私の連載では日本国外、特にラテン系諸国や韓国の事例を扱うことが多くなっていますが、日本国内において協同組合運動の発展に尽くした賀川豊彦(1888~1960)での存在を忘れるわけにはいきません。今回はその代表作の「友愛の政治経済学」(1936年、Brotherhood Economics、英語で書かれた原著はこちらからダウンロード可能、邦訳はコープ出版より刊行)をちょっと読んでみたいと思います。
賀川はまず、産業革命が進んでこれだけ生産能力が向上したにもかかわらず、一部の者だけが富を収奪し蓄積する一方、階層社会が生まれ失業や依存なども同時に発生していた当時の世界情勢を描写して問題視する一方、当時一般的に資本主義の代替案とみなされていた社会主義や共産主義が唯物論的であり精神的な価値観を伴っていないこと、さらに宗教と経済との関連を無視する傾向を批判し、「主の祈り」の台詞が経済と関連していることを示しています。具体的には「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」や、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」であり(最新の口語訳聖書では「罪」となっていますが、ラテン語では「債務」に当たる単語が使われています)、また1粒の小麦から150粒が収穫できたり、めんどり1羽が年間で100個以上もの卵を産んだりするように、成長に対して肯定的な態度を示しています。
その後、キリスト教の愛を強調したうえで、既存の経済に宗教的な価値観がないことを批判し、キリスト教の愛を経済活動において実践すべきだと主張します。いのち、労働、取引、成長、職業の自由選択、秩序、目的という7つの価値観を表明した後に、この7つに対応する形で各種協同組合の役割を説明したり、当時の関連事例を紹介したりしています。さらに第8章ではこれらの協同組合から構成された協同国家像を提示し、最後となる第9章では国際協同について語られています。
- いのちに対して: 保険組合・医療生協
- 労働に対して: 生産協同組合
- 取引に対して: 流通協同組合
- 成長に対して: 信用協同組合
- 職業の自由選択に対して: 共済組合
- 秩序に対して: 公共サービス協同組合(水道・電気など)
- 目的に対して: 消費者協同組合
紹介された事例の多くは1936年当時のもので、現在は存在しないものばかりですが、それでも特に注目すべきは、第7章第3節の中で、現在の回復企業に相当する事例が紹介されているところでしょう。現在ではそのような発想は日本にはなく、経営者が操業中止を決めたら従業員は解雇を受け入れるしかないという考え方が一般的になっていますが、1920年代から30年代にかけての日本では労働者が企業の操業権を資本家からもらい受けることができたようで、現在でも南米やスペインなどでは同様の事例が存在します。雇用の確保という観点から、今後このような観点が重要視されてもよいのではないでしょうか。
ただ、賀川がキリスト教の価値観に基づいてこの本を著している点については、注意が必要でしょう。説明するまでもありませんが、日本においてキリスト教徒は少数派であり(カトリック、プロテスタントと東方正教会全部合わせても人口の2パーセントもいない)、大半の日本人が信仰する宗教は神道や仏教ですので、キリスト教徒の価値観を前面に出せば出すほど、「キリスト教徒でないオレには関係ない」と拒絶されかねません。この本が出た1936年はまだまだ欧米文化至上主義が強い時期で、欧米に受け入れられるためにはその宗教的基盤であるキリスト教に基づいた議論が必要だったかもしれませんが、現在のように、特に社会的連帯経済においては多文化主義が標準となっており、協同組合の理念は宗教を超えるものであることを考えると、特定の宗教の立場を強調すると、それ以外の宗教の信者にとっては押し付けのように聞こえかねません。ですので、例えば世界人権宣言や持続可能な開発目標と照らし合わせて、彼の思想がキリスト教徒限定のものではなく、より普遍性を持つものであることを強調する必要があるでしょう(世界人権宣言が制定されたのは戦後になってからで、「友愛の政治経済学」の刊行当時はまだありませんでしたが、それでもフランスの人権宣言を参照することもできたはずです)。
具体例を挙げたいと思います。例えば、同書ではキリスト教が愛の宗教であることが書かれておりそれはその通りだと思いますが、そのような愛を重要視しない仏教徒やイスラム教徒、さらに儒教や神道の信者にとっては、愛を基盤にした経済構造をいくら主張しても無意味です。また、十字架を抱える愛の観点で私的所有物や相続財産を神に捧げることが提案されていますが、これはキリスト教徒以外には通じないだけではなく、財産権を保障する世界人権宣言にも反しています。とはいえ、これについてはキリスト教色が強い愛ではなく、フランスの標語の一つである「友愛」(仏fraternité、直訳するなら「兄弟愛」)という表現に置き換えることで、より普遍的な概念に昇華させることができるでしょう。また、現在であれば前述した世界人権宣言や持続可能な開発目標など、特定の宗教に依存しない考え方に基づくことが大切になります。
次に、7つの価値観と各種協同組合の対応関係についての議論ですが、確かに非常に興味深い一方、特に現在(2020年)の状況を鑑みると、そう簡単に割り切れるのか、という疑問も生じます。流通協同組合については、確かに流通網がそれほど発達しておらず、仲買人による暴利が日常的だった当時は必要だったかもしれませんが、これだけ情報化社会が進み、生産者や販売者と消費者を直接結び付ける方法が生まれている現状を考えると、少なくとも全ての分野で流通協同組合が必要だとは思えません。また、当時と違い、地球環境への負荷を考慮しない経済成長が批判されるようになった現在では、その点も考慮したうえで、融資対象の事業を選別する必要があります。そして、職業選択の自由と共済組合の関連という議論は、説得力が薄い気がします。
さらに、国際会議で賀川の思想について紹介する場合も、注意が必要です。欧米人や中南米人は、多少オリエンタリズム的な観点から、キリスト教以外の伝統的なアジア特有の要素の中に社会的連帯経済につながるものがないかという点に興味を持つ傾向にあります。仮に現在、日本の研究者が賀川の思想について国際会議で発表しても、「賀川の思想はわかったけど、それってキリスト教文化圏の私たちには特に目新しいものではない。むしろ日本の伝統的な価値観には社会的連帯経済と関連するものはないのか?」という質問を浴びせる可能性が非常に高いです(実際、中南米でブエン・ビビールという概念が登場しているので、彼らとしてはアジアにも似たような概念がないのか知りたがっている)。特に連帯経済の関係者の中には、西洋社会の中では支配的かつ保守的な地位を占めるキリスト教に辟易している人も少なくないことを鑑みると、キリスト教的な側面を強調しすぎず、また日本におけるキリスト教の立場を補足することも必要でしょう(個人的には、こちらやこちらの記事でも書いたように、日本の伝統的な価値観である神道や仏教、そして武士道はどれも、協同組合の思想につながりにくいという問題を抱えている気がしますが)。
また、マルクス主義の台頭を防止するには、キリスト教が現代人にきちんとした福音を伝えるべきだという賀川の考えは、宗教と世俗権力が癒着していた現実に対する認識の点で不十分なような気がします。どの宗教であれその社会で支配的な地位を占めると、世俗的な権力を持つ国王や皇帝などと癒着しがちです。実際のところ、武力や国家統治権、そして金銭を持つ世俗的な権力者は、自らに欠けている神とのつながりを持つ宗教の力を借りて自らによる支配を正当化しようとし、逆に宗教のほうは世俗的な支配力に欠けているため、国家権力に近づいて自らの地位を高めたり、経済面で保護を受けたりしようと考えるようになります。もちろん賀川のように非常に純粋で、俗世間の穢れを無視する人もいるでしょうが、残念ながら大多数の聖職者はそのような精神性からは程遠いものです(私自体が不可知論者であり、あらゆる宗教に対して距離を取る立場であるための発言であることは十分承知していますが)。また、この本が刊行された1936年は、スペインで内戦が勃発し、その結果として共和国が崩壊し、反乱軍を率いたフランコが総統に就任しますが、協同組合やNPOなど当時の社会的経済を厳しく弾圧したフランコ政権の主な支持層として、地主や実業家などの資本主義者のみならず、カトリック教会もいたことを忘れるわけには行かないでしょう。
これに加え、持続的な成長に疑問をはさまない賀川の考え方は、当時としては標準的なものであったものの、天然資源が有限であることが明らかになり、浪費を諫める脱成長などの議論が主流の現在では、到底受け入れられるものではありません。さらに、確かに農作物などは一定の投資からそれなりの利益を引き出せるかもしれませんが、投資によっては需要予測を見誤って大幅な損失を計上するリスクもあります(例えば、ある食べ物の人気を見込んで投資したものの、人気が出ずに商品が大量に売れ残る場合)。
とはいえ、特に日本の協同組合運動においては、現在においても賀川の理念が重要視され続けていることは確かです。個人的には先駆者としての彼の理念に敬意を表しつつも、彼もあくまでも当時の文脈で言論を行っており、2020年の現代では通じなくなっている価値観もあることから必要な修正を施して理解することが大切というのが、私の立場です。