篤く仏法を信じていたので、僧や尼僧の取締りの度毎に天子にいさめの忠告をしたので、天子により薬入りの酒で毒殺された。
 9月、道士の長趙帰真らが天子に対し、仏陀の“不生”の教えをくさし、仙人の作った不老長寿の薬を服用すれば長生きができる、宮廷内に神仙の台を築き、登仙されますようになどと申し上げた。
 10月、勅により全国の小さな寺を破壊し……鐘は道教寺院に送らせた。つぶされた寺の僧尼で行いが粗野だったり戒律を守らない者は、老若を問わず全員還俗させて原籍地に帰らせ雑役の員数に加えた。長安城内では33の小寺がつぶし壊され、その僧尼は整理された。

 会昌5年(845)正月3日、天子が南郊の壇で拜天の儀式を行ったが、僧尼はその様子を見ることを禁じられた。天子は道士に不老長寿の仙丹を調剤させたが、道士の長趙帰真は「この国には普通の仙薬はあるが仙丹は全く無い、チベットにはある」と答えた。また道士の具申したこの世にはあり得ない仙丹の薬材を長安城内の薬屋で探させたが全く見当たらなかった。道士の勧めで3千人の兵士を動員し神仙の台を築き始めた。
 3月3日、仙台(神仙の台)が完成、高さ150尺(約47メートル)、一番上は円形で7間の宮殿の基底と同じ広さ。まるで大きな山のよう。圓仁の日記では、ばかばかしい話しだ、皇帝の意にかなうものができ、7人の道士に台上で仙薬を調合して飛化し仙人になる術を行わせたとある。
 勅が下り、全国の寺院は荘園を置くことが許されなくなり、奴婢の数、銭、物、穀物の数、絹帛の反数などを詳細に調べ報告させた。長安城内の寺院の奴婢の身分を三等級にわけ、特技のない若い者は売って貨幣に替え、老弱者は官の奴婢にした。全国のすべての寺で年40歳以下の僧および尼僧は全員強制的に還俗させ、原籍地に帰させた。
 天子が仙台の台上で道士に対し、一人として登仙した者がいないのはなぜかと問いただしたのに対し、道士は「国の中に仏教と道教の二つがともに行われており、黒衣(仏僧)の気がまさって登仙への道を妨げている」と答えた。僧尼に対する取締りはそれ以後いっそうきびしくなった。軍隊が取り調べに当たり、証明書のない者の家具を没収、証明書に汚染のあった者については証明書を没収し、すべて還俗させた。大衆は口々に「身分証明書を還さないというのは僧尼を寺に在住させないという謀略で、物を没収するのは寺院を破壊しようとする前兆だ」と言った。
 皇帝は「仙台を祭る日に食事会を設けて祝賀しようといつわり、すべての左右両街の僧尼を集合させ、その頭を切り、仙台構築の際に土を搬出した跡の穴を埋めるべきだ」と言った。
 圓仁が功徳使に書状を提出して還俗を請願、日本に帰還させてほしいと願い出た。
 功徳使が全国一律に僧尼を年齢別に還俗させる順序、方法を決めた。
 天子の勅により、4月~5月にかけ、年齢40歳以下の僧、尼僧、次いで4月16日から50歳以下の僧尼、5月11日からは50歳以上で証明書を持たない者の還俗が一斉に行われた。
 外国の僧はこの適用を受けていなかったが、正式の証明書がなければ同様に還俗させ、出身国に帰せ、これに従わない者は死刑にするという勅があった。圓仁、惟暁も証明書を持っていなかったので、このことを聞くやすぐ旅支度にかかり、写し取った教論、密教儀軌、曼荼羅などを荷造りした。ただ、圓仁はこの災難がなかったなら、帰国するきっかけもつかめなかっただろうと述懐している。
 5月14日、京兆府に往き旅行証明書の交付を願い出、旅行証明書二通を得た。圓仁が帰国の請願を出したのは会昌元年からこれまで合計百余回に及んだという。圓仁は廃仏と還俗という災難に遭ったことを悲しむ一方、帰国が可能になったことを喜んだ。

帰国の途へ

 5月15日、還俗し頭を包んだ高僧など、長安で親しく交わった人々に別れを告げ、この日の夕刻長安城を出た。李元佐侍御(左軍中尉の側近の将校で、仏法を信じ、元は新羅人。圓仁の帰国の手続きの面倒を見るなど親交があった。)は見送りに来てこう言った。

 あなたの仏弟子李元佐は輪廻多生してお会いできてしあわせでした。和尚が遠く日本からやって来られて仏法を求める時に遇うことができ、数年の間供養をいたしましたが、心はまだ十分満足しておりません。一生和尚のお近くを離れ難く思っております。和尚はいま天子の災難に遇って日本に帰って行こうとしています。この弟子が考えますに、今生ではまさに再びお会いすることはあり得ないでしょう。来生は必ず諸仏のおられる浄土でまた今日のように和尚の弟子となりましょう。和尚が成仏されるときはどうかこの弟子のことを忘れないで下さい、云々。

 5月16日、早朝、李元佐らと別れを交わし、同行の唐僧19人と一緒に出発した。黄河、汴河沿いに東へ、9年前唐に到着後最初に滞在した揚州へ向かった。圓仁は揚州の手前の泗州で、天下に著名な普光寺でも荘園、銭、物、奴婢それらがすべて官に没収され、寺の中は寂寥として人の往き来はなく、役人は寺を破壊しようとしていると廃仏による惨状を記している。揚州には長安を出てから一ヶ月半足らずでたどり着いたが、ここでも廃仏による惨状を目の当たりにし、城中の僧尼が頭を包み僧であったことを隠し原籍地に帰るのを目撃した。
 その後、北へ向かい、楚州、海州で渡海を試みたが許可されず、海沿いの難路を文登県に向かった。文登県はかつて五臺山へと出発する起点となった地だ。文登県に着いたのは8月24日、長安を出てから三ヶ月あまりの旅だった。圓仁は文登県に到着時の模様をこう書いている。

 山を越え野を渡って衣服はぼろぼろに使い果たした。県の役所に行き、県令(県の長官)に会い、県の東端にある新羅居留民の世話所に行って食べ物を求め乞うてただ命を延べつなぎ、その間に自ら舟を求めて日本国に帰らしてほしいと請願した。長官は願いの文書に従って旅行証明書を出し新羅居留民の世話所に送るようにした。

 長安出発後ここまで、また日本に出発までも苦難の旅だったが、その模様はほとんど省略した。
 9月には(日付なし)州庁から「その僧らはしばらく逗留するにまかせ、もし日本に渡海していく舟がみつかったならば自由に出発させてよい」という文書が来た。
 この間にも「全国の手押し一輪車の使用を禁止する。この禁止条例が出たあとで手押し一輪車を押して行く者があったら直ちに死刑に処す」という奇妙な勅が出た。圓仁はこの勅について、天子が道士の教えを信じるあまり、手押し一輪車が道の中心部を破損するので、それでは道士が安心できまいということなのか、と解釈している。また国中の猪、黒犬、黒い驢馬、黒牛などを絶滅してしまえという勅もでた。これについては道士が黄色い服を着ているので黒色が多いと黄色が滅ぼされてしまうと怖れたのだろうかと解釈している。圓仁は本来貧しい僧も尼僧も還俗した後では着る衣服もなく食べる物とてなく非常に苦しみ窮することになったと心配している。
 圓仁らは新羅人の通訳で軍事長官の張詠大使のはからいで、しばらく曾て住んだ赤山院の荘園の中で住むことになった。赤山院の寺は破壊尽くされていて寺内には泊まれるような所はなかったのだ。

 会昌6年(846)4月15日、天子が崩御してすでに数ヶ月になると聞いた。(実際には3月23日)(武宗の死因は丹薬の飲みすぎで体調を崩したことによると言われている。)
 京都大学東洋史編纂会編の新編『東洋史辞典』によれば、会昌の廃仏により4万余の寺院を廃止し、26万人余の僧尼を還俗させ、寺田数千万頃、奴婢15万人を没収したという。更に仏舎は公共事業場に、仏像と器具はすべて改鋳して銭または農具にしたという。

 5月22日、新天子は5月中に大赦を行った。同時に勅があり、全国の州ごとに二つの寺を、節度府ごとに3カ所の寺を造ることを許可した。寺ごとに50人の僧を置き、昨年還俗した僧で年齢50歳以上の者には元どおり出家を許可した。武宗のとき廃止された三長月を再び定め、元通り家畜類の殺生を禁じた。

 仏教復興の詔である。新帝(宣宗)の即位により廃仏は終わった。

 会昌7年(847)正月17日、年号を改め大中元年とした。
 大中元年閏3月、圓仁らは張詠大使が造った船で文登県から帰国の途につこうとしたが、張大使が讒言にあったため計画は挫折した。そこで南の寧波から日本船で帰ることにし、4月12日、文登県を出発、その後舟で楚州に着いたが、いろいろ行き違いがあり文登県に舞い戻った。ここから渡海することになり、食糧の買い入れなどの準備をした。
 8月13日、圓仁は髪を剃り、再び墨染めの衣を着た。僧形に戻ったのだ。
 圓仁が文登の南の赤山から日本へと大海を渡り始めたのは9月2日の正午だった。その後の航海は比較的順調で、大宰府の鴻臚館の前に着いたのは9月18日だった。

 『行記』は「12月14日、叡山から南忠阿闍利が(大宰府)に着いた」という記事で終わっている。
 圓仁はこれで10年間に及ぶ唐への旅を終えた。

 本書には付録として、圓仁が唐から帰国時に持ち帰った経論などの一覧が掲載されている。

 訳者及び多くの研究者によれば、『行記』についての最高の研究書は小野勝年博士の『入唐求法巡礼行記の研究』全四巻(1964~1969年にかけて刊行)であり、一方アメリカの駐日大使を務めた歴史学者ライシャワーの英語による『行記』の全訳『Ennin’s Diary: The Record of a Pilgrimage to China in Search of the Law』(1955)は圓仁の業績を広く世界に知らしめたものとして有名だ。
 そのライシャワーは、本書の巻末に附された訳者との対談の中、『行記』の価値について次ぎのように語っている

 マルコ・ポーロの方(『東方見聞録』)は本が出るとすぐ有名になり資料にされたが、圓仁の本はわずか二部か三部筆写されただけで永い間知られていなかった。圓仁が中国に渡ったのは唐代であり、マルコ・ポーロは元時代だから400年以上も圓仁の方が早い。これ一つをとってみても圓仁の意義は大きい。しかも圓仁の日記は彼自身が毎日毎日見聞し観察したことを事細かに記録したもので非常に正確です。ポーロの方は明らかに彼自身の書いたものではなく、漠然とした印象をほかの人に語ったことが書物になったもので、正確さという点では比較になりません。
 もう一つ重大な違いは、マルコ・ポーロは外部の征服者に雇われていた官吏みたいなものであり、中国を内側から見ることができず仏教の知識もなかった。それと対照的に日本人の圓仁は中国の仏教や歴史もよく知っていた。また実際に中にはいってくわしく見てきたことを書いている。……私としては日本人がいままで日本人である圓仁に関心をもっていないことに驚いています。……

『入唐求法巡禮*行記校注』書影『入唐求法巡禮*行記校注』書影

 中国でも『行記』が三種出版されており、多くの校注本も出されているようだ。
 その中の1冊『入唐求法巡禮*行記校注』(中華書局2019年)が筆者の手元にあるが、その序文では『行記』は英語、フランス語、ドイツ語などに翻訳されており、中でもライシャワーの英訳本が最も有名だとしている。また各種の訳注本の中では、奈良国立博物館の小野勝年博士の日本語の訳注本が最も規模が大きい巨著で、この校注本でも主に小野博士の訳注本に依ったとしており、小野博士の略歴も紹介している。

*「禮」の字形は、左の書影にあるとおり「ネ+豊」

コラムニスト
横澤泰夫
昭和13年生まれ。昭和36年東京外国語大学中国語科卒業。同年NHK入局。報道局外信部、香港駐在特派員、福岡放送局報道課、国際局報道部、国際局制作センターなどを経て平成6年熊本学園大学外国語学部教授。平成22年同大学退職。主な著訳書に、師哲『毛沢東側近回想録』(共訳、新潮社)、戴煌『神格化と特権に抗して』(翻訳、中国書店)、『中国報道と言論の自由──新華社高級記者戴煌に聞く』(中国書店)、章詒和『嵐を生きた中国知識人──右派「章伯鈞」をめぐる人びと』(翻訳、中国書店)、劉暁波『天安門事件から「08憲章」へ──中国民主化のための闘いと希望』(共訳、藤原書店)、『私には敵はいないの思想──中国民主化闘争二十余年』(共訳著、藤原書店)、于建嶸『安源炭鉱実録──中国労働者階級の栄光と夢想』(翻訳、集広舎)、王力雄『黄禍』(翻訳、集広舎)、呉密察監修・遠流出版社編『台湾史小事典/第三版』(編訳、中国書店)、余傑著『劉暁波伝』(共訳、集広舎)など。
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