張伯笠氏は1989年の天安門民主運動で学生のリーダーの一人であった。6月4日の武力弾圧の後に指名手配され、6月13日から中央テレビで放送された21名の学生リーダーの一人にされた。張氏について顔写真とともに「張伯笠、男、26歳、黒竜江省望奎県の人。北京大学作家クラスの学生。身長は1メートル75センチ程度。中肉、丸い顔、二重瞼、鼻は上向き、厚い唇、東北訛り」と繰り返し放送された。
しかし、張氏は暴力的な活動などしていない。元々彼は作家を目指し、ルポルタージュ作家の劉賓雁と知り合い、彼自身もいくつかのルポルタージュを発表し、社会主義体制の暗黒面を批判し、反響を呼び起こした。そして、彼は89年の天安門民主運動積極的に加わり、民主、自由、法治、人権を主旨とする天安門民主大学校長となった。この大学の名誉教授には鄭義、劉再復、厳家其などがおり、民主主義や言論の自由を求める作家たちの支持を受けたのである。
それにもかかわらず指名手配されたため、張氏はソ連国境近くまで逃亡し、そこで隠れて信仰を守るクリスチャンに匿われた。その後、国境を越えてソ連に入るがKGBに捕まえられ、中国領土内に送り返された。そのため中国の辺境地で2年間の逃亡生活を送り、ようやく香港を経由して米国に亡命できた。
こうして迫害を逃れることはできたが病気になり闘病生活を余儀なくされた。そして、このように続いた苦難を通してイエス・キリストの救いを体験し、張氏は牧師になることを決心し、神学校で学び、現在ではワシントンDCにある Harvest Chinese Christian Church の主任牧師を務めている。この経緯は張伯笠『逃離中國:一個當代魯賓遜的故事』(博力書屋、1998年。その後『逃亡者』とタイトルを変えて版を重ねる)にまとめられている。
また、2005年3月、亡命しプリンストン大学に迎えられた劉賓雁が80歳の誕生日を迎えのを機に、やはり亡命した鄭義たちは亡命者の声を劉賓雁に捧げる書をまとめた。これは『不死の亡命者』というタイトルでネットで公表され、その後台湾で出版された。張氏は「亡命者の独白」を寄稿している。
この『不死の亡命者』の「後記」では、「本書の主旨は、おおよそ一言でまとめれば――亡命である。地理的、及び政治的に迫られてやむを得ず亡命したにせよ、あるいは、文学的または精神的に自ら放逐を選び取ったにせよ、おおよそ亡命は作家や詩人の宿命であり、古くて新しいテーマである。……15年の歳月が流れ、強いられた放逐と自ら選び取った放逐の艱難が、次第に浮かび上がってきた。ある人は鶴に乗り遠方へと去った〔逝去した〕。ある人は貧しさと病に逼迫している。また、ある人は既に音信不通で蒸発した……。何かを書き記すべき時に至った」と述べられている。そして、鄭義、張伯笠の他に、スウェーデン文学院の Goran Malmqvist(中国名は馬悦然)の序文、于浩成、劉再復、孔捷生、郭羅基、張郎郎、陳墨、高行健、北明、余傑たちの文章が編集されている。その中の一部は『藍・BLUE』第20号の日本語部分の「不死の亡命者」特集で翻訳紹介した。
このたび、張氏は初来日し、まず札幌から車で2時間程の会場で開かれたクリスチャンの修養会で体験を中心に講演した。参加者は日中韓の信者や求道者で、中国の関係者は主に残留孤児であった。そして大阪に来て、カナン・グレイス・チャーチ(羽曳野市、8月18日)や主イエス・キリスト教会(大阪市北区、20日)で講演した。その内容は体験を中心に新約聖書「ローマ人への手紙」12章の「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい」や「ヨハネ伝」8章の「真理はあなたたちを自由にする」などの聖書の教えであった。張氏は1989年に愛する家族を含め全てを失い、さらに健康まで害され何度も自殺を試みたが、イエスに出会い、自由を得て、喜びに満ちた人生を得ることができたと語った。
彼はいつか中国で宣教したいというビジョンを持っている。宣教ではないが、先月末に妻の父の葬儀のために帰国を申請し、1度は受理されたが、翌日に断られた。その理由ははっきりしなく、よく見ないで受理したが今はまだ帰る時期ではないという説明だった。確かにまだ時期ではないが、1度は受理されたことから、彼のビジョンが実現する可能性は高まっていると思われる。張氏には民主主義者とクリスチャンという二つの背景があり、彼が中国で活動できるようになれば、大きな変化のシンボルになるだろう。