北京の胡同から

第37回

古い街並みの観光開発と復元──宋代の古都、杭州と開封の今

 ここ一カ月ほど、移動ばかりしていたため、先回のコラムから間隔が開いてしまい、申し訳ありません。今回は観光地比べをしたいと思います。

(写真のキャプションはズーム時に表示されます)

歩行者天国に電気バス

 実は今年の夏、偶然、杭州に立ち寄る機会があった。杭州といえば、南宋時代は事実上の首都として栄え、13世紀には、世界最大の都市に成長したとされる古都。昨年世界文化遺産に指定された西湖を擁する一大観光都市であり、歴史文化名城にも指定されている。しかも最近は中国で「老後を過ごしたい街ナンバーワン」の栄誉を手にした。この杭州で、古い建物や歴史に興味がある人々をもっとも惹きつける場所の一つが、現在は歩行者天国となっている「南宋御街」と河坊街の一帯だ。
 もっとも、その街なみの歴史的雰囲気に過度の期待をすると、裏切られることになりかねない。河坊街は2002年、「南宋御街」の属する中山中路は2006年に大規模な再開発を経ているからだ。「南宋御街」は西洋建築、河坊街には中国の伝統建築が中心、という差はあるが、いずれも復元された「擬古調」の建物ばかり。きれいなことはきれいなのだが、悠久の歴史を感じるかというと、だいぶ違う。観光客用に走る小型電気バスも含め、どこかテーマパーク的だといっていい。
 とはいえ、昔の建物の趣がまったくなかったわけではなく、南宋御街の喫茶店、河坊街の老舗の茶店や漢方薬局などに入ると、パーツや構造に昔の建物のものが生かされていることは感じられた。だがテナントの大半は、再開発後、ここが土産物街として再スタートした時に入居したものらしい。

 街の賑わいはというと、商業施設こそ比較的元気だったが、博物館や資料館などには閉まっているものが多く、夏休みの観光シーズンの割には、観光客の数もいまいちのように感じられた。実際、再スタート後のこの街の景気は予想ほどよくないらしく、テナント料もぐっと下がったらしい。中国の人はよくその土地が持っている精気のようなものを「地気」と呼ぶが、大規模な開発や立ち退き、移転などによって、地元民の足を遠ざけ、「地気」を失ってしまった街の末路がそこにあった。

ぎりぎりの起死回生

 とはいえ、この二つの通りのここ十年の健闘ぶりはやはり顕著だ。そもそもこの一帯は、再開発で完全に取り壊され、昔の痕跡は跡かたもなくなる予定だった。それが地元の住民や良識ある人々の反対や呼びかけで、昔の風貌を復元する動きに変わったのだという。通りのあちこちには芸術的なレリーフやオブジェが配され、工芸品店や骨董店、肖像画を描く店なども充実しており、さすが中央美術学院と並ぶ中国屈指の美術大学、中国美術学院を抱えた美術の街だと感心した。
 建物も、復元部分が中心とはいえ、魔よけの碑や彫刻、戸板など、パーツパーツに明清時代のオリジナルの建物を生かしていることが分かり、看板にもある程度の個性は残されていて、復元にあたっての工夫や苦心が感じられた。

 また、薬局や市場部分以外では、基本的に地元民らしき人々は目だたなかったが、それでも南宋御街の部分などは、貴金属店、ホテル、ブティック、レストランやカフェなど、いくつかの業種を組み合わせた、やや高級な複合的商業エリアになっており、よく中国の復元型歴史観光エリアにありがちな、地元の街並みから「完全に浮いた」感じは弱かった。これは地元の消費文化の成熟ぶりにもよるのかもしれない。

北宋随一の都の面影

 こちらは北宋になるが、実は河南省開封にも「宋都御街」と呼ばれる、皇帝ゆかりの通りがある。北宋時代にもっとも重要な繁華街だったといわれる午門跡前を再開発して生まれた、復元型の大通りだ。だが残念ながら、ここには杭州にも増して、「清明上河図」などを想像すればなおさら、失望を覚えざるを得ない街なみがある。並んでいるのは、縮尺レベルからおかしいと思われる「大味」の擬古建築の数々。北方と南方の伝統建築のスタイルの差も多少影響しているのかもしれないが、一言でいえば、街なみの復元の仕方がかなり大雑把で、そもそも復元とさえ呼べないのでは、という感じである。
 よく見れば、観光都市としての開発や整備は開封でもそれなりに行われているのだが、そのスタイルは未だに1980-90年代風だ。例えば、有名なスープ入り饅頭、灌湯包子の老舗の前では、歩行者の利便性を無視した大通りを建設中で、そのだだっ広さは、中国のひと昔前の広ければ広いほどいい、という価値観を感じさせた。1988年に復元された「宋都御街」も、北京の琉璃廠や西安の旧市街地で同時期に行われていた観光開発を連想させるもので、その様子は復元当時からそう変わっていないと思われた。交通手段まで旧態依然で、最近は整備された観光地ではだいぶ減ってきた、三輪タクシーの強引な客引きを存分に体験することができた。

開発ものんびりなら、破壊ものんびり

 この20世紀後半の擬古スタイルの延長には、その後開発のメスが入らなかったということもあるが、街自体の新陳代謝が遅いということもあるだろう。観光用の街並みとして、地元の人間やその需要から切り離されてしまった時点で、時代に沿った変化をある程度放棄した、どこか隔離された空間となってしまったのだ。
 だがその反面、開封には若干ながら有利な点もある。観光都市としての開発がゆっくりであると同時に、街自体の近代化もゆっくりだからだ。
 例えば、宋都御街の一帯こそ地元から浮いてはいたものの、開封では街全体の肌理のようなものは、まだ清代のそれに近いことが感じられた。つまり、近代都市としての発展が著しい反面、昔の市街区を高架つきの広い自動車道路が突き抜けることになった杭州と比べ、昔の街並みの保存の面では、必ずしも不利とはいえないことになる。また、清の晩期のものではあるが、城壁がきちんと残っているのも、強みだろう。
 それにしても、さすが古都。「宋都御街」における、骨董品店や書道用品や伝統画材店の多さは、地元の文化人の多さを想像させ、その商いも、「通」しか相手にしたくないかのような、昔ながらのぶっきらぼうさだった。

 残念だったのは工芸品関連で、専門店というより、どこでもある記念品を売る土産物屋と呼ぶべき店が多く、そこでの地元の工芸品の割合もそう高くなかったことだ。店の人が地元の伝統工芸、「汴繍(宋繍)」の品だというので買ったアクセサリーケースとほぼまったく同じものが、その後成都で「蜀繍」の品として売られていたので、苦笑した。でも、どこに行っても似たような土産物を売っているのは日本も中国の他の都市も同じで、ある意味、土産物文化だけは他都市と足並みを揃えているのだといえる。

 同じ宋代の古都の復元でも、その過程や成果、現状はさまざまだ。杭州も開封も、宋から元にかけて世界最大級の規模を誇った経歴があるが、その末路はこんなに違うものか、と感慨にふけらざるを得なかった。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、『シベリアのビートルズ──イルクーツクで暮らす』(2022年、亜紀書房刊)。訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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