私の本棚発掘

第13回

中国中央電視台ドキュメンタリー『河殤』+本書編輯組『「河殤」宣揚了什麽』

第13回

◎中国中央電視台テレビドキュメンタリー『河殤』1988年6月
◎本書編輯組『「河殤」宣揚了什麽(「河殤」は何を宣揚したのか)』(中国広播電視出版社1990年1月)

台湾版『河殤』の書影台湾版『河殤』の書影

 『河殤』とは、1988年6月11日から28日まで各回45分、全6回のシリーズで、中国国営の中国中央電視台(テレビ局)から放送され、同年8月にも再放送されたテレビドキュメンタリー番組だ。そしてこの番組を批判する文章を集めて出版されたのが『「河殤」宣揚了什麽』だ。
 番組が放映されたのが1988年、批判本が出版されたのが1990年、この間には1989年6月に自由と民主を求める学生たちを武力で弾圧した天安門事件とそれに伴い開明的指導者として知られた趙紫陽総書記(当時)の失脚があった。つまりこの時期には中国の政治、社会が大きく保守へと舵が切られ、僅かでもあった自由や民主の空気が失われるという大きな歴史の転換点があったのだと言えよう。それを象徴するのが『河殤』の放映であり、『「河殤」宣揚了什麽』にみられるようなそれに対する厳しい批判だったと言えるだろう。
 本コラムでは『河殤』や『「河殤」宣揚了什麽』それぞれの内容を紹介し、読者が中国の現今の状況を考える一つの手がかりとなればという思いで執筆した。

日本語版『河殤』の書影日本語版『河殤』の書影

 先ず『河殤』についてだが、『河殤』の放映直後から脚本の主執筆者である蘇暁康、王魯湘の二人によって脚本をそのまま書籍化した本が中国内外で出版されており、日本語版も辻康吾氏らの翻訳によって弘文堂から刊行されている。本コラムでは主として台湾の金楓出版社・風雲時代出版社による『河殤』から引用し、日本語版も一部参照した。
 『河殤』というタイトルについてだが、「河」は中国語ではこの一字で黄河を意味し、「殤」には成年に至らず死ぬ、戦死する、犠牲になるという意味がある。この2文字を日本語には何と訳すだが、「黄河を悼む」、「黄河への挽歌」などが考えられるが、弘文堂の日本語版ではそのまま『河殤』とされている。一方『「河殤」宣揚了什麽』の中で、元文化部副部長の林黙涵は中華民族の死亡即ち「黄河の死亡」ということだと指摘している。辻氏も訳者あとがきの中で指摘しているように、『河殤』は中国が誇る中華文明に対する全面的否定に始まり、間接的とは言え毛沢東を批判し、建国以来の社会主義体制や政治体制を厳しく批判している。そういう流れの中で筆者は直感的に、日本語では「黄河は死んだ」とするのがよいとも考えた。
 

アメリカ亡命後の蘇暁康アメリカ亡命後の蘇暁康

 主執筆者の蘇暁康は前掲本に「全民族の反省の意識を呼びかける」と題する前書きを寄せ、シリーズの構想についてあらまし次のように述べている。

 「黄河というテーマ特有の重み、そして豊富な内容は決してシルクロードや長江が及ぶものではない。目下の改革の大きな流れの下で黄河の作品を作るには、このテレビ作品の放映が民族の歴史、文明、運命について全面的に思考させるものでなければならない。ただそのようにしてこそ、黄河の重みに相応しく、時代の要求にマッチさせることができる。これは文化、哲学の意識に立って黄河を把握するテレビ政論番組の試みだ。……
 国土崇拝、歴史崇拝、祖先崇拝の古い観念を打破し再考するという角度から、中華民族の古めかしい黄河文明及びその現代における運命を表現し、各種の理論、思考、情報を大量に取り入れた。……黄種の文化は今日すでに挽回不可能なまでに衰微し、崩壊した。中華民族に関する省察は種族文化の選択という最も深刻な命題に及んでいる。……
 二十世紀の改革の大冒険の面前で、我々は如何なる勇気、胆力と識見、それに反省の意識を準備しようとするのか?これこそ我々が『河殤』を撮った初志の一端だ。

『河殤』は次の6集から成っている。①夢を求めて、②運命、③光輝、④新紀元、⑤憂い、⑥紺青。各集の中には古今東西にわたる歴史的事象や識者のコメントが豊富に盛り込まれているが、以下の各集の紹介ではそれらをほとんど省略し、柱となる思想的文言を重点に取り上げた。

第一集 夢を求めて
 この民族のすべての苦痛は文明の衰微にある! 我々はもう中国の古めかしい文明の運命を顧みることを回避してはならない。我々中華民族の根はどこにあるのか?多分、黄色い皮膚の中国人はみな一つの常識を知っているはずだ。中華民族は黄河が育んだものだ。ならばこの大河はどのように我々民族の性格を作り上げたのか?それはまたどうやって歴史的に我々の文明の運命を規定したのか?これは恐らく一人一人が真剣に深く考えたことがなかったことだろう。
 黄色い水、黄土、黃種人、これらには何とも神秘的な自然のつながりがある。黄河、それはほとんど我々民族の象徴だと言ってよい。しかし、人びとは、中華民族がなぜこんなに凶暴なイメージのある怪物を崇拝するのか、考えたことがあるだろうか?
 我々の祖先は龍のイメージを創造した。これは典型的な大河民族の夢だ。龍への崇拝が黄河に起源している所以は、正にこの大河流域の民族のその生命の河に対する畏敬だ。龍への崇拝は、我々民族の心が未だに黄河が育んだあの古めかしい文化の雰囲気を慕い、遅々として祖先の歴史の陰影の中に止まっていることを証明しているようだ。今は、確かにそうした心を徹底的に目覚めさせる時になったのだ。……
 歴史の豊かさ、文明の悠久は畢竟昨日の話だ。歴史と現実は遠慮無く我々をあざ笑う。我々の古めかしい文明はすでに衰微した。新たな文明の要素を補充する必要がある。龍の後裔たちよ、我々の祖先がすでに創造してしまった文明を、黄河は疑いもなく再度育むことはできない。我々が創造する必要があるのは斬新な文明だ。旧文明のおりが、黄河の河道に沈澱した泥のように我々民族の血管に沈澱している。それは大洪水によって押し流す必要がある。その大洪水はすでに到来している。それは工業文明だ、工業文明が我々に呼びかけているのだ!

第二集 運命
 長城はこの安らかに静まりかえった、爛熟した農耕文明をしっかり包み込んだ。やがてそれは、秦の始皇帝、漢の武帝のように自ら打って出るようなことがなくなってしまった。秦の始皇帝や漢の武帝が長城を築いたのは中華文明の気魄と力を表現したのだとすれば、15世紀中葉に明朝が長城を改修したのは完全に失敗と尻込みの挙動だった。
 秦の長城が忘れ去られたのとは相反して、後ろ向きにおじけづいた一千キロの明の長城は逆に比較するものがないほどの崇拝を受けた。人びとは頑なに長城を中国が勢い盛んであることを象徴するものだとしている。しかし長城に言わせれば、それは歴史の運命が鋳造した巨大な悲劇の記念碑と言うだろう。それは閉鎖、保守、無能で、臆病で外に打って出ないことを代表しているだけだ。我々はなぜまだあなたを謳歌しなければならないのか。
 明朝の下で流動、移動、貿易は窒息させられた。土地と専制が中国人をしっかり縛り付けており、数百年来、中国人はどうやって自由と貿易というものを知り得たろうか?……
 一旦、太平洋の荒波が、西方列強の軍艦を、そしてそれよりも威力のある新思想、新文化を載せて押し寄せて来た時には、中国人はもう抗う力がなかった。海上からやって来たのは新文明で、古くさい中華文明の農業はそれに同化できなかった。種族の危急存亡と文明の危機が同時に爆発した。……このような文明の萎縮が、今では中華民族の生命力と創造力を萎縮させている。
 もし、中国が曾て歴史の選択を放棄したとするなら、我々は二度と選択を拒絶することはできない。もし、運命が決して宿命でないとするなら、我々は二度とそれの言うままにはならない。我々はすでに黄河が東に万里を流れ大海に流れ入るのを見た。我々はもう大海の招きを拒絶することはない!

第三集 光輝
 胡適が曾て言ったように、中国の人文科学が創造したのは多くは書物上の知識だった。しかるに西方の自然科学は新世界を創造した。17世紀以後、蒙昧主義を脱したキリスト教は全く新しい文明を持って海上からやって来た。1500年前の中国の皇帝が積極的にインドの高僧を招いたというなら、当時の「西方の高僧」は招かずとも向こうからやって来た。この第二次の外来文化の衝撃に対し、中国はすでに漢や唐のような度量と気概を持っていなかった。曾て中国科学技術の光輝は、西方が歴史の新紀元を創造することを助けたのに、何故異境から来た文明と科学の光輝は中国では常に見え隠れするだけなのか?
 中国は思索の最中だ。青年たちは歴史を問いただしているところだ。
 20世紀の中国の知識分子は今やっと「九番目の鼻つまみ者」と言われる悪運から免除されたが、経済的な逼迫と精神的なゆがんだ圧迫が相変わらず彼らにつきまとっている。それにも増して恐ろしいのは、この孔子の位牌を最も尊崇している文明の古い国で、教師の地位が非常に卑賤なところまで零落していることだ。教育の危機が中国の最も差し迫った危機となっている。彼らは燦々たる光輝を太陽に変えることのできる人たちなのに。人類の中で彼らほど自由な空気と無限の空間を必要とする職業の人はいない。もし彼らの精神に黒い十字架を打ち込むなら、或いは灰色の長城を押しつけるなら、光輝は永遠に太陽に変わることはない。歴史が再び中国の知識分子を苦しめないことをひたすら願う。これが我々の今日の心からの願いだ!

第四集 新紀元
 曾て「スターリンモデル」に覆われていた東欧各国は、時間差はあったが、それに背き、改革を行った。この抗い難い歴史の潮流は、1978年12月18日(中共中央11期3中全会の開催日、この会議で社会主義現代化建設の方針が決定された)になって、ついに中国をも社会主義国家改革という大きな時流へと推し進めた。改革はより多くの状況の下、そしてより深く本質的な意味で、一つの文明の変身という巨大な陣痛であり、危険に満ちた事業であり、我々のこの一代、更には今後数代の人たちが犠牲を支払わなければならない困難な道程だ。
 10年前、我々がついに閉鎖の垣根をうち開き世界に立ち戻った時、貧困と文化の専制の寂しさの中で長く生活してきた中国人は、資本主義の西方と日本がこんなにも発展し、人びとがあんなにも裕福に暮らしていることを何と大きな驚きを以て発見したことだろう。この強烈な刺激によってか、我々にすでに長年にわたって薄れていた記憶を拾い上げることになった、巨大な富と工業文明は何故中国の歴史に出現しなかったのかと?……又、今世紀の60年代、70年代になってもまだ大規模に「資本主義のしっぽ」を切り落としてきたのかと?
 根本的にはそれは前にも言ったように中国文明の性質によってなのだ。……あの錯乱状態にあった大躍進の時代、「人には実に大きな肝っ玉があり、土地には途方もない生産力がある」という神話を、上は「実践論」を書いた偉大な指導者から、下は科学者と実際を重んじる中国農民までが信じ込んだのだ。……
毛沢東から彼の多くの戦友たちに至るまで、曾て神秘的で目に見えない経済法則を認識するために甚だ重い代価を支払った。今日、趙紫陽だけがついに自信を以て述べることができている―「社会主義経済は公有制の基礎の下での計画ある商品経済である。これは我々の党が社会主義経済について下した科学的概括であり、マルクス主義にとっての重大な発展であり、我が国経済体制改革の基本的理論の依拠するところだ」と。
 運命は今正に千載一遇のチャンスを我々に与えている。数百年沈黙していた沿海地区、この中国の黄金海岸は、久しく抑圧されてきた餓えと渇きに耐えながら真っ先に太平洋へと突き進んでいる。……この曾て我々民族を養うためにその乳を搾り尽くされた土地が、ついに農業文明の中から歩み出た時に、中華民族は真に21世紀に踏み込めるのだ。

第五集 憂い
 中国人にとってはどの河の洪水よりも黄河が発する大水ほど怖いものはなかった。これまでの全文明史上で黄河は常に「中国の憂い」だった。中国人民は永遠に再び(政治的)動乱がないことを希望する、それはあたかも黄河が永遠に再び氾濫しないように希望するのと同じだ。……
 (中国では)旧王朝が崩壊しても、新王朝がすぐに取って代わり、社会構造も元通りに回復し、引き続き次の崩壊へと向かった。正に黄河の大堤防が決壊しても人びとが修復し、次の決壊を待つようなものだ。この神秘的な超安定の構造が我々を二千年支配してきた。
 今では紫禁城内の豪華な宮殿はとっくに歴史的文物となり、膨大な儒家の官僚網も跡形もなく消えてなくなった。だが大一統(全国の統制=民族、文化、領土の統一)という幽霊がまだ中国の大地をさまよっているかのようだ。社会の激動の悪夢はなお人の記憶に新しい。
 いっそう軽視できないのは、官僚主義、特権思想、それらによってもたらされる部分的腐敗現象が相変わらず我々の四つの現代化(農業、工業、国防、科学技術の現代化)の大計を破壊していることだ。これらの古くからの社会の頑固な病症は、正に黄河が毎年もたらす泥土が日一日と下流の河道に大量に沈澱するように、次第に危機を蓄積させている。……

1969年11月、死亡時の劉少奇 柏書房刊『中国文化大革命博物館」下巻より1969年11月、死亡時の劉少奇 柏書房刊『中国文化大革命博物館」下巻より

 人民は忘れることができない、文革の動乱の中で、黄河の河床より9メートル低い開封城内の陰惨な真っ暗な部屋の中で、自ら主宰して憲法と党規約を制定した共和国の主席(劉少奇)が、秘密裏に拘禁され、彼の生命の最後の28日間を送ったことを。一共和国主席の運命は一時代の運命を代表するのに十分だ。もし、中国の社会構造が刷新されず、中国の政治、経済、文化ひいては意識が現代化されなければ、悲劇が再演されないと誰が保証できようか?
 喜びかつ安堵するのは、我々はついに政治体制改革の試みに踏み出したことだ。今や全人代で、ついに勇敢にも初めて、否決の一票を挙手によって投じた人が出た、これはなんと大変なことだったろう! これが進歩ではないと誰が言えるか?
 我々のこの世代が憂いの重荷を双肩に担っていこう! それは我々の子孫が万代にわたり再び憂えることのないためだ!

第六集 紺青
 戦国後期の楚が秦に敗れた叙事詩のような戦争は、小麦を食料にし、戦車で戦い、その上遊牧民族とペルシャ文明の影響を受けた黄色の文明が、最終的に米を食料にし、大船の利用と水上の作戦に通じ、更に東南アジアと太平洋の文化の影響を受けた紺青の文化に打ち勝ったものだといえる。紺青色の消失は一つの民族と一つの文明が後日衰微する運命の予兆となった。
 黄色の文明に巨大な凝集力を与えた奥義は、儒家の文化がこの土地で次第に並ぶ者のない地位を獲得したことにある。だが単一の思想統一は多元的発展を弱め、古代の生活の中に豊富にあった海洋文明の要素は、内陸文明の黄土の上にしたたり落ちるとたちまち影も形もなくなった。……
 拡張し、国際貿易と戦争を行う紺青の文明に対するに農業経済と官僚政治を堅持する黄色文明の間の文化的対抗では、両者は疑いもなく全く並び立ち難かった。だが一旦わたり合えば、西方の強力な軍事力がたちまち中国の官吏と士大夫(読書人階級)に紺青色の強大さを見せつけた。……暴虐を恣にする黄河は我々に何が本物の民主の意識なのかを教えてくれることはできない。儒教文化はだめだ。……
 紺青色の海風がついに雨水と化し、新たにこの干からびた黄土を潤す時だけ、巨大な黄土高原に新たな生命力を得させることができる。……中国の多くのことがらは、民主と科学の旗をかかげた1919年の「五四」運動から再度始めなければならないようだ。……中国の歴史はついぞ中国人に科学と民主を推進する中産階級を作り出してくれず、中国文化は公民意識を育てなかった。……しかし、歴史は中国に非常に特有な社会集団である知識分子を養成した。愚昧と迷信を打ち砕く武器は彼らの手に握られている、海洋文明と直接対話できるのは彼らだ。
 1986年末から1987年初めに突然勃発した全国的な学生運動について、現在評価するのは時期尚早かもしれない。しかし学生運動を鎮める過程で実現した指導者と学生の直接対話の形式は、学生運動に加わった大部分の大学生の目的に叶った。政治と政策決定の透明性を達成したのだ。
 専制政治の特色は神秘性、独裁制それに恣意性にある。民主政治の特徴は透明性、民意性それに科学性にあるべきだ。……千年の孤独を経た黄河は、ついに紺青色の海を目にした。

『河殇』宣扬了什麽の書影『河殇』宣扬了什麽の書影

 『河殤』を激しく批判した『「河殤」宣揚了什麽』(以下、本書)に移ろう。『河殤』に対する中国国内での批判は放映後間もなくから出ていた。例えば国家副主席(当時)の王震が再三にわたり『河殤』を批判攻撃したことはよく知られている。しかし『河殤』に対する批判、攻撃が集中的に行われたのは、学生の民主化要求運動(天安門事件)を反革命暴乱と規定し趙紫陽総書記を解任した党の第三期四中全会(1989年6月23日に開幕)以後のことである。
 本書は以下の三部から構成されている。①党の第三期四中全会以後に執筆或いは発表された文章17篇、②同時期に開かれた関係部門の『河殤』批判の座談会の抜き書き4篇、③天安門事件以前に発表された『河殤』に対し批判的態度を示した一部の文章13篇。

 本書の巻頭に置かれているのは本書のタイトルと同じ『「河殤」宣揚了什麽?』という文章である。巻頭に載るだけに本書を代表する文章と言えよう。筆者名は易家言。天安門事件と党の第三期四中全会から一ヶ月前後の1989年7月17日に『人民日報』に掲載された。これには『人民日報』編集者の言葉が添えられている。先ずそれから。

『人民日報』編集者の言葉

 『河殤』は多くの喝采の声を浴びたが、多くの同志がそれとは異なる意見を述べ、中には憤然として『河殤』はいったい何を宣揚したのかと詰問する人もいた。この文章は1988年10月に書かれ、決定稿になっていた。今は作者の意向に従い一字も変更せず、ここに初めて発表する。
作者によれば、筆名の易家言は一家言の発音をもじったものだ。本来、ある作品に異なる意見があれば、誰にも意見を発表する権利がある。しかし、易家言のこの文章が書き上げられた後、趙紫陽同志が明確に「発表してはならない」と表明した。しかも彼は『河殤』のビデオテープを外国からの賓客に手渡し、一見の価値があると言った。これは百家争鳴の方針に合致するだろうか?
 確かに我々は、党の文芸事業の政治原則、政治方向の指導を堅持するという前提の下に、具体的な文芸作品と学術問題には少なく関与し、少なく介入すると主張している。だがこの件からは、趙紫陽同志の言う文芸作品に対し少なく関与し、少なく介入するという内容と政治傾向は、党の主張とは根本的に異なることが見て取れ……実際には文芸領域でブルジョア階級の自由化を堅持することを主張する少数の者に多く関与、多く介入させている。そうでなければ、どうして他人の文章に関与し、発表させなかったのか?……

 『「河殤」宣揚了什麽?(「河殤」は何を宣揚したのか?)』 易家言
 『河殤』は十分な理論的、知識的準備、厳粛で厳正な態度を欠いたため、テレビ作品の中での多くの基本的論点と判断は不正確であり、有害ですらある。(文章はこう述べた後『河殤』について数点の意見を述べるとして、10項目にわたって批判している。以下各論点の骨子のみ紹介する。)
1.『河殤』が実際に唱えているのは全中華民族の弔いの歌である。それはいわゆる「黄河文明」即ち中華文化の夭折と衰亡を宣告しただけでなく、一つの偉大な民族及びその悠久な文化の伝統に対する全否定だった。……これは典型的な民族虚無主義と悲観主義であり、典型的な歴史宿命論だ。
2.『河殤』は唯物史観を用いるのではなく、生産方式の変革及び各種の社会要素の観点を用いて中国の歴史を解釈し、観念史観を用い、地理環境決定論を用い、中国人は天性愚劣であるなどの観点を用い、中国の歴史を解釈した。……彼らは「黄河文明」は「失敗の文明」だという結論を出した。
3.『河殤』は黄河、長城などの中華民族の象徴に対しいかなる分析も加えずに嘲り、けなし、否定した。更には「黄水(黄河の水)」、「黄土」、「黄豆(大豆)」、「黄米(きびもち)」、それに「黄色い皮膚」までも中国文化が落後し見込みがない印だとしている。これは十億人民、香港、マカオ、台湾と世界各地に住む数千万の漢民族にとってはこれ以上ない侮辱だ。
4.中華民族には強大な凝縮力があり、歴史上、内には軍閥の混戦割拠があり、外には列強の侵略分割があったが、不断の闘争を経てつねに統一した広大な国土を保持していた。『河殤』の作者はだが、中国の歴史上で祖国の統一を勝ち取った一切の努力に対し、懐疑と甚だしくは嘲りの態度を採り、……「ただ東方の中国だけが広大で統一した版図を持っている」のは「大一統の幽霊が中国の大地の上をさまよっているかのよう」で、否定すべきものだと考えた。こうした中華民族の統一を否定する観点は、祖国統一に不利であり、億万の漢民族の子孫の願いに符合しない。
5.『河殤』は根本的に中国の歴史、特にアヘン戦争以来の近代史と現代史を歪曲している。中国近、現代の歴史を論述するに当たり、『河殤』は中国の運命を変えるのに卓越した思考と実践を行った偉大な革命家、思想家の孫文、魯迅らに対し一顧だに与えなかったのも決して偶然ではない。
6.『河殤』の中では共産党とその指導者毛沢東が反面的で、嘲りの対象として何度も出現している。作者は中国が近、現代に「資本主義」を選択する機会を逸したことを嘆き悲しんでいる。それは、中国が共産党の指導の下に、マルクス主義で中国を観察し、新民主主義革命を経て社会主義へと到達した道筋の歴史的実践は徹底的な失敗だったと宣告した。これは中国の歴史に対する最大の歪曲だ。……
『河殤』は「マルクス主義が早くに予言した資本主義の弔鐘は鳴ることがなかった」と断言した。……マルクス主義が中国革命の実践と歴史の過程の中で果たした偉大な指導的役割は、全く『河殤』の視野の中には入っていないのだ。
7.作者たちの理解している改革とは、実際には「西方の文明」、つまりいわゆる「ブルジョア文明」が「黄色の文明」に取って代わり、「紺青の海洋文明が干からびた黄土の上に長雨をふらすことなのだ。」このような宣伝と呼応し、新聞紙上には何と、外国人の中国における「租界」は「罪悪のはきだめ」ではなく、「文明の先駆者」だとする論調まで現れた。
8.『河殤』は多くの主張を繰り広げ、改革と開放を呼びかけているが、その主張と呼びかけは党中央、鄧小平同志が提議した改革開放の方針とは同一ではなく、中国の特色ある社会主義現代化の目標とは反対方向に向かうものだ。
改革にせよ、開放にせよ、「全面的欧米化」を実行し、資本主義の道を歩むことを全く意味しない。早くも1979年に鄧小平同志は「現在一部の者はいわゆる社会主義は資本主義に及ばないという言論をまき散らしている。このような言論に対しては必ず反駁しなければならない」と指摘した。今日でも、このようないましめは決して時代遅れではない。
9.『河殤』の作者たちは「中国の知識分子は常に政治権力に付き従い」、「独立した社会集団を形成できず、独立した人格意識を欠いていた」と断言している。……
彼らは更に、「『河殤』は、「独立した学術意識を備えた卓越した文化集団がすでに形成されており、しかも彼らは民族文明に対する独立した思考の成果を示している」と公言している。彼らは更に自分自身を、中国が歴史の「限界」を抜け出した「全文化エリート層」の代表だと崇めている。彼らは、事実上彼らを中国が社会改革を行う上で「政治権力に従わない」独立した政治勢力だと見なしている。
10.『河殤』は、その学風が不純であること、極めて重大であるとした上で、『河殤』が歴史上の出来事に浅薄な対比を行っていること、事実の確認をしていないこと、引用も不正確であることなど、実例を列挙し批判した。

 『河殤』の内容について批判的態度を示した第一部の文章13篇の批判内容はこれで言い尽くされているように見えるが、趙紫陽総書記(当時)の『河殤』をめぐる対応について直接論難したものとして、第一部には更に、新仁『趙紫陽同志的介入說和「河殤」的「新紀元」』(1989年8月14日 光明日報に掲載)も掲載されている。文章では趙紫陽の介入について、上掲の『人民日報』評論員の編集者の言葉とほぼ同じ内容を述べた後、以下の概略にあるような議論を展開している。ここでは『河殤』の第四集「新紀元」が重点的にやり玉に挙がっている。

天安門広場で絶食中の学生に呼びかける趙紫陽(1989年5月19日)天安門広場で絶食中の学生に呼びかける趙紫陽(1989年5月19日)

 1988年9月末、王震(国家副主席)同志は党の13期3中全会で『河殤』を批判し、中央がこの件を重視するように要求した。この時、趙紫陽同志は言を左右にし、問題の本質を回避し、数語言い逃れをし、そそくさと散会を宣言した。……人びとは尋ねずにはいられない、趙紫陽はどうしてこんなに頑張って『河殤』を支持するのかと? 『河殤』の何が一体彼をこんなに虜にしたのかと?……
 我々がここで重点的に指摘したいのは只一点、『河殤』で肝腎な点はいわゆる「新紀元」ということだ。趙紫陽同志が素晴らしいとしたのも正にこの「新紀元」だ。『河殤』は中国の歴史と世界の歴史が発展する中で人びとの前に二つの新紀元を押し出した。1649年のイギリスのブルジョア革命が一つの新紀元で、1987年に趙紫陽が総書記になったのがもう一つの新紀元だというのだ。……
 作者の言わんとする所は、毛沢東と彼の多くの戦友たち(その中には疑いもなく鄧小平ら今も健在な老プロレタリア革命家も含まれる)はみな新紀元を切り開く「神秘的で目に見えない経済法則」を探し当てられなかった、趙紫陽だけがこの法則を探し当てたということだ。……作者は各種の手段を弄して人びとに一つの印象を与えようとしている、それは、趙紫陽は改革開放の旗手で、彼あってこそ初めて中国に希望をもたらせるということだ。これは趙紫陽の「新権威」を打ち立て、趙紫陽が権力を一手に握るため大いに輿論を作ることにほかならない。……
 一言で言えば彼がやろうとする「新秩序」は、西方の現代資本主義のあの秩序を参照した「新秩序」だ。当然、趙紫陽同志は中国で「新秩序」を打ち立てるには、香港の新聞が言う所の「独裁改革」の権力が必要なだけでなく、更に輿論の支持が必要だ。ほかでもなくこの一点で、『河殤』の「新紀元」の理論は彼を大いに助けるものだ。……
 『河殤』の作者は「新紀元」を利用して趙紫陽をほめそやし、趙紫陽が彼の「新秩序」を行うために輿論を作り、趙紫陽同志は彼の手中の権力を利用し『河殤』が広まるのを支持し、『河殤』に対する批判を押さえ込んだ。問題の核心はここにある。
 最後に指摘すべきは、正に趙紫陽の支持があったが故に、蘇暁康らは動乱(学生の民主化運動→天安門事件)という政治行動を扇動した。今年(1989年)2月、蘇暁康は33名と連名で全人代常務委と中共中央に上書し、大赦を実行し、いわゆる「政治犯」を釈放するように要求し、彼とごく少数の立案者はこのようにして実際にすでに動乱のために準備しており、動乱が始まってからは……蘇暁康本人は当然のこととして動乱を扇動し画策する有力者の一人となった。……

 次は三部構成のうち第二部は後回しにし、先に第三部の党の第三期四中全会以前に発表された文章から興味のある2篇を紹介する。それは1957年に共にノーベル物理学賞を受賞した当時アメリカ在住の中国人物理学者の李政道と楊振寧の文章である。
 最初は李政道の『読「河殤」有感(「『河殤』を読んで感あり」』で1988年10月26日に書かれ、11月4日に『人民日報』に掲載された。

 中華民族の文化は黄河に発した。黄土文化は長江流域に移入し、長江に居住する黄人を北方の黄人と結合させた。黄河の黄色い水は大海に流れ入り、海外の華人も永遠にこの偉大な河の流れにつながった。黄帝(古代の伝説上の帝王)の子女たちよ、我々は団結し、民族の理想を発揚し、自尊、自信を打ち立てなければならない。
 科学的には、20世紀は量子力学の世紀だ。量子力学は一切の原子、分子、核子、電子などの運動法則を操っており、量子力学を通すことで初めて今日の物質文明をがみ出された。だが、量子力学は先行する伝統的権威ある力学が変化することで出来上がったものだ。過去の伝統的権威ある力学がなければ今日の量子力学はあり得ず、伝統的権威ある力学が分からなければ、量子力学は理解できない。
 同様に、ただ過去に依存するだけの民族が発展することはない、だが、祖先を放棄した民族にも前途はあり得ない。5000年の黄土文化は、我々が誇るに値するものだ、我々の今後の創業が未来の子孫の尊敬を得られることを希望する。黄帝の子女たちよ、我々は志を持ちさえすればよい、現在の貧困を怖れる必要はない。新しきを拓き自立し起ち上がることを願う、黄河が死に絶えることのないことを切望する。

 『楊振寧談傳統文化與「河殤」(『楊振寧、伝統文化と「河殤」を語る』)。これは『中国電視報』1988年44期に載った文章だ。

 当然いかなる数千年の伝統、いかなる数億人の歴史の背景でも、純粋に好いということはない、その中には多くの複雑な要素があり、それは討論が必要だ。この点から言えば、私は『河殤』は貢献をしたと考える。なぜならそれはみなを思考し、研究し、省察するように突き動かすことができたからだ。しかし、このテレビ番組はいくつかの象徴的な問題を討論した。みなが知っているように、あらゆる象徴的な問題は非常に複雑なものだ。このテレビ番組では特に三つの象徴を取り上げた、しかもそれらはみな中国伝統の象徴であり、中国歴史の象徴であり、中国民族の象徴だ。一つは龍の伝統或いはその神格化、一つは長城、一つは黄河だ。このテレビ番組で、私が最も受け入れられなかったのは、この三つの伝統を一つもいいところがないと批判していることだ。もしこの三つの伝統を捨て去るなら、中国には希望がない。私は、これは大きな間違いだと思う。……
 我々は、このテレビ番組のプロデューサーにこの番組をみなに提供してくれたことに感謝すべきだ、なぜならこれはみなに、いったい中国の伝統にどんないい所があり、どんな悪い所があるかを考えさせることができるからだ、よいところは発揚し、保護し、利用するのだ。

 最後に三部構成の第二部の座談会だが、ここではいわば『河殤』放映の責任者と言える中央電視台の責任者たちが如何なる発言をしているかにしぼって紹介したい。一人目は中央電視台の洪民生副台長。

 一時期、我々電視台の数人の指導者はぼんやりし、いい気になっていた。特にいわゆる憂いの意識、思想の啓蒙、省察し向上を図るという隠れみのの下で、『河殤』が表現している強いブルジョア階級自由化の内容を見て取れなかった。後に中央の指導者同士の厳しい批判があり、我々は問題の重要性を感じ、直ちにいくつかの誤りを糾す措置を取った、例えばビデオテープの配布を停止する、外国に発送しない、各地のテレビ局に再放送をしないよう注意を促したことなどだ。……我々はいくつかの誤りを糾す措置を取ったとはいえ、すでに放映した番組はまいた水のようにもとには戻らない。『河殤』が大衆の中にもたらした重大な結果を低く評価することはできない。特に今回、動乱から反革命暴乱事件に発展した教訓は、我々に問題の重要性を深く感じさせた。
 テレビというこの現代化の強大な輿論工作の道具は、人民のためによいことをし、民族の精神を振興し、改革開放を促進し、社会主義の四つの現代化を建設するために有利な誘導を果たせるが、反面間違った事、悪い事もできる。
 『河殤』が形成した重大な結果、教訓は深刻だ。

次は中央電視台の黃恵群台長。

 1988年、央電視台は二度にわたって『河殤』を放映したが、これは孤立した事柄ではなく、普通のうっかりミスではなく、それには全般的な政治状況の中で受けた外部からの要因があり、テレビ局内部の幹部、職員労働者がブルジョア階級自由化の影響を受けたという内在の要因もあった。これは中央電視台の1988年の宣伝工作における最も重大なミスであり、教訓は本質に触れて極めて深刻だ。我々は広汎な観衆に恥じ入るばかりだ。……ラジオ映画テレビ部の指導者の助けで、我々は現在『河殤』の連続番組の撮影制作にまつわる問題と二度にわたり放映した問題を徹底的に調査中だ。我々は今後一層認識を高め、その中から教訓をくみ取り、中央電視台をよりよく社会主義に奉仕させ、人民に奉仕させる。我々は党と人民の立派な代弁者となり、党と政府、人民の間の立派な架け橋となる。

 以上、『河殤』の内容とそれに対する批判のあらましを概観した。批判の面で印象深いのは『河殤』の内容についてよりも、趙紫陽に対する敵意にも思える攻撃だ。党中央の指示と支持がなければここまでは言えなかっただろうと思える。趙紫陽を党総書記などあらゆる職務から解任した中共第十三期第四回中央委総会後に発表されたコミュニケでは、「(趙紫陽は)党と国家の重要な指導的職務についていた期間に、改革・開放と経済的活動の面で有益な仕事をしたとはいえ、指導思想の上でも、実際活動の中でも明らかな過誤を犯した。特に彼が中央の活動を主宰してから、四つの基本原則の堅持とブルジョア自由化反対の方針に対し消極的な態度を採り、党の建設、精神文明建設、思想政治工作をひどくゆるがせにして、党の事業に重大な損失をもたらした」と指摘している。この中では趙紫陽の『河殤』に対する対応については直接触れていないが、この指摘の中にこの面の評価が含まれていることは明らかだ。趙紫陽ばかりではない。天安門事件の後、蘇暁康らに逮捕状出るなど『河殤』の制作関係者は弾圧を受け、蘇はアメリカに亡命し、王魯湘は執筆活動を制限された。そのほかの関係者も亡命をし、或いは一定の処分を受けた。
 その後現在に至る中国の言論を取り巻く状況が、極めて厳しく不自由な状態にあることは言うまでもない。

コラムニスト
横澤泰夫
昭和13年生まれ。昭和36年東京外国語大学中国語科卒業。同年NHK入局。報道局外信部、香港駐在特派員、福岡放送局報道課、国際局報道部、国際局制作センターなどを経て平成6年熊本学園大学外国語学部教授。平成22年同大学退職。主な著訳書に、師哲『毛沢東側近回想録』(共訳、新潮社)、戴煌『神格化と特権に抗して』(翻訳、中国書店)、『中国報道と言論の自由──新華社高級記者戴煌に聞く』(中国書店)、章詒和『嵐を生きた中国知識人──右派「章伯鈞」をめぐる人びと』(翻訳、中国書店)、劉暁波『天安門事件から「08憲章」へ──中国民主化のための闘いと希望』(共訳、藤原書店)、『私には敵はいないの思想──中国民主化闘争二十余年』(共訳著、藤原書店)、于建嶸『安源炭鉱実録──中国労働者階級の栄光と夢想』(翻訳、集広舎)、王力雄『黄禍』(翻訳、集広舎)、呉密察監修・遠流出版社編『台湾史小事典/第三版』(編訳、中国書店)、余傑著『劉暁波伝』(共訳、集広舎)など。
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