キユパナの丘で──台湾阿里山物語

第18回

台湾最大の悲劇二二八事件

 1943年11月のカイロ首脳会談に際し、ローズヴェルト米大統領から台湾引渡しの内々の“お墨付き”を直に得た蒋介石国民政府主席は、終戦前年の1944年春に重慶で「台湾調査委員会」を設置し、台湾接収の準備に着手した。台湾には敵対する共産党勢力は浸透していない。時間は十分過ぎるほどあったはずだった。彼が台湾統治のトップに据えた陳儀は、台湾事情に通じているとされていた。だが知識があっても実際に統治できるかどうかは、また別問題である。主要都市は連合軍による爆撃で工業施設が痛手を受け、電力の供給も大幅に低下、十数万人の台湾人日本兵が復員して来ており、失業者も増えて社会の不安定要因になっていた。こうした状況下、陳儀は経済を厳重に統制して封鎖状態にし、台湾経済を瀕死の重病に陥らせた。一方、あらゆる階層の官僚の腐敗や血縁による縁故主義の横行、警察官や軍人の理不尽で横暴な民衆いじめは統制できず、台湾社会に怨嗟の声が満ちた。

 具体的には、陳儀は通貨台湾元と台湾の金融機関を維持したが、大陸の銀行による台湾での支店開設と、国民政府紙幣の台湾流通とを禁止したため、民間貿易はほぼ停止状態になった。台湾にモノが入らなくなったのである。さらに専売局を設置して米、塩、砂糖、燃料などを台湾省政府が公定価格で一括購入して販売する仕組みへと改めて商品流通を統制し、タバコ、酒、マッチなどの専売制度も強化した。こうした統制経済の下、台湾の物価は陳儀が来台した1945年10月から1946年12月までのほぼ一年間で100倍に高騰、命をつなぐ主食のコメの価格は20倍に跳ね上がり、失業者もあふれて餓死する民衆が出たのである。陳儀は大陸で進行しているインフレから台湾を守ろうとしたとの説もあるが、なぜかくも無謀な統制経済を選択したのか、詳しくは分からない。

 当時、台湾人で台北市商会(商工会議所)理事長の任にあった蒋渭川しょういせんは陳儀に面と向かって「長官が奥に下がり、官民の架け橋を自称して付け入ろうとする少数の者と悪徳官僚に囲まれています。社会の民情は知るすべがなく、上の命令も下に伝えることができていません」と諫めたが、何も変わらなかった。部下を過度に信頼し、放任したため、悪心を持つ部下はやりたい放題だったのである。つまり、蒋介石の眼鏡にかなったはずの陳儀は、経済の理屈を知らず、人心掌握力や指導力に欠ける、無能な人物だったのだ。
 1946年末、台北にあった米国の駐台湾領事館が、南京に駐在しているアメリカ大使ジョン・ステュアートと国務省に提出した報告は「台湾はすでに反乱の地点にある」と切迫感を伝えていた。町では強盗や略奪も横行し、国民党に対する民衆の憤怒のマグマは、いつ爆発してもおかしくはない状態にまでたぎっていたのである。

発端は闇タバコ販売女性への暴力

 台湾最大の悲劇、2・28大虐殺事件は死傷者が数千人あるいは1万人、さらには3万人ともされる悲劇だ。国民党が関係資料を破却したため、今日に至るも分からないことが多い。財団法人二二八事件紀念基金会は、淡水にあったイギリス領事館の記録文書、南京の歴史的文献資料なども含めて丹念に集めた証拠や聞き取り調査をまとめ、2006年に500ページ強の『「二二八事件」研究報告』を発表した。事件に関する著作は数えきれないが、現時点では、この報告書がもっとも客観的で信頼できる文書であると思う。この研究報告を基に、この悲劇を検証してみた。

専売局台北分局に押しかけた群衆(Wikipedia)専売局台北分局に押しかけた群衆(Wikipedia)

 発端は闇タバコの取り締まりだった。1947年2月27日午前、台北市の専売局に、台北の外港・淡水港で密輸船がマッチやタバコを荷揚げしているとの密告が寄せられた。専売局は6人の取締員を急派したが不発。同日午後、台北市内の取引場所を知らせる二度目の密告があり、6人は午後7時半、現場に駆け付けたが、またも密輸組織の闇商人を取り逃してしまった。そこで取締員は、たまたま近くにいた40歳の女性闇タバコ売り林江邁りんこうまいを捕え、彼女が持っていた官製と私製のタバコ全部と現金を没収した。林は「官製タバコと現金は返して」と土下座して懇願したが聞き入れられず、一人の取締員に縋りついたところ、銃身で頭を殴られ血が噴き出した。やりとりの一部始終を見ていた周りの民衆は激高し、6人を取り囲んで大声でののしり始めた。殺気だった民衆の迫力に気おされて、6人はじりじりと後じさりしながら、威嚇のため一人の取締員が発砲すると、近くの建物の二階から見下ろしていた市民に弾が当たり死亡。発砲で群衆の怒りはさらに高まり、六人は近くの派出所、さらに警察署へと逃げ込む。彼らを追って来た群衆は数百人に膨れ上がり、夜を徹して警察署の包囲を続けた。

 翌28日午前、群衆は6人の逮捕を求めてストライキを通告。群衆が押し寄せた専売局台北分局では、闇タバコ売りの女性にけがを負わせた犯人と勘違いされた取締員一人と近くにいた警察官が殴り殺された。犯人が見つからないことにいら立つ群衆は、局内にあったマッチやタバコに火を付け、上部組織である専売局総局に押しかけた。しかし、ここには憲兵や警察官が先回りして守っていたため請願は不発に終わり、怒りの感情はさらに高まる。群衆は誰に言われることもなく長官公署へと行き先を変え、ドラを鳴らす台湾人を先頭に四、五百人が行進。公署近くの交差点に差し掛かると、配備された公署の衛兵が群衆に向けて次々に銃を発砲、パニックが起きる。「公署衛兵銃撃事件」である。この銃撃で、ささいな事件が引き金となった官民の対立は、抜き差しならないものとなってしまった。

事態収拾への議論の場となった中山唐堂(旧台北公会堂、public domain)事態収拾への議論の場となった中山唐堂(旧台北公会堂、public domain)

 群衆の怒りの矛先は外省人(陳儀と共に来台した漢人)にも向かい、「阿山(外省人の蔑称)を打ちのめせ」と叫ぶ暴力事件も市中心部で続発し、警察車両への放火も相次いだ。目撃者の証言記録によると、とばっちりを受けた外省人は棒やこん棒で殴られ、少なくとも15人が殺害されたという。事態の緊迫を受け、警備総司令部は同日午後、台北市に戒厳令を発出、武装した軍の警察隊がデモに集まったまま帰ろうとしない民衆に向け銃を乱射し始めた。この衝突で数十人が死傷したとされる。以上が、台湾最大の悲劇「2・28事件」の始まりである。台北市の「2・28衝突」のニュースや「汚職役人を追い出そう」というスローガンは全島に伝わった。

 事態の鎮静化を目指した台北市参議会は3月1日、有力な台湾省の議員などにも呼びかけて議論を重ね、「煙草取締殺傷事件調査委員会」を立ち上げた。委員会の代表は陳儀に面会して戒厳令の解除、逮捕された市民の釈放、軍隊や警察の発砲禁止、官民合同での処理委員会の設置などを要請した。陳儀は全面的に要請を受け入れ、知識人や地方名士を交えた官民合同の新たな委員会の名称は「二・二八事件処理委員会」とする方が適切であるとまで回答、これらの内容を全省に向けてラジオ放送することも受け入れた。こうして3日から5日にかけて、台湾各地に同様の委員会が設置されたのである。

南部では武力衝突に発展

 こうした中、群衆が過激化した都市もあった。台中では大陸の共産党に連なる謝雪紅しゃせつこう楊克煌ようこっこうとその取り巻きが群衆を扇動し、デモ隊を利用して公的機関の建物をすべて接収、武装路線へと民衆のエネルギーを向かわせようとした。嘉義では2日以降、市民が武装部隊を結成し、約3000人が紅毛埤造兵廠や嘉義飛行場を攻撃するまでに過激化した。この争乱には阿里山ツォウ族の若者も参加しており、このことが後に高一生の運命を暗転させる遠因となる。高雄では3日から市民が暴徒化して憲兵隊を取り囲んで攻撃したが、高雄要塞司令の彭孟緝ほうもうしゅうは6日、司令部に交渉にやって来た指導者を拘束し、群衆を鎮圧した。この鎮圧作戦で市民数十人が殺害された。

 台北のデモは、特定のリーダーが指導したものではなく、怒りにかられた烏合の衆の運動だった。しかし、台北の情勢に触発された台中、嘉義、高雄の群衆の動きは、リーダーの意図に沿った組織的な運動だった。蒋介石の国民政府にとって、最も許せない方向に台湾が進み始めた、と受け止められても仕方がない展開になってしまったのである。
 こうした中、台北市では6日に市中心部の中山堂(旧台北公会堂)で開いた会合で「二二八事件処理委員会」が成立した。事態の鎮静化が期待されたが、処理委員会内部にもさまざまな意見があって議論がまとまらず、台北の処理委員会と各地の委員会も連携がとれていたわけではなく、穏健派から過激な主張のものまで意見が百出して、事態の鎮静化にはつながらなかった。

二二八事件処理委員会の成立を伝える新聞紙面(Wikipedia)二二八事件処理委員会の成立を伝える新聞紙面(Wikipedia)

 憲兵団長の張慕陶ちょうぼとうは収拾の手を打たない陳儀を「まだ事態の深刻さを理解していないようだ。相変わらず平和を装っている」と非難したのだが、実は陳儀は裏で策を巡らせていた。陳儀は、蒋介石主席宛てに詳細な書簡をしたため、台湾省党部主任委員の李翼中りよくちゅうを南京に派遣。李は3月6日に書簡の内容を口頭で蒋介石に説明した。書簡には、事件発生後に奸党(蒋介石が最も憎む共産党)、日本統治時代の御用紳士、ヤクザが機に乗じて政府に反抗したり、武器を奪い取ったりして県市政府を包囲しているなどと説明し「明らかに計画的で組織的な反逆行為で厳しく処罰するしかない」との結論に理解を求めて、蒋介石に増援軍の派遣を要請したのである。陳儀の本意は処理委員会の会合を重ねさせ、平和的対応を装いながら時間を稼ぐことにあったのである。陳儀は自らの保身のために、蒋介石の心に台湾を憎む“イバラ”の芽を植え付けることに成功。陳儀の手紙を受けて蒋介石は一連の騒動を「反動暴民」が引き起こした動乱とみなし、増援軍の派遣を決めたのだ。

 陳儀が頼みとする軍は、来台時の1万2000人から約5000人にまで減っていた。そこで陳儀は各地の処理委員会の中に特務機関員や軍の情報機関の諜報員を潜り込ませ、委員たちの言動をつぶさに記録させた。その上、彼らは委員会の中でもわざと過激な意見で煽り立て、将来の治安維持のためにたとえでっち上げででも網にかけるべき人物をあぶりだして、丹念に名簿を作成していたのである。

大陸出身の力軍が描いた二二八事件惨劇の版画(Wikipedia)大陸出身の力軍が描いた二二八事件惨劇の版画(Wikipedia)

“消された”エリートたち

 ここまでの動きは、二二八事件のほんの序奏でしかなかった。本当の悲劇は、増援部隊が基隆港に到着した8日から始まったのである。増援部隊が到着するや否や、台湾省党部調査統計室は「消滅させるべき悪党」の名簿を警備指令部に提出。部隊が到着し終えた10日に陳儀がラジオで台湾全省に戒厳令を布告すると、同日夜からまず「市内の奸徒(共産党員とみなした者)」の摘発が始まった。軍は各地に兵を進め、武装した群衆を見つけては交戦し、武器を奪い、手向かう者を殺害して行った。「清郷(街を掃除する)」という美化した表現による「粛清しゅくせい」の始まりだ。兵士による残虐な行為の証言は、あまりのおぞましさに慄然とさせられるものが多い。

 市街地での表立った平定が終わると、諜報機関や軍のスパイが用意していた名簿に従い、軍は騒動の首謀者とみなした人物や、目を付けていた“危険人物”を殺害して行った。襲われたのは地方議員、弁護士、教師、学者、文化人、牧師、三民主義青年団員などで、日本統治時代に頭角を現したエリートたちが特に狙い撃ちされた。彼らは逮捕という手続きではなく“消された”のである。

嘉義市での二ニ八事件の目撃体験を語った羅福全さん(japanfoucustaiwan.tw)嘉義市での二ニ八事件の目撃体験を語った羅福全さん(japanfoucustaiwan.tw)

 二二八事件で“消された”著名人は、基金会が作成した資料では31人。このうち書家で嘉義市の議員だった陳澄波ちんとうはは、嘉義駅前のロータリーで死体が見つかった。
 嘉義市出身で、2000年5月から台北駐日経済文化代表処代表(大使に相当)や台湾の対日窓口だった亜東関係協会長などを歴任した羅福全らふくぜん氏は、筆者が台北特派員として駐在していた2004年に自身の目撃談を語ってくれた。当時中学生だった彼は学校に向かう途中、嘉義駅のロータリーに沿って死体が点々と放置されているのを見たという。

 「みんな後ろ手に縛られたまま、後頭部を銃で撃ち抜かれていました。銃殺すると同時にトラックの荷台からけり落とされたのでした。遺体は数日たっても放置されたままでハエがたかり、腐臭があたりに漂ってもそのままでした。台湾人に対する、明らかな見せしめだったのです」

初代台湾省主席となって事態収拾に当たった魏道明(zh.wikipedia.org)初代台湾省主席となって事態収拾に当たった魏道明(zh.wikipedia.org)

 粛清の嵐は二カ月にわたり台湾全土で吹き荒れた。5月16日、罷免された陳儀に代わり、駐米大使を務めたベテラン外交官出身の魏道明ぎどうめいが初代台湾省主席に就任、即日戒厳令を解除し事態を鎮静化させた。免職された陳儀は後に浙江省主席へと栄転するのだから、国民党の人事はどこまでも甘かったようだ。

 台湾最大の悲劇二二八事件は、今日に至る外省人と台湾人との怨念に満ちた族群対立の始まりとなった。事件は二カ月で幕を閉じたが、台湾はやがて更なる暗黒世界に陥ることになる。蒋介石が国共内戦に敗れて台湾に逃れて来た1949年、国民党政府は戒厳令を発令し38年間にも及ぶ恐怖政治を敷いたからである。


〔主要参考文献〕
◎『行政院《「二二八事件」研究報告》適要』財団法人二二八事件紀念基金会
◎『二二八事件責任帰属研究報告(適要)』財団法人二二八事件紀念基金会
◎『二二八消失的台湾菁英』財団法人二二八事件紀念基金会
◎『台湾史100件大事』李筱峰(玉山社)

コラムニスト
竜口英幸
ジャーナリスト・米中外交史研究家・西日本新聞TNC文化サークル講師。1951年 福岡県生まれ。鹿児島大学法文学部卒(西洋哲学専攻)。75年、西日本新聞社入社。人事部次長、国際部次長、台北特派員、熊本総局長などを務めた。歴史や文化に技術史の視点からアプローチ。「ジャーナリストは通訳」をモットーに「技術史と国際標準」、「企業発展戦略としての人権」、「七年戦争がもたらした軍事的革新」、「日蘭台交流400年の歴史に学ぶ」、「文化の守護者──北宋・八代皇帝徽宗と足利八代将軍義政」、「中国人民解放軍の実力を探る」などの演題で講演・執筆活動を続けている。著書に「海と空の軍略100年史──ライト兄弟から最新極東情勢まで」(集広舎、2018年)、『グッバイ、チャイナドリーム──米国が中国への夢から覚めるとき 日本は今尚その夢にまどろむのか』(集広舎、2022年)など。
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