児童詩誌『サイロ』50号記念詩集+創刊50周年記念詩集+サイロ発刊700号記念「えんぴつの夢」(いずれもサイロの会編)
月刊の児童詩誌『サイロ』が北海道の十勝・帯広の地で創刊されたのは1960年(昭和35年)1月、2023年1月号でその誌数は757号を数える。
誌名『サイロ』の由来についてはこう述べられている。「北の大地・北海道十勝に点在するサイロ。豊かな飼料を蓄えているサイロを、北方の詩心の宝庫にも、その源泉にもなぞらえて、詩誌名を“サイロ”とした」。
畑作と酪農を主産業とする広大な十勝平野で、そして豊かな自然と十勝晴れと称される澄みきった青空の下で、のびのび、溌剌と生きる小中学生の伸びやかな詩心に満ちた詩を花開かせているのが『サイロ』だ。筆者は『サイロ』の創刊翌年の1961年から5年間、帯広市に住み、『サイロ』の存在を知った。その頃の月刊誌の『サイロ』は度重なる家移りで散逸して手元にないが、幸い『50号記念詩集』は、カバーは破れてはいるがまだ手元に残っている。
その後も、100号、20周年、30周年、40周年、そして筆者の手元にある50周年、700号と節目ごとに記念の冊子を出した。その間、北海道文化賞、地域文化功労者表彰(文部科学大臣表彰)、文化庁長官賞など数々の賞を受けてきた。
『サイロ』は帯広市の菓子店・千秋庵(現・六花亭)の経営者・小田豊四郎が福島県郡山市の同業者が発刊していた詩誌『青い窓』に刺激を受け、帯広にもこんな詩誌があればよいと考え、十勝の教師たちと語らって発刊することにしたものだ。
『サイロ』では、十勝の広尾町下野塚に開拓に入っていた山岳画家・坂本直行氏が表紙絵を創刊以来担当し、これも評判だった。坂本氏はその役割を引き受けるに際し、あくまで謝礼なしであること、自分は元気なうちは描き続けるから、詩誌の発刊を途中で投げ出さないことという条件を出したという。
筆者は『50号記念詩集』は帯広在住時に、『創刊50周年記念詩集』はたまたま熊本の書店で見つけ、『発刊700号記念 えんぴつの夢』は2018年秋、帯広を再訪した時がたまたま発刊の日に当たり、それぞれ購入した。
『50号記念詩集(昭和39年2月)』から
『50号記念詩集』には小学校一年生から中学三年生までの児童が作った詩60編あまりが掲載されている。その中から
春
やまの したから
はるが のぼってきたよ。
ふくじゅそうを
さかせながら
がっこうの がけまで きたよ。
一年 すがわら しょう子
これは『50号記念詩集』の冒頭に掲載されている詩だ。これは筆者がもっとも好きな詩だ。我が家では「のぼってきたよ」が福寿草の代名詞にもなった。例えば、家の中では「おーい、のぼってきたよが咲いたよ」などと呼びかけあったりした。この詩については、『創刊50周年記念詩集』で、作家の池澤夏樹も取り上げ、高く評価している。これは後に紹介。
初めに述べたように、十勝は畑作と酪農の盛んな土地で、昭和30年代では畑作の担い手はまだ農耕馬であり、酪農では勿論牛が中心の生活だ。
牛ぼい
きょうは 十五夜だ。
ぼくは 牛を ぼいながら
空を 見たら
まあるい まりのような
月が 雲の下から
少しずつ 出てくる
北に南に西に 明るく
光っている ほしが
東の空の 光りでうすくなる
まだうちの人は 畑から
かえって こない
畑で 仕事をしているんだな
もぅすぐ とうさんたちは
明るい月の道を 歩いて
かえって くるんだろうな
四年 吉川 孝則
本編には掲載されていないが、巻末の「『サイロ』五十号をかえりみて」という掲載作品指導者の座談会の中では、「子馬」という詩が合評されている。
子馬
「さああと四、五日だぞ」
とうさんは、
ひとりごとのように小声でいいながら、
子馬に草をやっている。
子馬は町の当才市で
三万円に売れるのだって。
今年の四月十五日
朝起きると
「紀子、子馬が生まれたぞ」
とにいさんがいったので
急いで馬屋に行ってみた
小さい細い足をふんばって立っている
母馬はやさしい目をして子馬を見ていた。
それから七ヵ月──
チュッチュッ
お乳をすっていた子馬
ピョンピョン
はねていた子馬
畑の作物をくったり
ふんだりして
しかられた子馬
手のひらの塩をなめたり
顔をなでてやると
よろこんだ子馬
それがあと四、五日で遠い所へ
知らない人につれて行かれるの。
かわいそうなような気がして
じっと子馬をみつめた。
六年 高井 紀子
勿論、詩集には十勝の自然や自然現象を詠んだ詩、家族との幸せな生活を詠んだ詩、学校生活を詠んだ詩など素朴な詩も盛りだくさん掲載されている。
『サイロ 創刊50周年記念詩集』
次は『サイロ 創刊50周年記念詩集』。
この詩集には50周年を祝って、詩人・谷川俊太郎の「おめでとう〈サイロ〉」という詩と、自身帯広市出身の作家で詩人の池澤夏樹による「詩は人と人をつなぐ 『サイロ』五十年の歴史に寄せて」という文章が寄せられている。
おめでとう〈サイロ〉 谷川俊太郎
長いね五十年
でも永遠から見ればたったの一秒
その一秒に詩がかくれている
くしゃみにおならにパチンコの音
クジラの歌や潮騒
コトバになるのを待っている大きいね地球
でも宇宙から見れば砂の一粒
その一粒に詩がかくれている
川の流れに木々のそよぎ
ヒトの涙や銃声が
コトバになるのを待っている小さいね人間は
でも心のなかは限りない
森を抜け砂漠を歩き海を渡って
コトバの地平を越えて行くと
なつかしいサイロのそばで
未来の自分が手をふっている
池澤夏樹の「詩は人と人をつなぐ 『サイロ』五十年の歴史に寄せて」はちょっと長いので、一部を抜き取って紹介する。
「さっき言ったように気持ちは心と世界の出会いから生まれる。具体的にはこんな風だ──」
こう述べた後、池澤は、筆者が『50号記念詩集』で取り上げたふくじゅそうを詠んだ小学校一年生の詩『春』を評して次のように述べている。
この詩が伝えたいのは春を迎えた感動だけれど、それをただ「春が来て嬉しい」と言ったのでは足りない。それだけでは会話に紛れ、日常の中に流されて消えてしまう。これは特別な気持ちだ、というところを形にしなければならない。そのために、気持ちが生まれた源まで戻ってみよう。世界との出会いに立ち返ると、その時、世界は「ふくじゅそう」の姿をして現れたことがわかる。具体物の名が気持ちを詩として立たせるのだ。……
また、やはり小学一年生の「ははのひ」どんかち つった
いっぱい
かあちゃんが よろこんだ
てんぷら して たべた
ははのひだもんなという詩を読んで、自分も幼い時にそういうことができたら、としばしば感慨にふけるのだ。
その時ぼくは、昭和三十五年に帯広市清川小学校の一年生だったにいゆきおさんと自分を重ねている。
この一冊に入っているのは、「サイロの会」が営々五十年に亘って集めて雑誌の形で刊行してきた子どもの詩の精髄である(何もかもがあわただしく変わる時代に、五十年の持続はそれだけで偉業である。その成果をぼくたちはこうしてずっしり受け止めている)。……
今はもう子どもではない詩人たちよ。幼い頃に戻って、汚れていない世界ともう一度会おう。
「創刊50周年記念詩集」に掲載された学校生活の中の詩を二つ紹介しよう。実はこの詩集には、「せんせい(先生)あのね」というコトバで始まる小学一年生の二つの詩が掲載されている。どちらにしようか迷ったが短い方を。
みずたまり
せんせいあのね
わたしが
みずたまりをみていたら
わたしのかおがうつったの
かぜがふいてきたよ
わたしのかおが
しおしおとなって
おばあさんになったんだよ
一年 きたがわ ちあき
次ぎはユーモアのある詩。
牧師さん
国語の時間
原始林の聖者
というところをやった
先生が読んだあと
「牧師とはどんなのですか」と
みんなに聞いた
憲一君が
「牧場のばんぺいをしている人です」と
ほんきな顔でいった
先生が「ばかやろう」と
大きな声で笑いながらいった
みんな「アッハッハ」と笑った
ぼくもおかしくて笑った
憲一君はへんな顔をして
「どうしてよ」とみんなを見た
先生がはなしをしているときも
くすくす笑っている人もいた
僕もおかしくてかなわなかった
そのうちベルがジーッとなった
みんな一せいに
「アッハッハ」と笑った
憲一君も「アッハッハ」と笑った
六年 早坂 猛
あとがきによると、創刊50周年の2010 年までに寄せられた詩は約20万編、掲載された作品は1万1千点以上になるという。『サイロ』では山岳画家・坂本直行氏の表紙絵が創刊以来象徴の一つとなっていたが、氏は1982年に亡くなった。がその後も氏の書きためていたスケッチなどが表紙を飾ってきた。
この『50周年記念詩集』の巻頭と巻末には氏の直筆の「表紙の言葉」、裏表紙には『サイロ』のための終筆となった“タモギタケ”の絵が配してある。
『サイロ 創刊700号記念 えんぴつの夢』の「表紙絵 作者から」によると、坂本直行氏が亡くなってからも続いた氏の表紙絵は、死後27年が経ち、スケッチブックからの充用も尽き、2010年2月号からは真野正美氏の担当に変わった。やはり無償のようだ。
真野氏の表紙絵は坂本氏のものとは一変し、色彩豊かに、どの絵にも元気な十勝っ子が何人か描き込んである。真野氏は四季それぞれに十勝や道内の各地を巡って丹念なスケッチをして絵を完成しているようだ。
創刊700号記念にも小学一年生の「せんせい あのね」あるいは「あのね 先生」で始まる詩が三つ載っている。みなほほえましい詩だ。それに今まで見かけなかったトラクターという単語も散見された。十勝の農業形態が変化を遂げていることがうかがえる。だが、ここではそれらではなく、とてもリズミカルな詩を一つ紹介しよう。
春が来た
春が来た
トットットトト春が来た
お花をつれて春が来た
春が来た
タタタタタッタ春が来た
楽しさつれて春が来た
春が来た
冬を押し上げ春が来た
ちょっぴり冬がこいしいけれど
仲間をつれて春が来た
六年 植原 杏羽
さて、父・小田豊四郎の後を継いだ長男の豊氏は、700号記念号に「杞憂に終われば良いが……」というちょっと気になるタイトルのあとがきを寄せている。それには次のように書かれている。
……児童詩誌サイロが創刊50周年の時も、発刊600号の時も、本当にサイロはこの土地に必要なものなのか。ないよりあった方が良い程度のものじゃないのか、と問答が続きました。……この度の記念集発刊に先立って、管内小学校の校長先生宛に「希望があれば進呈したい」とお知らせしました。しかし残念な事に94校中13校だけでした。校長先生が生まれる前からあったサイロが、教育の最前線で今尚こんな状態であることも事実なのです。……将来に向けて体裁は整いつつありますが、ひょっとして投稿ゼロの月が……と脳裏をかすめるのです。杞憂に終われば良いのですが、節目の年を迎える度に晴れないのです。
長い歴史を振り返ると、文明が生活に根づく、いわゆる文化に昇華するまでには、もっともっと時間が必要だと言われているように考えるこの頃です。
この点について問い合わせると、サイロの会事務局の中山詩子さんからこんな内容の返事があった。
事務局の立場で申し上げますと、幸い投稿ゼロの月はありません。コロナで学校が2か月近く休みになった期間でも、作品はサイロに寄せられました。
灯りを絶やさぬよう、今後も活動を続けてまいります。
令和4年6月号は、発刊750号特別企画として、投稿作品を選考せずに全て掲載した特装版として発刊したという。それには小中学生の230編ほどの詩が掲載された。
あまり詩心のない筆者だが、『サイロ』のことを多くの人に知っていただきたく、そして『サイロ』が、これからも息長く素晴らしい子どもの詩を届けてくれることを願ってこの一文を草した。