BOOKレビュー

書評『ナクツァン』

ナクツァン書名:ナクツァン
副題:あるチベット人少年の真実の物語
著者:ナクツァン・ヌロ
訳者:棚瀬慈郎/解説:阿部 治平
発行:集広舎(2020年10月15日)
判型:四六判/上製/496頁
価格:2,700円+税
ISBN 978-4-904213-98-8 C0023

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「三峡ダム」の淵源はチベット弾圧から

 今や、世界が人権問題の対象とするチベット。本書は、そのチベット遊牧民出身のナクツァン・ヌロによる、中国によって殲滅されたチベット人の歴史、伝統、文化の記録だ。全5章、490ページ余の本書の表紙には、チベット遊牧民の穏やかな昔が描かれている。第1章からページをめくると、天と地の間に生きる遊牧民の日常が広がる。家畜の乳を搾り、バター、ヨーグルトを作り、生きるためだけに一頭の家畜を屠る。チベット仏教の敬虔なる信仰者でもある遊牧民は、家畜を殺すのではなく「(生命を)いただく」という。日本人と同じ、「いただきます」と食事前に唱える死生観に親近感を覚える。しかし、驚くのは、著者の母が若くして亡くなっての葬儀の様子。日本では火葬だが、遊牧民の場合、それは「鳥葬」である。ハゲワシらに死体を食べさせるのだが、一連の葬儀の進め方は知らなかった。それだけに、文化の違いと一言で片づけられない衝撃を受けた。

 亡き母の為、著者兄弟は父と共にチベット仏教の聖地、太陽の都ラサへの巡礼の旅に出る。その旅の過酷さに、そこまでして信仰を貫く姿に感銘する。そんなチベット遊牧民の生活が一変したのは、1956年(昭和31)の事だ。東西冷戦の時代、ソ連でフルシチョフが前政権のスターリン批判を始めハンガリー動乱が起きる。建国間もない中華人民共和国の主席・毛沢東は慌てた。「鳴放運動」で人民の不満を解消しようとしたが、逆に「反右派闘争」として批判者を弾圧した。更に、周恩来によってモンゴル、ウイグル、カザフ、チベットなどの民族弾圧へと拡大する。

 中国軍はチベット仏教の僧院破壊に加え、僧侶や仏教徒の殲滅に奔走した。内モンゴルの騎兵隊までが駆り出された。この時、家畜を含むチベット人の財産略奪が行われた。老若男女の別なく、虫けらでも叩きつぶすかのように殺す。投降しても家畜小屋以下の牢獄に送り、そこでも人々は日々死んでいく。進むも地獄、退くも地獄。万単位でしか表現できないチベット人の殺戮が、中国軍によって粛々と行われた。

 そんな中国軍の圧政下、著者ナクツァン・ヌロは生き抜いた。食糧配給が途絶し、人々は餓死する。それでも、野生動物を捕まえて食べる。その逞しさには驚愕を越えて称賛しかない。ナクツァン・ヌロが生き残ったからこそ、中国軍の蛮行、毛沢東、周恩来の悪行を知りえたのだから。今や、崩壊の危機にさらされている三峡ダムは、チベット人が逃げ込んだ森林を中国軍が伐採したことで誕生した。この森を消滅させたことが黄河流域での大洪水につながる。そこで作られたのが三峡ダムなのだ。

 本書は、チベット人であれば誰もが知っている話であり、所持する一冊といわれる。チベット、ウイグル、内モンゴルの人権問題に関心のある方は必読の書といえる。
もし、可能であれば、著者が固く口を閉ざす「文化大革命」の証言も読んでみたい。人類共通の「業」として、後世に伝えて欲しいからだ。

浦辺 登(2021年5月23日)

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