キユパナの丘で──台湾阿里山物語

第12回

心捉えた「協働」の精神

赤で示したミズーリ州とアデアーカウンティーの位置図(Wikipedia)赤で示したミズーリ州とアデアーカウンティーの位置図(Wikipedia)

 全米の教育界の賞賛を得ることになるポーター・スクールが誕生したミズーリ州は、「プレーリー」と呼ばれるアメリカ中央部の大草原の一角にある。見渡す限り背丈の短い草に覆われた平原が広がり、ところどころになだらかな丘が点在する、穏やかな景観が特徴だ。ポーター地区が所属するアデアー・カウンティー(郡に相当)には、ミズーリ州から東へ800キロメートルほど離れた、アパラチア山脈西麓に暮らすケッタッキー州の人々が1828年以降に入植を始めたと記録されている。きっかけは連邦政府の「1820年土地法」だ。

 当時「ザ・ウエスト(西部)」と呼ばれていた辺境のオハイオ州やミズーリ州の領土を国民に売却して開発を促す法律で、それまでの領土売却価格を引き下げて4000㎡当たり2ドルから1.25ドルと改定、最低売却面積も従来の半分に当たる32万㎡と求めやすくして、入植や土地への投資の呼び水としたのである。アデアー・カウンティーは福岡市の三分の一ほどの面積で1470平方キロメートル、1841年1月にカウンティーが発足した。地名の「アデアー」は、当時のケンタッキー州知事、ジョン・アデアーにちなんでいる。

ミズーリ州プレーリー州立公園(Missouri Prairie State Park)ミズーリ州プレーリー州立公園(Missouri Prairie State Park)

 大草原の広がりの中、この地域の農家は隣家が見えない距離にぽつぽつと点在するだけで、集落と言えるほどのまとまりがない。したがって、ごく小さな教会があって顔は見知っていても、日ごろ隣人と言葉を交わす習慣もない土地であった。カウンテイーが発足して10年足らずの1850年代、プレーリーの農業はトウモロコシや小麦の栽培で成功し始めた。つまり、辺境から自立した1つの経済圏へと発展し始めたのだが、ポーター地区の歴史は半世紀ほどでしかなく、この歴史の浅さと、プレーリーの特性にも由来する地域共同体意識の弱さをどう克服するか、これこそがミズーリ州出身のベテラン教師マリア・ハーヴェイの課題だったのである。

 1912年の着任早々、ハーヴェイが取り組んだのは、荒廃しきった校舎の大改修だった。潤沢な学校税の蓄えがあったものの、学校予算は年に350ドルしか使わないという地区の決まり事が壁として立ちはだかった。ハーヴェイはこの制約を逆手に取り、地区の人たちに力を合わせて自分たちの手で校舎を改修しようと呼びかけたのだ。ポーター校で開いた最初の集会で、ハーヴェイは「知識を教えるだけではなく、生きていく力を養うことこそが教育の目的です」との持論を強調し、学校の現状が子どもたちにとっていかに危険で、どんなに非衛生的であるかをこと細かに説明したのである。

 ハーヴェイの意図をいぶかしがり、改修工事の提案に反対する者もいた。しかし、専門の職人しかできない作業にだけは費用を割いて職人を雇い、そうでない改修工事は住民の労力奉仕で当たる方針で話がまとまった。作業は仕事の合間を縫って各自が都合の良い時間を見計らってばらばらに始めたのだが、いざ学校で出会うと自然と声を掛け合い、話し合って一緒に作業をするようになったのである。ほとんど口をきいたこともなかった者同士が打ち解けて話をするようになると、お互いの人となりを理解し始め、しかも一緒に作業することの楽しさを知って、士気も高まったのだった。こうして大改修は1カ月ほどで終わり、校舎は見違えるように立派になった。

 屋根も床も壁も真新しく生まれ変わったのはもちろん、安全面ではプレーリー名物の竜巻避難のために地下室を新たに設け、井戸を掃除し教室内に給排水設備と流しを備えて衛生面の向上を図り、部屋全体が暖められる灯油ストーブも設置された。高すぎて低学年の子が届かなかった黒板は取り付け位置を下げ、年少者の体格に合った机やイスがそろった。さらに、地域の暮らしを変える大きな出来事があった。学校で住民の集会が開けるように、大きなテーブルや折りたたみイスが初めて運び込まれたのだ。学校はポーター地区の集会所の機能をも果たすことになり、住民のきずなを育む第一歩を踏み出した。

ポータースクールの教室と給排水設備(Truman State University)ポータースクールの教室と給排水設備(Truman State University)

 学校の改修工事という地区始まって以来の大イベント、初の“共同作業”は皆に高揚感をもたらし、学校には住民からの寄付金や備品の寄贈が相次いだ。ハーヴェイが最も大事と考えた、「みんなが協力し合って事をなす」精神を、地域住民が実感したのだ。これがその後の農村再生の出発点となった。

 学校の改修は、ポーター地区の暮らし改革のモデルとなった。人々は改修後の学校で地下室の便利さと優れた室内暖房の効果を初めて知り、部屋の中への給排水設備がいかに主婦の仕事の軽減につながるかを知った。地区住民としてポーター地区で暮らし始めたハーヴェイのこじんまりした家は、さながら暮らし改善の“モデル展示場”として、主婦たちの注目の的となった。やがて「婦人クラブ」が結成され、学校で活動を始める。ハーヴェイは婦人の集まりの場に育児や衛生、栄養の専門家を招いた。

 妻を学校へと送迎する夫たちは、女性の活動に刺激されて「農民クラブ」を結成した。ポーター校が地域の集会所として大いに機能し始めたのである。最初の夏休み、家業の手伝いのため学校に通うことができなかった年長の少年たちのために、ハーヴェイは夜間学級を開設した。それにより、年長少年は学業を諦めなくて済み、新たな希望を見出して農業への意欲、年少の児童を世話する気風も生まれて来た。こうして同州で初めての「児童送迎馬車制度」が生まれ、年長少年が報酬を得て馬車の御者を務めることになった。

ミズーリ州で初の児童送迎馬車(Adair County Historical Society)ミズーリ州で初の児童送迎馬車(Adair County Historical Society)

 それまでの教師は、夏休みは文字通り休暇であり、都会の自宅で過ごしていた。しかし、ポーター地区で暮らすハーヴェイは住民として活動し、地域住民との信頼関係をたちまちに築き上げる。ここに彼女の成功の秘密があった。

 「農村地区にふさわしい教育手法を打ち立てたい」という強い決意と信念に加え、ハーヴェイは非凡な政治センスの持ち主でもあった。赴任に先立ち、州の教育委員会との協議で、「授業は州が定めたカリキュラムに従わなくて良い」という、前例のない約束を取り付けていたのが第1。さらに鉄道という強力な輸送機関の発達で、農産物が州境、国境を越えて動き始めた時代に当たり、連邦政府だけでなく州政府も農業の近代化施策に取り組み始めるという時代の潮流をとらえていたのが第2点だ。

 一人で全学年の教育カリキュラムを編成し教え始めたハーヴェイは、学校に実際的で先進的な農業を持ち込んだ。日々の授業に農業についての話題を取り上げ、ハーヴェイの住まいに菜園をつくり、子供たちに世話をさせた。肥料や土壌の知識、病害虫、栽培法、世界の産地など、農業の専門用語が教室での単語のつづり学習の材料となり、菜園管理の実際は新しい農業の考え方を導くものとなるなど、あらゆることが農業を機軸に、しかも社会的な広がりをもって教えられた。子どもたちの体験は家庭に伝わり、各家庭には子どもたちが管理する家庭菜園がもうけられた。収穫物は食卓に上り、新しい野菜の知識は大人へと広がる。子どもたちの養鶏クラブには、州が導入を進めた新種のヒナが無償で提供された。子どもたちは世話をするだけでなく、えさ代から売り上げまでを克明に記録し、養鶏が新しい農業ビジネスとして成立することを大人に教えた。さらに、ヒナを提供してくれた専門家には、子供たちそれぞれが礼状をしたためることにより、公的な文書の書き方の授業となる、という具合に授業は展開した。

 新設した学校農園では穀物や大豆、アルファルファなどが実験栽培された。子供たちの観察ノートは統計学の手法も取り入れており、種の良し悪しの選択がいかに全体の収量を左右するかを大人たちに教えた。「大人たちにいきなり農業の新知識を講義しても拒絶されるだけだ」と、農民の保守性を知り尽くしていたハーヴェイは、子どもを媒介として親たちに科学的農業の重要性を理解してもらう作戦を立てたわけだ。子どもたちは農業の面白さに目覚めただけでなく、学力や社会性などについても都市部の学校をしのぐ評価を受け始めた。まさに農村らしい、農業を核とする知識が大人顔負けの深さと広がりを見せ、子どもたちの才能を開花させたのである。

 大人たちの農業クラブはやがて、ミズーリ州立大学の農学部から講師を招くようになる。さらにポーター校では移動農業大学や農機具展も開催され、同州各地から農民が集まった。移動農業大学は、1914年に成立した連邦政府の「スミス-リバー法」に基づいた取組で、同法は今日の大学の社会活動の出発点となった。すべて、ハーヴェイが事前に関係者に根回ししていたことが具体化したわけだ。政府の担当者や大学関係者にしても、ハーヴェイという理想的な媒介者を得たからこそ、成果を挙げることができたといえる。

ポーター地区のコミュニティーバンド(Getty Image)ポーター地区のコミュニティーバンド(Getty Image)

 こうした活動の積み重ねを経て、ポーター地区の共同体意識は大型農機具を共同購入するまでに成熟した。コミュニティーの核となったポーター校ではスクールバンドが結成され、これに刺激を受けた大人たちの楽団やシェークスピア劇の朗読クラブまで誕生した。学校を出発点とした共同体づくりは、わずか3年あまりで全米、全世界の注目するところとなったのである。

 「農村地区にふさわしい教育手法を打ち立てたい」というハーヴェイの目標は、実は全米の農村学校を取り巻く厳しい現実に根差したものだった。1つの教室で小中学生が一緒に学ぶ複式学級校数は全米で20万校もあり(1915年)、このうち5万校がプレーリーのコーンベルトと呼ばれるトウモロコシ栽培地帯に集中、ミズーリ州だけでもその数は1万校を数えた。農村の複式学級校には経験が浅い新任教師が赴任することが多く、しかも教師を育成する学校では都市の学校のカリキュラムを教えるのが基本となっており、農村校にふさわしいカリキュラムは確立していなかった。新任教師は現場で戸惑い、無力感を感じて辞めて行き、その後任にまた経験の浅い教師が配置されるという悪循環が繰り返されるばかり。ハーヴェイの実践は、各地の教育委員会や経験の浅い教師たちへの希望の光となったのである。

 台南師範学校で、田制佐重の著書を通じて「ポーター校の再生物語」を知った矢多一生は、学校が共同体変革の砦となるという成功物語に胸を焦がした。卒業後は故郷の阿里山・達邦村で駐在所の警察官兼教育所の教師を務める、という進路が統治者である台湾総督府に定められていたとはいえ、矢多は自分のなすべきことは豊かな農村を築くことだという大目標を据えていた。とりわけ矢多の心を捉えたのは、田制が「協働」という日本語訳を当てた「コーオペレーション」の精神である。やや長くなるが日付なしの矢多の書き込みをそのまま紹介する。

学校で開かれたパーティー。右端でピアノを弾いているのがハーヴェイ(Adair County Historical Society)学校で開かれたパーティー。右端でピアノを弾いているのがハーヴェイ(Adair County Historical Society)

 「協働──何という力強い言葉ではありませんか 農村人が都会人に比しみじめな哀しむ可き生活をなしているのは実にこの協働なる言葉を忘れて居るからである 農村人よ想起せよ 都会の文化的施設は悉く之協働の賜物である 但し 労力を使うことなしに 金力を以ての協働である この協働のために さんぜんたる文化的生活をなし保てるのである 農村人に金力ではなくとも人力で以て一致団結し農村のために又一家のために協働したならば 都会には負けずして 必ずや輝かしい明朗な理想的農村を建設しうるものと確信するのである」

 ここには、矢多のその後の人生を貫く「理想的農村」-経済的にも文化的にも豊かな農村建設と、「理想の自治的模範農村」という「自治」の精神がほとばしっている。
 台湾先住民の中では弱小の部類に入るツォウ族の発展のため、ハーヴェイの実践を手本とするという青年・矢多の高揚した純粋な決意は、読む者をさわやかな気持ちにさせる。

【主要参考文献】

◎ “New Schools for Old” Evelyn Dewey(E.P. Dutton & Company)
◎『ハーベー先生』田制佐重(文教書院)

◎『ハーベーせんせい』陳素貞編

コラムニスト
竜口英幸
ジャーナリスト・米中外交史研究家・西日本新聞TNC文化サークル講師。1951年 福岡県生まれ。鹿児島大学法文学部卒(西洋哲学専攻)。75年、西日本新聞社入社。人事部次長、国際部次長、台北特派員、熊本総局長などを務めた。歴史や文化に技術史の視点からアプローチ。「ジャーナリストは通訳」をモットーに「技術史と国際標準」、「企業発展戦略としての人権」、「七年戦争がもたらした軍事的革新」、「日蘭台交流400年の歴史に学ぶ」、「文化の守護者──北宋・八代皇帝徽宗と足利八代将軍義政」、「中国人民解放軍の実力を探る」などの演題で講演・執筆活動を続けている。著書に「海と空の軍略100年史──ライト兄弟から最新極東情勢まで」(集広舎、2018年)、『グッバイ、チャイナドリーム──米国が中国への夢から覚めるとき 日本は今尚その夢にまどろむのか』(集広舎、2022年)など。
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