キユパナの丘で──台湾阿里山物語

第06回

米国のインディアン政策をまねる

丘陵地に茶畑が続くタッパン集落(筆者撮影)丘陵地に茶畑が続くタッパン集落(筆者撮影)

 高一生の父アパリが、阿里山の大きな集落であるタッパン(達邦)に開設された鹿造派出所で巡査補として働いていたことは、前回に触れた。では、山地の先住民が暮らす土地に置かれた派出所は、どんな経緯で誕生し、またどんな機能を果たしていたのだろうか。

 同地の派出所開設は1900年前後とされている。この時は地方行政事務所である嘉義弁務署の管轄下であり、警察官が駐在するものではない。日本人職員一名が配置され、土地関連の不当行為取締、病気の者への施薬、先住民児童のための教育開始準備が主な業務だった。1903年(明治36)の総督府の機構改革で、山地先住民の管理は警察の主管となり、同年4月、タッパンの派出所には巡査3人が配置されて業務を開始した。アパリが巡査補に採用されたのは、この機構改革の時からと推測するのが妥当で無理がないように思われる。翌1904年11月4日からは派出所内に設けたツォウ族子弟のための学校「番童教育所」が開校し、警察官が教師を兼ねるため業務が増えているからだ。

ツォウ族の衣装をまとったタッパン駐在所警察官の野中竹六氏(右端、番族慣習調査報告書第四巻より転載)ツォウ族の衣装をまとったタッパン駐在所警察官の野中竹六氏(右端、番族慣習調査報告書第四巻より転載)

 さて、この機構改革は重大な統治方針の出発点となった。台湾総督府は領台初期、相次ぐ反乱に対し軍隊、憲兵隊、警察隊による「三段警備」体制を敷いて危険地帯に軍、中間地帯に憲兵、平穏な土地に警察という分担で動乱の鎮静化に努め、1903年までには、平地ではようやく社会秩序が安定してきていた。しかし、先住民が暮らす山地、特に中央山地北部に強大な勢力を誇るタイヤル(泰雅)族などは、誇り高く慓悍ではあるが、他の先住民との抗争である「出草しゅっそう」を繰り返し、少年から青年への通過儀礼である「首狩り」も行っていた。さらに、居住地域に隣接する台湾人や漢人集落への襲撃も繰り返していた。これとは対照的に阿里山のツォウ族のように逸早く「帰順」、つまり新しい統治者である日本と平和的に通行すると表明したグループもあった。こうした状況に合わせた先住民統治方針として台湾総統府が導入した方針が「北壓南撫ほくあつなんぶ」だった。反抗的な北部は力で押さえつけ、従順な南部の先住民には融和策を実行するという政策である。日本に帰順表明した地域には派出所を開設し、ある程度の自治を認めながらも、警察官がトップとして暮らしの隅々まで目を光らせる仕組みを実行したのである。

「番童教育所」の学童。最後列は警察官兼教師「番童教育所」の学童。最後列は警察官兼教師
持地六三郎持地六三郎

 北部の先住民に対する圧力として導入したのは「隘勇線あいゆうせん」の構築である。隘勇線はもともと清朝が台湾統治で用い、先住民と一般住民の居住区域を木の柵で仕切り、双方が出入りできないようにしたものだが、実効性はなかった。しかし、総督府が導入した隘勇線は、高圧電流を流した鉄条網や地雷などを敷設した強力なものだ。そして稜線から谷に降りてまた稜線を上る万里の長城のように構築した隘勇線を、魚網を狭めるようにだんだん山頂側へと移し続け、先住民を追い上げて居住空間をできる限り小さくして降伏させることを目指した。

 「北壓南撫ほくあつなんぶ」政策を考案したのは、総督府の参事官、持地六三郎である。持地は、米国の駐台湾領事ジェームズ・デーヴィドソンの助言を受け、米国のインディアン政策に倣って制度を構築したとされている。探検家でもあったデーヴィドソンは日清戦争報道のため1895年に来台し、その後淡水で貿易商を営んでいた時に、第22代大統領グローヴァー・クリーヴランドから台湾領事に任命された人物だ。彼は世界で初めて台湾の歴史を英語で出版した知識人であり、台湾先住民とアメリカのインディアンは歴史や文化がよく似ているので、インディアン統治の仕組みは日本の台湾先住民統治に有用である、と持地に教授したのだった。

ジェームズ・デーヴィッドソンジェームズ・デーヴィッドソン

 少々長くなるが、総督府の先住民統治政策を理解するために、米国のインディアン政策を紹介しよう。世紀を越えてアメリカで虐げられ続けた人種グループは黒人とインディアンである。今日、米国では黒人を「アフリカン・アメリカン(アフリカ系アメリカ人)」、インディアンを「ネイティブ・アメリカン(先住アメリカ人)」と呼ぶようになったが、事の本質をぼかしして美しく言い換える、偽善めいた言葉でもある。アフリカから黒人奴隷が初めて北米大陸に連れてこられたのは1619年のことだ。彼らは米国を二分した市民戦争(南北戦争=1861年~65年)で、奴隷身分から一応ではあるが“解放”された。しかし、インディアン問題はもっと深刻だ。インディアンに市民権が認められたのは1924年6月の「インディアン市民権法」による。それでも投票権については州ごとの規制で、未だに完全には保障されてはいない。

南東部のインディアンが追放されたルート。濃い緑部分がネーション(The National Geogrphic)南東部のインディアンが追放されたルート。濃い緑部分がネーション(The National Geogrphic)

 北米大陸はもともと彼らインディアンが暮らす土地だった。米国の建国前、彼らは最初にやって来た外来勢力であるフランス、イギリスと戦わなくてはならなかった。北米大陸東岸の、イギリス植民地独立軍の司令官ジョージ・ワシントンは、本国イギリスからの独立のためだけではなく、独立後の安定的な国政運営のためにも、インディアンとの共存が重要であると考えていた。これは極めて現実的な路線である。米統計局の資料によると、入植開始直後の1620年の人口はわずか2302人。独立から14年後の1790年に初めて実施した連邦政府の統計調査では、誕生間もないアメリカの人口は約389万人で、このうち18%に当たる約69万人を黒人奴隷が占めていた。異様な人種構成である。また、インディアンの人口は1870年の政府統計で初めて記載され、その数は2万5731人である。1880年の統計では2.6倍の約6万6000人に倍増しているから、調査が十分行き渡ってはいなかったとしか考えられない。

 1789年にジョージ・ワシントンが初代大統領に就任すると、政府は北部の7部族であるシャウニー、マイアミ、オッタワ、チペア、イロコイ、ソーク、フォックスが住む土地を国家(ネーション)として、それぞれ条約を締結し連邦議会の同意も得た。しかし、誕生間もない新政府には、インディアンの土地を我がものにしようと暴走する白人を制御する力はなく、各部族も自衛のための戦いに入って行く。

 ところで、ワシントンほどインディアンのリーダーたちと平和のパイプでタバコを喫し、酒食を共にした大統領はいなかったようだ。しかし、文明観の決定的な違いは埋めようもなかった。ワシントンは、インディアン問題の最良の解決策は、彼らを白人同様に文明化すること、つまりキリスト教に改宗させ、英語を読み書きできるようにすることだと信じていた。また、土地は個人の所有物として取引されるのは自明のことと信じ、先祖伝来の土地は部族の財産であり取引できないとのインディアンの思想をどうしても理解できなかった。したがって、インディアンの指導者たちはワシントンを「偉大な白人の領袖」であると同時に「インディアン文化の破壊者」としての二面性を持つ人物だと受け止め、警戒していたようだ。

1861年から20ドル紙幣の顔だった第7代大統領アンドリュー・ジャクソン。2020年に黒人活動家の肖像に置き換えられた(Getty Images)1861年から20ドル紙幣の顔だった第7代大統領アンドリュー・ジャクソン。2020年に黒人活動家の肖像に置き換えられた(Getty Images)

 アメリカ政府をインディアン大弾圧へと劇的に転換させたのは、第7代大統領アンドリュー・ジャクソン(在任1829年-37年)である。ジャクソンは当時の西の辺境、サウスカロライナ州生まれで軍人出身、後に弁護士に転じ政界入りした。

 事の発端は、アメリカ南東部のアパラチア山脈周辺、10万平方キロメートルもの広大な土地で暮らす先住民の国、チェロキー・ネーションで金が見つかったことだった。1800年代、チェロキーは合衆国の政治制度に倣って憲法を制定して政府を組織し、農業や織物業など産業振興に努めた。そして1828年3月には英語とチェロキーの言葉で印刷された新聞「チェロキー・フェニックス」が発行されたのである。もちろん、インディアン史上初の先駆的な出来事だ。チェロキー族は、ワシントンが期待した文明化への道を歩んでいたのだ。

インディアン初の新聞チェロキー・フェニックスの1828年3月6日の一面(The Encyclopaedia Britannica)インディアン初の新聞チェロキー・フェニックスの1828年3月6日の一面(The Encyclopaedia Britannica)

 ところが土地と金鉱を狙った米連邦議会は、1830年5月に「インディアン追放法」を成立させ大統領が署名、彼らをミシシッピ川以西の大平原とへと強制移住させる、一方的な法的根拠を整える。チェロキー族やこの土地で活動する宣教師たちは連邦最高裁に法律の無効を訴え、1832年3月に勝訴した。しかし、大統領ジャクソンは最高裁判決を完全に無視、軍隊を動員して1万5000人のチェロキーを中心とする南東部のクリーク族、チッカサウ族など計4万6000人を、約1600km離れた不毛の土地に追い立てたのである。満足な食料も持たず移動した彼らのうち約4000人が飢餓や病気で死亡した。「涙の道行き」と今に伝えられる悲劇である。

 当時の連邦最高裁には「三権分立」を確立させるだけの法的権威が備わっていなかったと理解すべきか、それとも大統領も連邦議会も建国理念などまるで尊重せず、自分たちが正しいと信じることを実行するのが務めだと考えていたのか—よくもこんな非道な仕打ちをしたものだと言うしかない。

 大統領ジョンソンの下で、アメリカはジョージ・ワシントン以来掲げて来たインディアンの法的・政治的権利を尊重するという政治的理性をかなぐり捨てた。インディアンの土地略奪を正当化する政策はこれ以後約30年間にわたり続いたのである。彼らは不毛の大地へと集団で追われ、狭い「居留地(リザベーション)」に押し込めて監視され、外界との接触を断たれた。しかし、西部に移住してきた白人の侵略はやまず、やがて平原のインディアンたちは居留地を抜け出して武力で立ち上がり、騎兵隊との戦いを繰り広げていくことになる。欲にかられた大統領ジャクソンの政策の後遺症は深刻で、インディアン問題は今日でも米国社会に突き刺さった大きな命題であり続けているのだ。

 日本の台湾先住民統治では、文明化とは日本語の習得や日本の社会習慣に親しむ農耕社会を目指すことであり、部族の共同所有の土地は認められず、総統府に侵食されて行ったことなどが類似しており、武力による反抗が大きな悲劇を生んだことも同様である。

 総督府が目指した隘勇線による包囲面積は1万8480平方キロメートル。この地域は665社(集落)、戸数約2万2000戸、人口約12万2000人が暮らす領域であった。この内最大の標的は、先住民でアミ族に次いで二番目の人口規模を持つタイヤル族約2万8000人だった。隘勇線の構築は1903年(明治36)12月、中央山脈東側の宜蘭県から始まり、西側に当たる台北市の南東部、南西に当たる新竹県や南投県と、中央山脈の先住民の居住領域を囲むようにして進んだ。構築した隘勇線の総延長は約2300kmに及び、彼らの土地約4300平方キロメートルを奪い、猟銃約7350挺を押収した。実質的には戦争と言えるこの戦いで約4340人が死亡した。

隘勇線に沿って構築された電気柵(明治45年、台湾総督府蕃務署)隘勇線に沿って構築された電気柵(明治45年、台湾総督府蕃務署)

 隘勇線で山地へと追われる中で、タイヤル族の総頭目となったワタン・シェッツは1909年(明治42)、息子を人質に差し出し投降したが、その際、一つだけ条件を付けた。「息子に日本の教育を受けさせること」である。その息子こそロシン・ワタン、日本名は渡井三郎である。後に四国の日野家の娘、日野サガノと結婚し、日野三郎を名乗った。ロシン・ワタンは、タイヤルの本拠地である角板山(現・桃園市)に開設された「角板山蕃童教育所」で学び、台湾総督府医学院に進んで、先住民出身の医師第一号となる。戦後、林瑞昌と漢名を名乗り台湾省の第一期の議員となると、高一生とともに先住民復権運動の指導者として活躍した。高一生は南部先住民を代表するエリートであり、林瑞昌は北部先住民の精神を束ねる先駆者だった。二人は同じ案件、でっち上げ事件で蒋介石政権に逮捕され、獄死する。林瑞昌の人生もまた、先住民エリートがたどった悲劇として幕を閉じたのである。

 

〔主な参考文献〕
◎『臺灣原住民史』藤井志津枝(臺灣省文献委員会)
◎ “Native American Policy』Richard Harless”(National Library for the Study of George Washington)
◎『臺灣殖民政策』持地六三郎(国立国会図書館デジタル・コレクション)
◎『我が父ロシン・ワタンの一生』林茂成(1975年4月17日)

コラムニスト
竜口英幸
ジャーナリスト・米中外交史研究家・西日本新聞TNC文化サークル講師。1951年 福岡県生まれ。鹿児島大学法文学部卒(西洋哲学専攻)。75年、西日本新聞社入社。人事部次長、国際部次長、台北特派員、熊本総局長などを務めた。歴史や文化に技術史の視点からアプローチ。「ジャーナリストは通訳」をモットーに「技術史と国際標準」、「企業発展戦略としての人権」、「七年戦争がもたらした軍事的革新」、「日蘭台交流400年の歴史に学ぶ」、「文化の守護者──北宋・八代皇帝徽宗と足利八代将軍義政」、「中国人民解放軍の実力を探る」などの演題で講演・執筆活動を続けている。著書に「海と空の軍略100年史──ライト兄弟から最新極東情勢まで」(集広舎、2018年)、『グッバイ、チャイナドリーム──米国が中国への夢から覚めるとき 日本は今尚その夢にまどろむのか』(集広舎、2022年)など。
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