私の本棚発掘

第17回

フルシチョフじかに見たアメリカ──コミュニスト、資本主義国へ行く

『フルシチョフ じかに見たアメリカ』書影

主題:フルシチョフ じかに見たアメリカ
副題:コミュニスト、資本主義国へ行く
著者:A・アジュベイ
訳者:江川 卓
版元:光文社カッパ・ブックス/昭和35年(1960年)

 本書は、ソ連のフルシチョフ首相の1959年9月15日から27日にかけ13日間にわたる訪米のドキュメントだ。著者名はA・アジュベイとなっているが、実際の執筆者はフルシチョフの女婿でソ連政府機関誌イズベスチヤ編集長のアジュベイを初め、元駐米大使で首相付き通訳のトロヤノフスキーら随員、ジャーナリスト、詩人、それに訪米代表団員らフルシチョフに随行した12名である。
 訳者によれば、原著はA5判680ページという膨大なもので、翻訳に当たっては序論に当たる「訪米前夜」の章、訪米の成果と意義を総括的に論じた最後の二章、それに内外からフルシチョフに寄せられた多数の手紙などを割愛したという。

 次ぎに著者のまえがきでは、「我々にとって絶対の信条となったのは、あくまでも事実に立脚することであった」とし、我々はこの立場を一歩も踏み外すことはしなかったと強調している。つまり客観性を貫いたということだ。
 その上で、あらまし次のように述べている。

 最も強大な社会主義国の政府首班の輝かしいアメリカ訪問は、全国際関係に最も深い痕跡を残し、そのあとを止めずにはいないだろう。アメリカの朝野は興奮のうちに我々を迎え、我々の言葉に耳を傾け、我々を知ろうとした。フルシチョフはその疲れを知らぬ精力的な活動により、我が国の共産主義建設をあらゆる面から解き明かし、我が社会主義祖国の権威をいっそう高め、共産主義者の建設者であるわが国民の偉大さを全世界に称揚した。

 このまえがきから、本書がソ連及びフルシチョフを賞賛し、社会主義体制の資本主義体制に対する優位を主張する狙いのもとに書かれたことは明らかだ。それにもかかわらず、本書はフルシチョフの開け広げな言動に触れることで、一読一定の爽快感を感じさせずには置かないことも確かだ。
 以下本書の記述に従い、フルシチョフのアメリカでの足跡を追跡することにしよう。小見出しは筆者による。

アイゼンハワー大統領との対面

会談前のアイゼンハワーとフルシチョフ どっちがどっち?会談前のアイゼンハワーとフルシチョフ どっちがどっち?

 フルシチョフがワシントン近郊のアンドリュース米空軍基地に到着したのは、ワシントン時間1959年9月15日だった。「乗機の車輪が滑走路にふれると、瞬間、ぱっと白煙が立ちのぼり、半年まえにはだれひとりとして夢想さえしなかった訪問旅行の開始が告げられた」。本書はこの歴史的瞬間をこう描写している。アイゼンハワー大統領自らがフルシチョフの乗機のタラップのかたわらまで出迎え、歓迎式のあと、二人は車に同乗しワシントンに向かった。沿道では数十万人の人出があったが、熱気のこもった歓迎はなかった。フルシチョフ到着の一日前から「拍手も歓声もあげず、沈黙をもって丁重にむかえよう」と書いたププラカードを掲げた車がワシントン市内を走り回っていた、と本書は書いている。

 アイゼンハワー、フルシチョフの第一回会談はこの日、ホワイトハウスで行われた。フルシチョフ訪米直前にはペナントを積んだソ連の宇宙ロケット2号が月面に到着していた。フルシチョフはそのペナントの模型と訪米を記念して作られた金メダルをアイゼンハワーに贈った。会談は30分の予定だったが、2時間におよんだ。
 会談後に発表されたコミュニケでは、会談が友好的、かつ率直な雰囲気の中で行われ、両国関係の諸問題が討議され、国際問題全般についても一般的な形で意見が交わされたとしている。「みなの心に希望を抱かせる滑り出しだった」と本書ではコメントされている。両首脳の本格的な会談は、フルシチョフの旅の最終段階に組まれている。

アイゼンハワー大統領(中央)に月ペナントを贈呈するフルシチョフ首相アイゼンハワー大統領(中央)に月ペナントを贈呈するフルシチョフ首相

 この式典の数時間前、アメリカの衛星を軌道に乗せるべくケープ・カナベラルからジュピターロケットが発射されたが、失敗に終わっていた。本書はこの成功と失敗の二例を比較した上で、「月面にペナントを打ち込む宇宙の砲丸投げは、社会主義の国の全工業力、その全知能の結集によってはじめて達成されたのである。……マルクス・レーニン主義だけが、現代科学・技術の進歩の社会的な意義を正しく評価することができる」と誇らしげに書いている。アメリカから一本とったという気持ちだったろう。

 執筆者たちは、アメリカについてもともと豊富な知識を有する人物ばかりで、渡米前にも相当な研究を重ねていたと思われる。それに訪米後の観察を加え、本書ではアメリカの社会、生活、政治などについて細かに記述している。例えばアメリカの大統領とはどういう地位にあり、どういう職責を持つかとか、ホワイトハウスの構成、ワシントン、ニューヨークなどの都市の歴史などについてだ。繁栄を誇るアメリカ大都市の摩天楼の陰にある貧困者の住宅事情、社会に普遍的に存在する所得格差などを指摘することも忘れていない。第二次大戦後に、あのアメリカのリベラルな人士を恐怖に陥れたマッカーシー旋風にも触れている。こういった記述にはソ連の市民に対する教育的な意図があるのかもしれない。

 フルシチョフは訪米第一夜の招待宴で次のようにスピーチし、比喩を交えながら米ソの協調の必要性を説いた。

 われわれは両国関係の改善について合意に達したいと思っている。われわれ両国は強大であり、両国はたがいに争うべきではない。小さな国々が争っても、せいぜい引っ掻き傷ができるくらいのもので、お化粧をすればすぐに傷痕はなくせるが、もしアメリカやソ連のような強国が争うことになれば、かならず世界大戦が燃え上がり、その傷痕はお化粧ぐらいではとてもかくせなくなるだろう。

 フルシチョフは、訪米前から平和共存の必要を唱えており、このスピーチを初め、訪米中の度重なる宴説、スピーチでも一貫して平和共存の意義について語るのを忘れなかった。

 訪米2日目、フルシチョフはワシントン郊外の農務省の実験農場を訪れた。その夜、ソ連大使館での夕食会の席上でのスピーチでも

 われわれは、農業研究所で興味深い時をすごした。これは貴国の誇りだ。我々はそこで家畜や家禽を見学した。これは素晴らしいものだ!そして、われわれが資本主義国にいながら、社会主義国を代表していることにたいし、家畜たちからは何の抗議も受けなかったようだ。彼らは平和共存を理解していたのだ。

 とここでも平和共存政策の宣伝に努めるのだった。

 この日のナショナルプレスクラブでの昼食会における記者団との討論はワシントン滞在中のハイライトの一つだった。訪米当初からフルシチョフはアイゼンハワーには好感を示していたが、冷戦思考の強いニクソン副大統領については不快感を隠そうとせず、アメリカ人記者の質問に皮肉たっぷりに次のように答えた。

 私は曾て、ニクソン氏はわが国民についても、我が国の政府についても、またその政府首班である私にたいしても、まったくまちがった観念を作られて、自分でそれを信じこまれている、と指摘したことがある。氏は訪ソ前にもあやまった考えをもっていたが、そのあやまった考えを今日まで持ち続けている。この点で氏は安定性を発揮しておられるようだ。

 アメリカとの貿易の可能性についての質問への答えも注目された。発言の概要は以下の通りだ。
最も重要なことは貿易上の差別待遇をなくすことだ。我々はアメリカが製造するものなら何でも製造できるし、アメリカより先に製造したものもいくつかある。我々はアメリカに何も物乞いはしない。経済の発展では、ソ連はまだアメリカにはまだいくいぶん引き離されているが、お互いの地位が取ってかわる時期も遠くない。

 このほか、月に国章のペナントを送り込んだ意図、ハンガリー事件などをめぐる内政干渉の問題、フルシチョフが過去にアメリカを地中に埋めるだろうと発言した真意などについて、時にはとげを含んだ質問も出たが、本書では、「フルシチョフは比喩も交え相手をやりこめ、友人たちの顔からも、われわれの敵の顔からも、はっきりと一つのことが読みとれた――素晴らしい勝利がかちとられたのだ」としている。
 このアメリカ人記者たちとのやりとりの中で、フルシチョフは、「我々はアメリカになにも物乞いはしない」と言い、その後も「我々は物乞いをしに来たのではない」といった発言をしばしば繰り返しているが、これはソ連がすでに経済面でも科学技術の面でもアメリカに匹敵する力を持つようになったという自負の現れだったろう。

 ワシントンでの史跡巡りでは、リンカーン記念堂を訪れたが、ここでは「わが国では、その生涯を人びとの解放に捧げた、かつてのアメリカ合衆国におけるもっとも人間的な人間としてアブラハム・リンカーンを深く尊敬している。われわれは彼のまえに深く頭を垂れるものだ。彼の記憶は永遠に生きつづけるだろう」と話し、周囲をとりまいた群衆の間からどっと拍手が起こった、と記録されている。

 ワシントン最後の行事はアメリカ議会での上院外交委員会のメンバーとの会談だった。そこでのやりとりの中でフルシチョフは

 われわれは共産主義がわれわれにとっていちばんよい制度だと考えている。われわれはあなた方がこれに賛同してくれるよう求めはしない。ただわれわれは、これを妨害しないでもらいたい。……率直に言わせてもらうが、社会主義国での破壊活動に資金を支出するという貴国議会の決定は、平和共存には役立たず、平和のためにならないおろかな決定だ。……この投資は利潤を生まないだろう。

 と釘をさしている。
 ここでは次期大統領になるケネディとも顔を合わせ、握手を交わしている。フルシチョフが「実にお若いですね!」と声をかけたのに対し、ケネディは「それで損をすることもありますよ」と返したという。この時二人は、やがてキューバ危機で対決することになろうとは勿論想像していなかったろう。

国連演説

国連総会で演説するフルシチョフ国連総会で演説するフルシチョフ

 9月17日から、フルシチョフは地方旅行に向かう。最初の訪問地はニューヨークだった。本書は、ここでも繁栄と貧困が同居する都市ニューヨークについて詳細な紹介を行い、

 一歩踏み込んでアメリカの外貌の底にあるものを凝視するならば、アメリカ人がたたかわなければならぬ力は別にある。それは猛威をふるう自然にもまして、狡猾な力だという確信を深めずにはいられない、それは、資本主義経済の矛盾にみちた力だ……。

 と指摘している。
 ニューヨークでの実業家たちとの会合は旅行中の中心的な事件の一つだと本書は言っているが、国際的に最も注目を集めたのは、何と言っても9月18日の国連総会での演説だったろう。フルシチョフ演説の眼目は二つあった。一つは国連における中国代表権の問題だった。

 もし国連が冷戦の諸要素を一掃できるなら、国連はその高貴な任務をはるかに立派に遂行できるだろう。とくに、世界の大国の一つである中華人民共和国が、国連の正当な権利を奪われている我慢のならない状態は、この冷戦の所産ではないだろうか。なぜ国連で、中国が反動中国のしかばねによって、即ち蔣介石一味によって代表されなければならないのか?……中国国民の利益を代表している真の代表が自分の席を占められるように、彼らを外に運び出さねばならない。

 もう一つは軍縮についての提案だった。

 人類の今後の進路は、この問題の正しい解決の成否に大きくかかっている。人類は、破局的惨禍をもたらす戦争への道を進むか、それとも平和の事業を勝利させるかの、いずれかの関頭に立たされている。……われわれの提案の核心は、四年間に、すべての国家が完全な軍備撤廃を実施し、もはや戦争遂行手段をもたないようにするという点にある。……われわれは、どの国もその義務に違反できないようにするため、あらゆる国家が参加する国際管理機関の設立を提案する。

 国際連合の全歴史を通じて、フルシチョフ首相のこの演説ほどの感銘を巻き起こした発言はこれまでにない……国連の古参職員はこう語っていた、と本書は国連演説の場面を締めくくっている。

喜怒ないまぜの西海岸の旅

 9月19日、フルシチョフはニューヨークからアメリカの新型ジェット旅客機ボーイング707で西海岸カリフォルニアのロサンゼルスに向かった。
 ロサンゼルスでフルシチョフが先ず訪れたのは映画の都ハリウッドだった。ハリウッドでの昼食会にはマリリン・モンロー、カーク・ダグラスら有名な俳優が顔を揃えフルシチョフを迎えた。この昼食会の後のスタジオ見学の場面が大きな話題になった。
 フルシチョフ一行が見学したのは映画「カンカン」の撮影現場で、主役を演じたのは有名な女優シャリー・マックレーンだった。本書ではこの場面を

フルシチョフにロシア語で心のこもったあたたかい挨拶をしたシャリー・マックレーンが他の女優たちと一緒に低俗なカンカン踊りを踊らされたのだ。……女優たちは自分自身に対しても、観客に対しても、はずかしくてたまらないという風だった。だれが彼女たちにフルシチョフ首相の前でこんな踊りをやらせる気になったのか、げせない面持ちだった。それでもフルシチョフは貴賓室のさじきに冷静にすわっていた。そして少女たちの踊りがすむと拍手をおくった。

 と描写している。
 見学の後、記者団に感想を聞かれたフルシチョフの言葉。

カンカンについての質問ですか?私の考えでは、つまりソビエト人の考えでは、これは不道徳なおどりですね。立派な女優が、堕落した腹いっぱいの人たちを慰めるために、つまらないことをやらされているわけです。ソ連のひとたちは、俳優は顔を見るもので、お尻を見るものではないと考えています。

 フルシチョフのこのコメントは世界中で大きく報道された。

 この見学のあと、フルシチョフを乗せた車は2時間余も市の近郊を「あてもなくさまよわされる(ドライブで引き回される)」羽目にあった。本書は、フルシチョフはこの間行方不明になっていたと書いている。そしてこの後に事件が待っていた。
 それはロサンゼルス市の歓迎レセプションでの出来事だった。挨拶に立ったポールソン市長は、フルシチョフの資本主義は社会主義にとってかわられるという過去の発言を持ち出し、「フルシチョフ氏に申し上げたいが、あなたは、われわれを埋めることはできないでしょう。そんな気は起こされない方がよろしい。必要とあれば、私たちは死を賭してたたかうものです」と述べたのだった。
 フルシチョフのこの過去の発言については、ワシントンの記者会見の席でも質問が出ており、ロサンゼルスで、しかも市長の口から蒸し返されたのだった。
 これに対しフルシチョフは、今後も冷戦という馬に乗り、軍拡競争をつづけて行こうと望んでいる人たちがいるようだと前置きした上で、次のように反論した。

みなさん!そうやっていった結果がどうなるか、ひとつ真剣に考えてください。あなた方は、私が善意をもってアメリカにきたことをご存知のはずです。……くりかえしていいますが、問題は、ひじょうに重要なことなのです。平和と戦争、人びとの生死にかかわる問題なのです。我々は友情の手をあなた方にさしのべています。これを受けないのですか。率直にいってください。

 フルシチョフはロサンゼルスで、もしアメリカ側が冷静な意見の交換を行うつもりがないならば、アメリカ旅行をやめてしまってもいいと警告したと本書には書かれている。彼は自分が偉大なソビエト国民の代表であることを強調し、帰国しようと思えばすぐにでもできると指摘したのだという。

サンフランシスコへの途上、小駅で歓迎を受けるフルシチョフサンフランシスコへの途上、小駅で歓迎を受けるフルシチョフサンフランシスコへの途上、小駅で歓迎を受けるフルシチョフ

 9月20日、ロサンゼルスから次の訪問地サンフランシスコまでは10時間の汽車の旅だった。途中の小さな駅々では何千というアメリカ人がフルシチョフ一行を歓迎するために押しかけ、サンルイス・オビスポ駅では、フルシチョフは車室を出て、人びとのもとに行き、握手をし、言葉を交わした。厳重な警戒線も民衆に突破された。フルシチョフは車室に戻ると、「詩でもひとつ作りたくなったよ。……まったく、自由に散歩して、みなと話し合えたのは、6日ぶりだからね。牢屋に入れられたみたいだった。やっと、アメリカの新鮮な空気を吸えたよ」とたのしげな興奮した面持ちで話したという。

 サンフランシスコではクリストファー市長らに出迎えられた。市長は、昔から客好きの町として知られているサンフランシスコは、フルシチョフ首相にも心からの歓待を示すだろうと確言した。市の中心部へ向かう沿道には、いたるところ出迎えの人びとが群がり、市長の言葉に偽りのないことが分かったという。港での沖中士との交歓、IBM工場でのセルフサービスの昼食会(工場ではロシア語のできる社員を全部集めていたので、ほとんど通訳なしの交流だった)など、フルシチョフにとっては今までになく心和む1日だったようだ。
 夜の歓迎会でのクリストファー市長を初めとする主催者側の演説は、外交辞令抜きの率直であけすけなものだったが、ロサンゼルスの時とは違い、米ソ両国間に相互理解をうち立てようとする熱意が感じられたという。フルシチョフは答礼の演説で、通りがかりの沿道での平和への願いを訴えた女性との会話を例にあげながら

サンフランシスコの市民たちは、われわれを魅了してしまった。私は、ソ連の人たちとおなじ考えをもって生活している人たち、友好的な気持ちをもった人びとにかこまれていることを実感した

 と返した。
 後日談になるが、のちにクリストファー氏が市長選で勝利したのを知ると、フルシチョフは次のような祝電を送ったという。
「市長の名誉ある職への再選をお祝いします。いまですから秘密をあかしますが、サンフランシスコにいるうちから、私はもし私が美しいあなたの町の市民であったなら、おそらく無条件であなたに投票するだろうと考えていました。私の意見とサンフランシスコ市民の意見が一致したことを大変うれしく思います。」

農業と工業の視察で興奮

トウモロコシ農場でトウモロコシ農場で

 9月22日、フルシチョフは中西部のアイオワ州を訪れた。農業の盛んなアイオワ州は、4年前にソ連との農業代表団との交換訪問が行われたという土地柄だけに、フルシチョフへのもてなしも暖かいものがあった。中でも大農場主でトウモロコシの交配種を作る大会社の経営者でもある旧知のガースト氏の農場訪問はとりわけ愉快なひとときだったようだ。ガースト氏はソ連との交流を積極的に推進してきた人物としても知られ、4年前、ソ連の農業代表団が真っ先に訪れたのも彼の農場だった。
 フルシチョフがガースト氏の畑のサイロ用トウモロコシの植え方は込みすぎていると指摘したのに対し、ガースト氏がアイオワはソ連よりもはるかに雨量が多いので混んで植えても大丈夫なのだと反論するなど、二人の間でトウモロコシ談義に花が咲いた。
 訪問を終えるに当たってフルシチョフは

きょう見せていただいたものからたいへん好ましい印象を受けた。私はアイオワの人たちに特別の敬意をあらわしたいと思う。とりわけ、冷戦のさなかに農業代表団の交換という立派な提案をされた地元紙の編集長の功績を高く評価したい

と述べた。

労働者と贈り物を交換するフルシチョフ労働者と贈り物を交換するフルシチョフ

 9月23日、フルシチョフは国内旅行最終日の日程となるペンシルバニア州の大工業都市ピッツバーグを訪れた。ピッツバーグでは鉄鋼労働者がストライキ中だったが、町では大群衆に迎えられ、工場でも労働者と贈り物の交換をするなどのハプニングもあった。フルシチョフは「いい人たちにかこまれ、労働者の中にいるととてもいい気分だ」と感想を述べ、労働者たちとの記念撮影に応じた。
 訪問の最後にはピッツバーグ大学での大学、市、州の当局者、有力者らとの会合に出席、地方旅行をしめくくる演説を終え、アイゼンハワー大統領の待つワシントンへと向かった。

キャンプ・デービッド精神

 アイゼンハワーとフルシチョフの首脳会談は9月25日夕刻から27日の正午まで、アメリカ大統領専用の別荘キャンプ・デービッドで行われた。
 会談終了に当たって両者は記者会見でそれぞれ次のように語った。

フルシチョフ:気持ちのいい会談だった。私たちがふれたすべての問題について、二人の間には、情勢の評価についても、また両国関係改善の必要性についても、多くの点で共通の理解のあることがあきらかになった。私は、アイゼンハワー大統領が両国関係の改善を心から希望されていることについては、一点の疑いももっていない。……アメリカにはいまなお両国関係の改善を妨げ、国際緊張の緩和を妨害する有力な勢力があるようだ。……しかし私は、最後には良識が国際問題解決のうえで、全世界の平和の強化に通ずる正しい道をささやいてくれるものと考えている。
アイゼンハワー:私がフルシチョフ氏を当地に招いたのは、世界に、とくに米ソ両国に生まれている緊張の原因について討議を行うためだった。私は実質的な交渉を行うためにフルシチョフ氏を招いたのではない。なぜならこれは、われわれの友人の参加なしには不可能なことだからだ。しかし私は、この訪問によって、また我々の会談によって、せめて氷の一部をでも溶かすことは可能だろう、と考えていた。もしその点について、何かが達成されたとするなら、アメリカ国民の功績だ。

 会談後、短い共同コミュニケが発表された。
 共同コミュニケでは、「全面的な軍備撤廃の問題が、現在、世界のもっとも重要な問題であることに同意し、両国政府がこの問題を建設的に解決するために、あらゆる努力をつくすであろう。……両首脳はすべての未調整の国際問題は力によらず、交渉による平和的な手段で解決すべきであることに同意した」などと述べられている。この内容は「キャンプ・デービッド精神」と呼ばれ、米ソ協調を示す一つの兆しとして注目された。

 これでフルシチョフ訪米の主要な日程は終了した。それでは、米ソ両首脳は、それぞれ相手に対しどのような印象をもったのだろうか。本書の中から拾い出すと

フルシチョフのアイゼンハワー観

アイゼンハワー氏が、冷戦支持者たちの抵抗を押し切って相互訪問の措置をとられて以来、私は氏をいっそう尊敬するようになった。氏がフルシチョフをアメリカに招くことを決められたのは、簡単なことではなかった。アメリカ人ならだれでもやれるということではない。これは大人物でなければできないことだった。とくに政治の大局を理解できる人物でなければできないことだった。……大統領の英知があらわれている。大統領がずっと先の方まで見ておられることを示している。

アイゼンハワーのフルシチョフ観

彼はダイナミックで、人の注意を引かずにおかない個性の持ち主だ。彼は、可能なあらゆる論争方法を駆使する人物だ。……彼を目にしたアメリカ人は、彼が非凡な個性の持ち主であることを感じたことと思う。この点にはなんの疑いもない。私は、社会主義ないし共産主義の教義の根本的な命題の正しさについては、彼が十分な信念を持っているものと確信している。彼はこの教義の理念に大きな影響をあたえた。

 これから見ると、双方が相手に対し尊敬と理解の念を持ったことは間違いないようだ。
 本書はフルシチョフの訪米を次のような賛辞で締めくくっている。

この訪問旅行まで、一般のアメリカ人は我が国についてはほとんど知らなかった。彼らは共産主義に関する偽りの話しで長いことおどかされてきた。しかしいま、彼らの前には、新しい世界の代表者があらわれた。ニキータ・セルゲービッチ・フルシチョフの口から、かれらはどれほどの新しいこと、驚くべきこと、思いもかけぬことを耳にしたことだろう。

 フルシチョフ訪米の後の米ソ関係は、残念ながらキャンプ/デービッド精神に示されたような協調の道をたどることはなかった。フルシチョフ訪米の翌年、1960年に行われると共同コミュニケで発表されたアイゼンハワーのソ連への答礼訪問は実現しなかった。1962年にはキューバ危機が勃発し、冷戦が止むことはなかった。
 1989年には、マルタ島で行われたアメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長との会談で、冷戦の終結が宣言された。しかし、以後の世界情勢の推移は今なお複雑な緊張、緊迫の状態が続いたままだ。

コラムニスト
横澤泰夫
昭和13年生まれ。昭和36年東京外国語大学中国語科卒業。同年NHK入局。報道局外信部、香港駐在特派員、福岡放送局報道課、国際局報道部、国際局制作センターなどを経て平成6年熊本学園大学外国語学部教授。平成22年同大学退職。主な著訳書に、師哲『毛沢東側近回想録』(共訳、新潮社)、戴煌『神格化と特権に抗して』(翻訳、中国書店)、『中国報道と言論の自由──新華社高級記者戴煌に聞く』(中国書店)、章詒和『嵐を生きた中国知識人──右派「章伯鈞」をめぐる人びと』(翻訳、中国書店)、劉暁波『天安門事件から「08憲章」へ──中国民主化のための闘いと希望』(共訳、藤原書店)、『私には敵はいないの思想──中国民主化闘争二十余年』(共訳著、藤原書店)、于建嶸『安源炭鉱実録──中国労働者階級の栄光と夢想』(翻訳、集広舎)、王力雄『黄禍』(翻訳、集広舎)、呉密察監修・遠流出版社編『台湾史小事典/第三版』(編訳、中国書店)、余傑著『劉暁波伝』(共訳、集広舎)など。
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