本書のあとがきにはこうある。「せっかく掘り起こされた鉱毒事件が再び山奥の谷間に埋め戻されてしまう。それを許さないために……鉱毒の実態をあったがままの事実として書きしるす……」、著者はそう考えて新聞社(朝日新聞)を退社し、記者振り出しの地・宮崎に移り住み、土呂久鉱害の調査と記録に取り組み始めた。1975年のことだ。
土呂久は宮崎県と大分県の県境にある高千穂町の山間の集落で、著者は本書とは別の著作の中で土呂久の地理的状況を「土呂久は、北に古祖母山(1757m)がそびえ、東西から1000m級の山々が迫りくる40戸あまりの谷底の集落である」と書いている。祖母、傾山系の懐に抱かれた谷間の土地なのだ。
土呂久は、古くは江戸時代から銀山として栄えていたという。この土呂久で砒素を含んだ硫砒鉄鉱という鉱石が見つかり、1920年(大正9年)にこの鉱石を焼いて亜砒酸を製造する亜砒焼きが始まった。
この亜砒焼きに伴う鉱害を初めて明るみに出したのは地元の岩戸小学校の若い教師・齋藤正健さんだ。齋藤さんは土呂久地区の児童に体調のすぐれない者が多いのに気づき調査を始め、1971年に宮崎市で開かれた県教職員組合の教育研究集会で調査結果を発表した。
これが「小学校教師が廃坑跡に埋もれていた鉱毒事件を掘り起こした」と報道され、本書あとがきによれば土呂久の地名が疾風のように日本列島を吹き抜けたのだった。しかし、土呂久の鉱害は間もなく中央のマスコミから姿を消し、幻の事件だったかのような印象さえ与えていたという。
そこで冒頭に触れたように、著者はこの鉱毒事件を闇に紛れさせてはならないと鉱毒被害の調査に乗り出したのだった。著者は鉱毒被害を極小に評価した1972年の宮崎県の調査報告にごまかしを感じたという。その内容は、土呂久地区の健康被害は皮膚症状に限られ、慢性砒素中毒患者は7人だけだったという。
著者が土呂久で聞き集めた話をもとに、毎月2回『土呂久つづき話 亜砒鉱山』と題する記録の発行を始めたのは1976年のことだった。1回分約2000字、ガリ版で印刷し土呂久に配った。「つづき話」は3年半続き72話で完結した。毎回1~2枚の挿絵の版画は著者の妻の由紀子さんが担当した。著者は、ぼくが鉄筆を、妻が彫刻刀を握っての三年半あまりだったと回顧している。この『土呂久つづき話 亜砒鉱山』に手を加えたのが本書で、70話にまとめられている(挿絵の版画には説明がないが、コラムでは話の内容から判断し筆者が説明をつけた)。
本書で扱われているのは亜砒鉱山が開山した1920年(大正9年)から、戦争期の中断を挟んで亜砒焼き再開の動きがでてくる1953年(昭和28年)までのことである。本書の記述などに従ってその間の主な出来事を時系列で記せば次のようになる。
- 江戸時代の初め、豊後の商人・守田山弥が土呂久山で銀山を掘り当て、一躍大富豪になる。その後所有者が転々と変わり、明治の末に閉山。
- 1920(大正9)年、採掘した鉱石を焙焼して亜砒酸の製造(亜砒焼き)始まる。
- 1923(大正12)年5月、土呂久の寄り合い「和合会」で初めて亜砒酸鉱毒問題を議論。同11月、和合会と鉱山の間で12ヵ条からなる契約。
- 1925(大正14)年4月、岩戸村の甲斐村長が宮崎県に奇病で死んだ牛の鑑定を依頼。この頃、亜砒酸業界最盛期。
- 1933(昭和8)年、中島商事が土呂久鉱山の経営を始める。和合会と鉱山の契約終了。
- 1936(昭和11)年、錫製造のために反射炉を建設。後に亜砒酸の製造用に転換。この年、和合会と鉱山の間で煙害補償契約。
- 1936(昭和11)年、12月、中島商事、子会社の岩戸鉱山を設立。
- 1937(昭和12)年、日中戦争始まる。毒ガスの原料として亜砒鉱の需要高まる。
- 1941(昭和16)年、和合会、亜砒焼きを認めた契約の打ち切り決定。この年、鉱山が亜砒焼きを中止。
- 1941(昭和16)11月、岩戸鉱山、火事で休山。
- 1943(昭和18)年、岩戸鉱山から中島鉱山へ。
- 1945(昭和20)年、日本敗戦。
- 1952(昭和27)年、亜砒焼き再開の動き。翌年、再開の申し入れ。
- 1955(昭和30)年、中島鉱山が再開。
- 1960(昭和35)8月17日、日向日日新聞(現、宮崎日日新聞)が煙害を報道。
- 1962(昭和37)年12月、中島鉱山が閉山。
- 1967(昭和42)年、住友金属鉱山が土呂久鉱山の最終鉱業権者となる。
以上の無味乾燥な記述では土呂久鉱害がどういうものだったかを知ることは全く無理だ。それには本書を読むしかない。本書には実在、実名の人物が実に300人あまり登場する。その一人一人が本書の中で煙害に蝕まれた自分と土呂久の歴史を語り紡いでいる。
また本書は独特の文体で書かれているが、それについては後に触れる。先に書いたように本書は時間を追いながら70話の物語で構成されており、その一話一話に複数の人物が登場し、鉱害の実態を訴えている。
コラムでは本書の構成、展開通りには書くことはせず、いくつかのテーマにしぼり、紹介することとした。
亜砒鉱山の開山
大正9年の亜砒焼きの始まりを告げる「かな山がまた始まるげな」の章は次のような書き出しで始まる。
手を広げてみない。開いた指の先から手首に集まって、それから太い腕へ。そんなぐあいに、古祖母山の谷あいから土呂久川へと水は流れてくる。土呂久は、川沿いの縦長の部落じゃ。川が部落を通り抜くる途中、固い岩盤にぶつかって、ほとんど直角に曲がったところがあろう。あの曲がり角の右岸は「樋の口」と呼ばれる一帯での。その昔、土呂久鉱山で盛んに銀が掘られたころのこと、坑内水をくみ上ぐる樋の出入口があった。それがこの名の由来、といわれておる。そこに、40坪を越す広い母屋、そぎ葺きの土蔵、牛を飼う馬屋が建っておった。部落の者ならこの家を、地名と同じ屋号で呼んどった。「樋の口」とな。……「樋の口」の親家(当主)の年保さんが、どこからかフラリと舞い戻ってきて……こういうた。「見ちくり、土呂久でまた、かな山が始まるかい」
この時年保が連れてきた夫婦が見たことのない窯を築き初め、土呂久の人たちが不安に思う中、やがて雪のように真っ白い粉が一升ほど採れた。これが土呂久鉱山で焼かれた亜砒酸第一号だった。
この話はすぐに広がり、部落は「かな山がまた始まるげな」といっきにわきたった。鉱山が始まれば薪が売れる、木炭が売れる、坑木が売れる、坑内へ下れば日当が取れる、鉱山の敷地を持つ者には地代が入る、というわけだった。
しかし、だれも鉱山が「亜砒酸」という毒をつくるものだとは知らなかった。亜砒焼き窯の築造には部落から2~30人が出た。一日働いて80銭から1円ほどの日当だった。
土呂久亜砒鉱山の開山、それは大正9年6月のことだった。亜砒焼きを指導したのは佐伯から来た宮城正一という男だった。
実はこれより先大分県の佐伯では亜砒酸の製造が盛んに行われていた。亜砒酸は医薬品、染料、殺虫剤、除草剤、印刷用インクなどの使い道があった。だが当時は第一次世界大戦のころで、亜砒酸を原料にした毒ガスをイギリス、フランス、ドイツが実戦で使用したという。そして亜砒酸輸出国のドイツが負け、それに代わり日本が輸出国にのしあがったのである。
一方、亜砒酸の製造はひどい煙害をもたらし、山の草木は枯れ、農民は亜砒酸工場の被害を「煙毒」と呼んでいた。この佐伯の煙害のはしりは宮城で、亜砒酸関係者は「宮城は九州の亜砒酸の元祖」と言っていたという。
亜砒焼きのありさま
親の借金を負って樋の口によそから働きに来ていた政市という若者がいた。その政市と嫁のクミはいい金になると誘われ、畑仕事をやめ亜砒焼きに働きに出ることになった。その亜砒焼き現場での様子はこう書かれている。
(親指くらいの塊鉱を粉状にした)粉鉱を水でこねて足で踏み、こぶしくらいの団鉱に握るのもクミさんの仕事じゃった。忙しゅうなると部落の女衆が団鉱づくりの日役どりにでるようになった。女衆は握った団鉱を百貫箱につめて、近くの粗製窯まで運んでいく。窯の脇には、梯子がかけてあった。女衆はその梯子を伝うち、高さ二間の窯のうえへ百貫箱を持ち上ぐる。鉱石の粉は重とうして、えらいな力仕事でな。平たくできておる窯ん上で、百貫箱から取りだした団鉱を一個ずつ並べていく。窯には火がいっちょる。足が焼けるようで、窯の上には長うおれん。……政市つぁんは粗製鉱の焼き方での。仕事に出る前、ガラス壺入りの練白粉を、顔や手や股ぐらに塗り込んだ。……博多人形よりかまだ厚う塗っておった。亜砒負けを防ぐためじゃ。頭には帽子、その上から手拭をかぶって口と鼻をふたぐようにもう一本の手拭、それに背にも一本と、三筋くらいの手拭を巻いて、目だけ出した異様なかっこうで亜砒を焼いた。……砒素が熱せらるると、亜砒酸ガスになって、煙と一緒に飛び出す。焼き窯の隣は、厚い壁ごしに四角い部屋が切ってある。壁にあけた煙道からこの部屋へ煙が流れちいくと、温度が二百度以下に下がるんで、亜砒酸ガスは真っ白い結晶になってこの部屋にたまる。こうした部屋が三つ。順ぐりに三部屋を流れ、亜砒酸の粉を降らした煙は、高さ三間の煙突からはき出されていった。……粉鉱をはだしで踏んで、素手で握ったクミさんの手足に、真っ黒いポチポチがいっぱいでけた。亜砒酸の粉が身体に付くと、すぐに風呂に飛び込まな、皮膚がただるる。亜砒酸ガスと亜砒酸の煙の中で働くことは、妊娠しちょったクミさんに特にこたえたようでの。一日出ては、頭痛やめまいのために三日休む。寝ておる長屋へも容赦なく煙は流れ込んできた。……大正10年旧6月9日、クミさんは産み月よりひと月早くお産した。夫婦にとって初めての子は、生まれたときすでに死んでおった。
クミはほぼ2年後に男の子を産んだ。「亜砒焼く者にも子がでけた。」長屋中が喜びにわいたが、その喜びも束の間、生まれて一週間後にこの子の両のまぶたが、湯のみ茶碗を二つ並べて伏せたように赤くはれあがった。長屋の者はみな「亜砒の粉が目にはいったのだ」と話した。目は1年かかってもとに戻ったが、物心がついたとき、この子の右目はものが四重、五重に重なって見えた。水晶体にひびがはいってしまったのだ。
では大正10年代、政市、クミ夫婦が住んでいた長屋とはどんな風だったのか。
(当時の)土呂久鉱山に、長屋は五棟あった。長屋とはいうても、ちっとも長いこたない。短こうて質素な建てものでの。家賃は払わんでよかったが、まこち粗末なつくりじゃ。萱葺きの屋根に麻殻か萱の壁、戸は麻木戸。戸板があれば上出来よ。……床は、板の上に藁を編んだむしろを段々に重ねて、いちばん上に縁をとった上敷が敷いてあるだけ。……長屋と亜砒焼き窯との距離は、五十間もなかったろうや。直径四、五寸の麻殻を束ねた戸や壁を吹き抜けち、朝から晩まで、煙は部屋の中へ流れこみよった。
じょうれん箱
一方、坑内の労働とはどんなものだったか。その一つ、坑内で鉱石を坑口まで運び出すのは女性の仕事だった。鉱石を運び出すのに使うのは「じょうれん箱」という木箱だった。
じょうれん箱を引くのは、イセノさん、コユキさん、ヒサさんといった女ん衆の仕事じゃ。……じょうれん箱は幅が一尺三、四寸で長さが三尺あまり、深さ一尺三、四寸の木の箱で、その両端にすり桟ちゅうそりをつけておった。……箱だけで六貫はあったろや。これに三十貫くらいの鉱石を積む。藁縄三本をひもでつき通して縫うた綱を、女ん衆はたすきんごつ両肩にかけた。箱の前に針金の輪があって、ここに綱の先の鈎を通す。杖をついて、身体を折って、腰のあたりで引くんじゃ。こいつが重い。三十貫じゃきゆっくりしか歩むこたでけん。……四、五人が列をなして、低い坑道を這うようにじょうれん箱を引いた。……坑内はぬくいし、そのうえ力仕事じゃ。女ん衆は短い腰巻きの上に半纏だけかけた。裸足じゃき、一日中坑内水につかっちょると、足がほとびてしまう。鉱石を踏むとすぐに踵が切れて、小せえ砒鉱が食い込んだ。……
ここで今まで見てきたようなこの本の独特の文体がいかに生まれたか、著者は別の著作の中で概ね次のように言っている。
全編を語りの口調で通したため、つづき話を聞き書きと勘違いされたり、話し言葉そのままと誤解されることもあるが、そうではない。自分が鉱毒世界にもっともふさわしいと考えて土呂久の話し言葉によりかかって創出した文体だ。つづき話しを書き進めるうちに体で覚えた、この作品にだけ通用する文体だ。
和合会
部落の重要な問題は「和合会」という寄り合いで話し合い、決められることになっていた。土呂久の主要産物の一つの椎茸の芽が出ない、カボスが実をつけない、蜜蜂が巣を作らない、農家の主要な蛋白源の大豆の葉が枯れてしまった、川に腹を出した魚が一面に浮いていた、小鳥が落ちで死んだ、鉱山近くの竹林が枯れ始めた、こんな異変が続く中、大正12年5月25日、和合会の総会が開かれた。亜砒酸害毒の問題が議題になった。……
鉱山近くの者が「牛が痩せてしもちよ。秣を食わん」と話した。牛馬まで害があっては、生活が立っていかん。ほうっておけば、大ごとになる。
異変はすべて亜砒焼きが始まったあとに起きておる。……原因が鉱山にあるちゅうことは、誰の目にもはっきりしちょる。総会は全会一致でこう決めた。
「害毒予防トシテハ、完全ナル設備ヲナシ事業ヲナサレン事、会員一同満場一致ニテ、当事務主任者ヘ願フ事」。
和合会の総会はその後も事あるごとに開かれている。
前出の総会の後も鉱山長の川田平三郎は「焼き窯の廻りの草木は枯れても、離れたところの農作物や家畜には被害はない。害が出るにしても鉱山の敷地内に限られる」として設備改善の要求には応じなかった。しかし一方で、焼き窯新設のための石や土、それに亜砒焼き用の薪や木炭、坑木などを提供して貰うという条件で和合会に毎月寄付金を納めてもよいと言い出した。
これを受ける形で同じ年の大正12年11月25日に開かれた和合会の総会では、この要求に応じることが決まり、和合会と鉱山の間で交付金として1ヶ月50円を鉱山事務所から支払うことなどを内容とする12ヵ条からなる契約が結ばれた。
この契約は昭和8年、鉱山の経営が川田から中島商事鉱山部に移ったことにより終了となった。
昭和10年11月25日の和合会の総会では、野菜の売行きが非常に多いので、今後十分作り方を研究し、薄利多売に努めよう、という相談をした。これは、一つには野菜の種類によって煙害に対する強弱に差があることが分かってきたこと、二つには中島商事が買い上げた土地に社宅を建て、従業員の数が100人、200人とふくれあがり野菜の売れ行きが増えたことを反映したものだった。
昭和11年の春、中島商事が新たに買った向土呂久の土地に亜砒窯を増設するという話が伝わり、4月3日和合会の臨時総会が開かれた。その結果、煙害がこれ以上ひどくなっては困るとして、「主任松尾氏に対し、今後増設の亜砒窯は出来得る限り煙道を延ばし、且完全な設備を作り、煙害の少ない窯を増設するように」と申し入れることが決まった。
この時の鉱山側の話では、新たに作るのは錫をほかの鉱物と分離精製し、錫の精鉱を得るための反射炉だということだった。しかし、完成した反射炉の煙突からは亜砒がまき散らされ、反射炉に近い場所の野菜や果樹には亜砒酸の粉が白い斑点となってつくようになった。
昭和11年11月25日の和合会総会でも煙害問題が取り上げられ、岩戸村長に煙害対策を申し入れた。更に翌年、3月20日の役員会は鉱山と直接交渉することを決め、鉱山側に設備の改善を要求した。このあと県庁へも交渉団を送ることにしたが、県庁へ行くまでもなく鉱山は施設の改善に踏み切った。その年の春、和合会と鉱山の間で煙害補償契約が結ばれた。精製した亜砒酸一箱につき12銭を和合会と被害農家に払うというものだった。有効期限は昭和16年春までの5年間とされた。
一方、鉱山側は、反射炉は煙害ばかり起こして効率が悪く失敗だったと、反射炉に「遊煙タンク」をつけることで亜砒酸をとる炉に替えてしまった。何のことはない、再び亜砒酸の製造が本格化したのだった。
この年の12月、中島商事は子会社の岩戸鉱山を設立、土呂久の亜砒焼きは岩戸鉱山に引き継がれた。
昭和16年2月19日の和合会総会は、亜砒焼きを認めた5年間の煙害補償契約の打ち切りを全会一致で決定。その後、亜砒焼きを中止させるには鉱山と手を組んだ行政の壁が厚いとして、煙害料の引き上げで手を打とうという弱腰の意見もでたが、5月25日の総会で2月の総会決定通りとし、亜砒焼きの中止を岩戸村長に申し入れた。しかし煙害問題や土地争いなどで和合会が喧嘩会のように争い事が目立つようになったとして、この時の総会では、「今後一致和合し、悪しき問題が発生しないよう互いに注意する事」という決議も行われた。
その後しばらくして鉱山側は契約が切れたとして亜砒焼きの中止を明らかにした。更にその後起こった選鉱場の火事を理由に岩戸鉱山は休山を明らかにし、採鉱は中止された。
話は戦後に移る。昭和28年旧正月24日、鉱山側から亜砒窯新設の申し入れが正式にあり、その日、和合会の総会が開かれた。建設を容認するかどうかの討論は次回に持ち越しになったが、鉱山側の切り崩しで賛成にまわる者が出始めた。
本書の最終ページは次の言葉で締めくくられている。
亜砒鉱山が始まって三十年あまり、部落は何度となく二派に割れて喧嘩が続いた。そのたびに鉱山は、分裂を利用して反対派の切りくずしをはかっちきた。新窯建設をめぐる今回は、鉱山に働きに出とる者が手先に使われた。「鉱山が盛んになれば、仕事がふえる。金とりもようなる」と説得して歩く。亜砒鉱山開山のときも、ちっとん変わらん話を聞いたがな。……農業で一本立ちでくる百姓は、徹底的に反対の構えじゃ。部落にひびが入った。和合一致を原則とする和合会が、また喧嘩会へ戻ろうとしておった。
亜砒の煙はどう流れた
和合会で回り道をしたが、害をもたらした亜砒の煙はどういう風に流れたのか。まとまった描写を2例あげる。
- 土呂久鉱山は、縦長の部落のまん中にある鉱山事務所のあたりで、標高が五百五十メートルくらいかの。亜砒焼く窯は、土呂久川べりに掘りあけた三番坑と、そこから七、八十メートル高い山腹の二番坑の脇に築いてあった。土呂久谷は、北に千七百メートル級の祖母、傾の連山がそびえ、東西から千メートル級の山が迫ってきちょる。しかも東の端の家と西の端の家では、山の陰になって日の出と日の入りが一時間もちがうほど谷は深い。そげな窪谷でどんどん亜砒を焼くもんじゃき、紫のまちっと黒い煙が、風に乗ってのぼり向けち吹きあぐる。くだり向けち吹きさぐる。部落ん中を、上へ下へとたなびいた。
- 鉱山は煙害対策として、十間ばかし煙道を延ばし、その先端に煙突を立てたがの。煙突の口には、萱の束が小せえ屋根んごつ取付けてあった。雨をよくるためじゃねえ。煙にまじった亜砒が、飛び散るのを防ぐためじゃ。この萱の束にはまるで氷柱んごつ、真白い亜砒酸が垂れさがっておった。はき出された煙ん中の亜砒のうち、ここで止まるのはほんの一部での。大半は亜砒酸ガスといっしょに、部落中に拡散した。鉱山のまわりは緑が消えてしもち、まるで火事場の有様よ。じゃがどうしたわけか、夏になると山百合だけは柿色の花を咲かせた。毒煙に強かったとみゆる。鉱山長屋ん衆は、その百合の根を掘って食糧にした。
焼け野原んごたる環境の中で、長屋の子どもたちは育った。亜砒の粉をかぶった板や岩は、白い黒板の代わりでな。指の先で、漢字や人形の絵を書いて遊んだ。
亜砒の煙が人体に及ぼした影響
亜砒の煙害では多くの部落の者が重い病気に悩まされ死んでいった。その一例として、本書では「かな山」の主で、採鉱の責任者として亜砒鉱山を支えた喜右衛門一家の悲劇が書かれている。
(喜右衛門)の妻のサキさんは全身が黄色く染まって、腹がぶよぶよとはれあがって、動くこともでけずに寝ちょらした。……サキさんのはれは全身に広がった。足の皮が破れてしみだした液で、布団がぐっしょり濡れることもあった。ひどい痛みに苦しみながら、サキさんはそん年(昭和五年)の十一月二十九日、四十九歳の生涯を終えた。
そろって気管をやられて喜右衛門さん家の庭は、踏み場もねえくらいに痰が吐き捨ててあった。……亜砒焼きの煙を防ぐため、昼でも雨戸を閉切った家から「薬くれ、薬くれ」とかすれた声がもれちくる。喉をやられて声にならん声を、ようやくしぼり出すという感じじゃ。
サキの葬式から3ヶ月後に三女のカホルが17歳で死んだ。それから2ヶ月余りたって長女のサツキが死んだ。24歳だった。喜右衛門は翌年の11月9日に死んだ。52歳、鉱毒と隣り合わせの生活を送った一家は、2年の間に5人の葬式を次々と出した。
(喜右衛門の葬式の日)、谷間の里の晩秋は、陽のかげりも早い。夕闇のたちこむる土呂久村には「南無阿弥陀仏」の名号が響いた。あの時代、次々と鉱毒にたおれた部落ん衆には、念仏唱えて往生を願うことが、たった一つの救いの道にも思えたものよ。
もう一例。最初の方で亜砒焼きのありさまで登場してもらった政市とクミ夫婦の場合だ。政市が最初に肺をやられたのは大正12年の春のことで、医者の診断では肺炎にかかっており、助からないかもしれないということだったが、どうにかもち直し、土呂久の近くの皿山に住む兄のもとで養生した。夫婦は、亜砒焼きは体に悪いということで、土呂久に戻るのはやめようかと相談していた。そんな所に鉱山長の川田平三郎と喜右衛門が「ほかに亜砒を焼ける者がいない、やめられては困る」と引き止めに来た。正直者の政市は断りきれず鉱山に戻った。
政市つぁんは病気が悪化するばっかし、鉱山へ出るまで他人のうらやむくらい頑丈だった身体が、五年も亜砒を焼くうちに、見る影もなく弱っちしもた。
風呂あがりに、政市つぁんは剃刀を持ち出した。どうしたわけか足の裏と手の皮が、あちこち盛り上がってくる。それを切ってみると、しばらくして盛りあがる。手を洗うとゴツゴツする。足の裏は、歩くときに痛してたまらん。クミさんの手足も同じようになった。どうか気味が悪い。「身体にはいった亜砒の毒が、手と足から出よるちゃろか」。二人はそげな話をした。……
政市つぁんは、(昭和)23年2月27日に枯れ木が枯れるようにして死んでいった。手足に無数のコブ、しわがれ声、気管支をやられて横寝がでけん。片肺はつまらん。心臓は弱い。慢性の胃腸炎に失明寸前の目。砒素中毒の見本のごつ全身の病気もちで、最後は性根もねえなって五十歳の生涯を終えた。
本書では亜砒の毒にやられ、重病になり、或いは死んでいった人たち、大人も子どもも、の話が、その病状も含めこれでもかこれでもかというほど出て来る。喜右衛門、政市はほんの一部に過ぎない。
朝鮮人
亜砒焼きが身体に悪いということはまわりの部落にも広がった。よほど生活に困った者でなければ焼き方にはなりたがらない。そこで鉱山は朝鮮人に目をつけた。
中島商事時代には3人の朝鮮人が焼き方として雇われていた。日本名が徳村、金山、大川と呼ばれる3人だった。徳村の朝鮮名は徐成徳、大川は崔大川、金山について本当の名を呼ぶ者は一人もいなかった。当時日本の植民地だった朝鮮には働き場所が少なく、朝鮮南部から大勢の朝鮮人が日本に働きに来ていた。3人とも亜砒の毒を受け、差別を受けるなどむごい暮らしを送った。
金山やんな亜砒の煙を吸うて、喉がおかしゅうなった。牛の喉になにかつかえたときは、カンネカズラの先をつぶして口から胃まで通してやる。朝鮮人の大将の徳村やんが牛にしてやるごつ、金山やんの口から腹へカズラを差し込んだ。それがもとで金山やんは死んだげな。……
朝鮮人の大川やんは、嫁女のアサさんの里に移った。アサさんは土呂久から一里半下の上村の出身。亜砒を焼いた二人は半病人での、ゲホンゲホンとよからぬ咳をする。子どもが四人ばかしおるんで、近所の人が「大川やんな、肺病じゃき、子どもにうつると悪い」と、道の下に小屋を建てて大川やんだけ移した。……アサさんは気丈な女でよ、無理して畑仕事に出よったが、子どもを残して大川やんより先に死んだ。身内のおらん大川やんは、寝つく日が多くあまりにも可哀想かった。近所の人の世話で命をつないだが……終戦から数年して大川やんは死んだ。
3人の大将の徳村は亜砒焼きが一時終わった後、土呂久から大分県側の尾平鉱山で働いたが、日本人は朝鮮人を「ボソ」といって馬鹿にした。口論になって難しい理屈が飛び出すと、徳村はそんなことは分からないと首を振ったが、日本人は「ボソの勝手耳」と呼んで彼をのけものにした。3人の妻は朝鮮人、日本人とそれぞれだったが、妻たちの末路もむごいものだった。
戦時下の土呂久
昭和12年には日中戦争が、41年からは加えて米英などとの戦争が始まった。そうした戦争の影響は土呂久にも色濃く及んだ。
昭和16年、和合会が鉱山側との煙害補償契約の打ち切りを決めた後、福岡の鉱山監督局から和合会に対し「代表が出頭して事情を説明せよ」と言って来た。和合会から6人の代表が監督局に出向いた。その時のやり取りの模様はこう描かれている。
係官はいきなりこういうた。「宮崎県からは土呂久鉱山の周辺にたいした被害はない、と報告がきておる。なぜ反対するのか。亜砒焼きを続けさせよ。」
その頭ごなしの態度に、六人はまずたまがった。宮崎県が被害なしと復申したとはおかしな話じゃ。……役人はこう続けた。
「地下資源を少しでも余計にとらねば、お国のためにならんじゃないか。内地で必要なものは内地でつくる。それが国策に従うことだ。」支那事変から始まった戦争を背景に、国策のためには犠牲もやむをえんちゅうもののいい方をする。……
「非常時には、部落の一つ二つつぶれても鉱山が残ればよい。」
この後の和合会総会では先に決めたとおり鉱山との契約を打ち切ることにした。その最中には「支那と戦争をしているのだから、毒ガスを作る原料を作るなとは言えないだろう」などと打ち切り反対の声も出た。しかし、監督局との交渉にも参加した一人「白石」の十市郎が
「監督局は、部落はつぶれても鉱山が残ればよい、という考えじゃが、なんぼ戦時たぁいえ、ひどすぎやせんかい。土呂久をつぶしちゃならん」というた。この意見がきっかけで、総会の流れが変わっちしもた。「ご先祖さまの開いた土地じゃきよ、わしらが子孫へ受け継がなならん」、「部落をつぶすこたでけん」。契約継続に絶対反対派が勢いを盛り返した。
それでもこの年の5月から7月までは、全国の鉱山で増産運動がくり広げられ、「全国金属増産強調期間」と書いた旗が、福岡鉱山監督局から土呂久鉱山へ贈られてきた。
土呂久から戦場へかり出された人もいた。本書には、満州事変から15年、わずか50数戸の土呂久から戦死者は20人、支那大陸で、ブーゲンビル島で、フィリピンで、台湾で、硫黄島で、沖縄で、未来の部落を支える若者たちが華と散った、とある。満州からシベリアに抑留され、弱り切った体で帰国した人もいた。
宮崎県のホームページによると、令和6年(2024)3月14日現在、土呂久地区で慢性砒素中毒患者として認定されたのは、死者を含め男性118人、女性100人、計218人となっている。このうち82人については土呂久鉱山の最終鉱業権者(住友金属鉱山)との間で和解による補償が行われたという。2023年3月24日現在、慢性患者の生存者41人、平均年齢は84歳となっている。
著者川原一之氏がどのような思いで「つづき話」を書いたのか。彼はこう語っている。「つづき話」の構想は、数多くの鉱毒被害者の人生を編年体で織り合わせ、その呟き、呻き、悲鳴、怨み、怒り、叫び、さまざまな声の協和音によって、土呂久鉱毒史の交響曲を奏でようというものだ、と。そして、「つづき話」を途中でくじけずに続けられたのは、いつも楽しみに読んでくれた被害者のおかげで、その人たちが一人また一人と櫛の歯が欠けるようにこの世を去っていくのがいちばん辛かった、と述懐している。
川原一之氏(宮崎市在住)は1994年にアジア砒素ネットワークを結成、アジアのヒ素汚染地の調査、対策に乗り出した。2000年にはJICAからバングラデシュに派遣され、その後15年あまりヒ素汚染対策に協力した。
2024年3月には600ページ近い大部の『和合の郷 祖母・傾山系 土呂久の環境史』(非売品)を著した。川原氏はこれまで土呂久関連の書籍を6冊出しているが、『和合の郷』はそれらの著作の集大成、自分の人生の総まとめだとしている。
