私の本棚発掘

第01回

黃済人著『三峡ダム建設議案の採択は如何に行われたか:一全人代代表の日記』

全人代の会議場である人民大会堂(手前は天安門広場と人民英雄紀念碑)全人代の会議場である人民大会堂(手前は天安門広場と人民英雄紀念碑 – Wikipedia より)

 

はじめに

 私は1966年半ばからNHK記者として中国問題の取材に従事するようになった。丁度文化大革命が始まった時期に当たる。これから本欄で取り上げる書籍は、それからこれまでに読んだ記憶に残る本、刺激を受けた本、感銘を受けた本だ。書評というより紹介の色合いが濃い。当然中国に関する書籍が多いが、ジャンルは政治的なものから文学的なものまで種々に及び、中には私の訳書も含まれる。
 最初に取り上げるのは、1992年の中国の全国人民代表大会(全人代)重慶市代表の日記だ。表紙には熱点(白熱した議論)、新聞(ニュース)、内幕という文字が躍っている。

黃済人著『三峽工程議案是怎樣通過的:一個全国人大代表的日記』(原題/重慶出版社1992年9月)

三峽工程議案是怎樣通過的:一個全国人大代表的日記(百度より)三峽工程議案是怎樣通過的:一個全国人大代表的日記(百度より)

 中国の第七期記全国人民代表大会第五回会議は1992年3月20日から4月3日まで北京で開かれた。著者の黃済人は200人余りの四川省代表団の一部、重慶市代表34人の一員として全人代に参加した。重慶市代表の34人という人数は青海省と寧夏回族自治区の代表を合わせた人数に相当した。
 日記は開幕日の3月20日から閉幕日の4月3日まで一日も休まずつけられている。

 ここでは先ず著者の黃氏について簡単に触れておこう。中国の検索サイト百度によれば、黃氏は1947年、北京生まれ。専業作家で記録文学や長編小説を多数著している。現在は中国作家協会主席団員、重慶市作家協会名誉主席である。この『日記』は彼の代表作の一つとされている。
 この回の全人代には11の議案が上程されたが、四川省なかんずく重慶市の代表にとって最大の関心事はいうまでもなく三峡ダム*建設の議案だった。それは三峡ダムが造られればダムのてっぺんは重慶になり、環境、水運、土砂の堆積、洪水、移民などあらゆる問題が四川省特に重慶市に重くのしかかってくることが予想されたからである。

 全人代はよく中国政府(実際には中国共産党)の提案を無条件に承認するだけのラバースタンプだと揶揄されるが、この人代ではどうだったのだろう。『日記』でしばしば言及され強調されているのは、この回の全人代の議論が民主的に進められたということだ。著者らのいう民主とはどういうことか、『日記』を見ていこう。

 3月20日、全人代の開幕日。四川省の代表団はほかの7代表団とともに京西賓館に宿泊しており、朝8時半バスを連ねて大会会場の人民大会堂に向かった。バスが出発してすぐ、黃済人の前の席にいた楊東橋重慶科学委員会主任が急に後ろを振り向き、「黃さん、この資料を見たか。これは四川省人代事務局がみなに見てもらおうとよこしたものだ」と言って、印刷された資料を手渡した。それは四川省建設委員会主任を務めたこともある土木工事の専門家・杜恒産から四川省代表団にあてた長文の手紙で、その中には『三峡の工事についてのいくつかの意見』という長文の意見書が付されていた。

黃済人氏黃済人氏(百度より)

 黃氏は意見書で印象深かった点をかいつまんで紹介しているが、ここでは更に短く要点のみを記しておく。「三峡ダムが後代に福をもたらすか、災いをもたらすか、意見が大きく分かれている。科学技術面でも重大な異なる意見があり、挙手の表決で決めるべきではない。一旦造られれば元に戻せない、中途で止めようとしても止めるのは難しい。四川省の人民代表として、当然何よりも四川のために発言すべきだ。また三峡ダムの工事は四川一省に限った問題でもない、国家の全局に関わる問題でもある。慎重にも慎重に考慮し、着工延期が上策だ。」これを読んだ黃氏の感想は、「自分は中国語を学んだものであり、三峡ダムについては何も知らない、全人代の代表は2900人あまりいるが、その中に少しでも三峡ダムに通じている専門家はどれほどもいないだろう」というもので、意表をつかれたスタートだった。

 李鵬総理は初日の政府活動報告の中で三峡ダム建設に関する議案を早急に審議して欲しいと要請したが、宿舎に戻っても議案は届かない。黃氏は何をもとに審議すればいいのかと事務局に不満を述べた。
 夜になって待ちに待った三峡ダム工事に関する議案が宿舎に届けられた。実際にはそれは李鵬総理からの全人代に当てた手紙で、三峡ダム建設の必要性、三峡ダム工事の実行可能性に関する報告の審査結果、政府常務委員会が真剣な討論の結果、三峡ダムの工事の着手に同意したことなどが書かれていた。黃氏は、この手紙は自分がとりわけ重要だと考えるいくつかの問題に答えてくれるものだと感じた。そのほかに50ページに及ぶ議案の説明書があった。

李鋭氏の論文「今は三峡ダムに着工してはいけない」の最初のページ李鋭氏の論文「今は三峡ダムに着工してはいけない」の最初のページ

 その夜は更に四川代表団のスタッフから『科技導報』1992年第2期が配布された。この雑誌には李鋭の「今は三峡ダムに着工してはいけない」という論文が載っていた。李鋭(1917~2019)は水利電力部副部長、毛沢東秘書などの経歴をもち、中国共産党の中の民主改革派の重鎮として知られる。1950年代半ばから三峡ダム建設に反対の論陣を張っていた。『論三峡工程』などの関連の著書がある。

 黃氏はこの論文の中の次のようなくだりに非常な困惑を感じた。「周恩来総理は……長江に問題が生じればそれは誰か個人の問題ではない、国家全体、党全体の問題だ、三峡ダムは我々子孫の問題であり、21世紀の問題だとはっきり指摘している。……周総理は長年水利、三峡の問題に関わっており、とりわけ三門峡の厳しい教訓があったからこそこのような痛切な言葉があったのだ。」黃氏は、三門峡は知っているが、その厳しい教訓が何かは知らない、それなのに報道界はこれまで何故その問題にかたくなに口を閉ざしているのかと憤慨の体である。黃氏の全人代初日はこうして困惑のうちに終わった。

三門峡ダム 新中国建国後最初の黄河の治水事業として1957年に着工、60年に竣工した多目的ダム。黄河が運んで来た多量の土砂の堆積で上流に洪水を引き起こすなど問題が多発し、後々まで設計のやり直しや改修に追われた。

李鋭氏李鋭氏

 黃氏は後に、「去年12月からの大新聞の一連の文章は世論の誘導に熱心で、三峡着工の気勢を大いに盛り上げた。着工延期の意見は出しようがなかった。だが李鋭の文章を見るがよい、それは統一された世論に小さな亀裂をもたらした。この小さな亀裂は全人代が始まってから大きな天窓にまで広がった。(3月31日の日記)」と評価している。

 これ以後、代表たちは宿舎でグループ討論(分科会)に多くの時間を費やすことになる。また黃氏は著名人なので彼の部屋を訪ねて議論を重ねる代表も少なくなかった。
 3月21日 午前は人民大会堂で大会。鄒家華副総理兼国家計画委員会主任の三峡ダム建設の議案についての説明を聴取。開会前のロビーでは建設に賛成か反対かをめぐり侃々諤々の議論が交わされていた。しかし鄒家華が説明を終え深々と一礼すると賛成、反対を問わず代表たちから一斉に拍手が湧いた。黃氏によると、彼の丁寧、真摯な説明に代表たちは「民主」を耳にしたということになる。

 午後の重慶小組(分科会)の討論では工事が影響を及ぼす財政問題などで議論が百出したが、そこに突然一人の男が現れた。彼は参考意見を聞くためあらかじめ呼んでいた重慶環境保護総局の責任者だった。代表団の宿泊するホテルには厳重な入館チェックがあるのに彼はどうしてたやすく入館できたのか。彼は何と病気で出席できない代表の赤色の出席証を胸につけていた。しかし本人の顔と出席証の写真の顔とは似ても似つかない。大会ではこんな間の抜けた一幕もあった。

 三峡ダムの問題は四川省や重慶市代表団だけが議論を重ねていたわけではない。各省、市などの代表団でも熱心な議論が行われており、その様子は簡報(ダイジェスト)や主要新聞の報道として代表全員に毎日届けられていた。光明日報は議論の激しさを「硝煙が各戦線に充満、砲弾が飛び交う、掩蔽壕に避難」などと形容していた。他にもこの全人代に関する外電や台湾、香港の新聞報道なども資料として毎日各代表のもとに大量に配布されていた。重慶代表団では疑問点を糺すため楊振懐水利部長を呼ぶ建議を提出した。黃氏も建議書にサインをしたが、本当に来るだろうかと半信半疑だった。

 3月24日、建議書を受けて四川代表団の全体会議に楊振懐水利部長が出席した。重慶の代表たちは水利部長を前にそれぞれ大局から出発し、ダム建設の利害得失について激しい議論を繰り広げた。黃氏も発言し、「今大会で表決するなら、三峡ダム建設の命運はこの問題に無知な大多数の人々に握られることになる。全人代の会期は短い、この短い時間内に具体的に正しい発言をし、判断をするのは難しい。この全人代で表決しなければだめなのか、もし将来問題が起こったら、賛成票を投じた代表は責任を負わなければならないのか」と述べた。最後に楊振懐が発言し、「ダムが稼働した時に出現する新たな問題には、私は100%保証することができない、天と地の闘いで全て勝てるとは言えない、だからいくつかの問題については目下のところいまだ予測不可能だ……」と締めくくった。黃氏はこの率直な言葉に三峡ダムの建設により多くの人が信念を強めることになったと感想を述べている。

 翌々日の3月26には、四川省代表団の要請で、今度は銭正英前水利部長(全国政治協商会議副主席)と鄒家華副総理が四川省代表団の会議に出席した。この会議では四川省代表団長などから着工が決まった場合の資金などについて疑問が呈され、他にも工事を魚釣り工程(実態のない見せかけの工事)、胡子工程(だらだらして進まぬ工事)にしてはならないといった批判が出た。会議の途中、黃氏の隣にいた女性の代表が隙を見ていきなり鄒家華副総理のもとに駆け寄り、新聞紙に包んだものを手渡すというハプニングもあった。黃氏は何ごとが起こったかと顔面蒼白になったが、聞いて見るとそれは彼女の所属する工場の印鑑が押された「早急に長江三峡ダムを建設することを断固支持する」という内容の全人代と全人代主席団に当てた手紙ということだった。

 黃氏は副総理と全国政協の副主席という指導者がこんなに集中して真面目に代表たちの意見を聞くのを見たのは初めてだと感激している。(全人代の一期は5年間で、黃氏はこれまで4回全人代に出席していた。)二人は原稿なしでユーモアも交えて丁寧に説明し、代表たちから笑いが起こる場面もあった。二人は会議の終了後代表たちからサイン攻めにあった。これも「民主」の一場面ということだろうか。

 議論の最終段階に入り、焦点はこの大会でダム建設の議案を採択すべきか、後年に判断を延期すべきかに絞られてきた。中でも資金の問題が大きく取り上げられるようになり、外資を導入してはどうか、資本主義の有効な建設方式を取り入れるべきだなどという意見も飛びだした。大衆は大鍋飯(食いっぱぐれがない)、労働者は鉄飯鍋(親方日の丸)、幹部は鉄椅子(いつまでも居座り)、重点工事はみなこうなると言う者まで出た。過激な発言に、1958年ならとっくに右派になっている、いや今は92年だから心配ないなどいったささやきも聞かれるほどだった。日記では他にも文化大革命に関連したちょっとした話題を紹介しているが、3年前のまだ記憶に新しい天安門事件に触れた記述はない。

 3月30日、全人代主席団の第二回会議が開かれ、三峡ダム建設についての国務院の議案を正式に採択した。表決の結果は出席者114名中、賛成90、反対2だった。(残り22名は棄権だったのだろう)。主席団の一員で四川省人代常務委員会主任の何郝炬は三峡ダム建設が重慶に及ぼす経済、環境面での不利な影響を決議と審査報告の中に書き入れることを望む、口で言うだけではだめだと発言したが、容れられずに棄権した。何氏の発言は、早くも3月22日に四川省代表団が大会に提出ずみの決議案に基づくものだった。

 その日の午後、この件を巡り重慶小組の会議が開かれた。主席団の審議結果の報告は針が落ちても聞こえるほどの粛然とした雰囲気の中で行われた。討議では、大会では棄権すべきだという意見が相次いだが、最後に楊東橋重慶科学委主任が全国的な文献に「重慶」という2文字を書き入れるのは妥当ではないと発言、みなこの意見に納得したようだった。翌日は四川代表団が全人代常務委の審議結果について議論した。

 4月1日、大会終了を二日前にして著者にアクシデントがあった。この日の午前、重慶小組は自習となった。黃氏は自著の表紙を飾る写真を撮りに北京市郊外の蘆溝橋へと出かけたが、高所から跳び下りた際足首を骨折、以後の大会への出席は不可能になった。これがこの日記出版の契機となった。見舞いに来たある出版社の編集者が「三峡ダム建設の問題は非常に注目されており、記者や作家にとってはまたとない素材だ。あなたは、賛成、反対、棄権のいずれの投票もしないのだから、いろいろな意見を公平に記録できるだろう」という社長の言葉を伝えてきた。編集者は、しかもあなたは審議の参加者だ、これを書くのは人民の付託に応え、歴史に対する責任を果たすことになると付け加えた。こうした言葉を聞いて黃氏はこの日記の出版を決意したのだった。

 こんな中、「三峡ダム建設工事に関する決議(草案)」の第二稿が病床の黃氏のもとにも届けられた。第二稿の末尾には初稿になかった次のような文言が付け加えられていた。「すでに明らかになった問題は引き続き研究し、適切に解決されなければならない。」この文言は土壇場で重慶組書記の直訴を受けた全人代の万里常務委員長が、重慶小組の建議は合理的で必要なものだ、第二稿にそのまま書き加えるべきだと決断した結果だったという。

全人代の最終日4月3日の黃済人氏の日記の最初のページ全人代の最終日4月3日の黃済人氏の日記の最初のページ

 4月3日、全人代最終日。黃氏はホテルのベッドで三峡ダム建設に関する議案の表決の結果を待った。代表の一人が黃氏の部屋に報告に来た。表決の結果は賛成1767票、反対177票、棄権664票、表決のボタンを押さなかった者25人だった。反対と棄権は投票総数の32%あまりに達した。こうして三峡ダム建設の議案は採択された。1918年、孫文が長江三峽にダム建設の必要性を提起してから74年がたっていた。黃氏は、「採択された、採択された、夢想70余載、調査50多年、論証40個春秋、争論30個冬夏、そして中華人民共和国の最高権力機関が15日間の昼夜を問わない審議の結果、1992年4月3日ついにこの結論に達した」と日記に綴った。黃氏の日記は、「私は、私の胸がいつまでもいつまでも高鳴り続けるのを覚えた」という言葉で結ばれている。

 この表決の結果をなんと見るべきだろうか。それに至るまでには侃々諤々の議論があったことは日記に見る通りだ。黃氏はしばしば民主と科学の議論が行われたと述べている。少なくともこの全人代に関する限りラバースタンプと揶揄することはできないのではないかと私は思う。ただ一般市民に公開された審議もないし、大会では報告を聞くか表決のボタンを押すだけで、首脳に対して質疑を行うことはなかった。我々が考える民主の水準には届いていないとは思う。私の知人の中国人によると、同じ頃日本を訪れた彼女の子供は、日本の国会審議のテレビ中継を見、「政府の偉い人を批判、攻撃しても罪にならないのだ」と目を丸くし、将来は日本に留学したいと話したそうだ。

 では他の年の全人代の実態はどうなのだろうか、この第七期第五回全人代のような活発な議論は例外だったのだろうか。習近平総書記への権力集中が極端に進んでいる最近の全人代では、地方代表の分科会でも習氏に忠誠を誓い、彼を礼賛する発言ばかりが目立っているという。

 長江三峡ダムは1994年12月に正式に着工、2009年に竣工を見た。工期は17年だった。

コラムニスト
横澤泰夫
昭和13年生まれ。昭和36年東京外国語大学中国語科卒業。同年NHK入局。報道局外信部、香港駐在特派員、福岡放送局報道課、国際局報道部、国際局制作センターなどを経て平成6年熊本学園大学外国語学部教授。平成22年同大学退職。主な著訳書に、師哲『毛沢東側近回想録』(共訳、新潮社)、戴煌『神格化と特権に抗して』(翻訳、中国書店)、『中国報道と言論の自由──新華社高級記者戴煌に聞く』(中国書店)、章詒和『嵐を生きた中国知識人──右派「章伯鈞」をめぐる人びと』(翻訳、中国書店)、劉暁波『天安門事件から「08憲章」へ──中国民主化のための闘いと希望』(共訳、藤原書店)、『私には敵はいないの思想──中国民主化闘争二十余年』(共訳著、藤原書店)、于建嶸『安源炭鉱実録──中国労働者階級の栄光と夢想』(翻訳、集広舎)、王力雄『黄禍』(翻訳、集広舎)、呉密察監修・遠流出版社編『台湾史小事典/第三版』(編訳、中国書店)、余傑著『劉暁波伝』(共訳、集広舎)など。