パラダイムシフト──社会や経済を考え直す

第31回

バスク州の連帯経済ネットワークによる教育マニュアル

 社会的連帯経済を推進するには、それに関連した教育・研修制度の準備も欠かせません。この点においてスペインの連帯経済ネットワークREASのバスク州ネットワークが、「連帯経済: 経済を変革して私たちの世界を変革」というマニュアル(学生向けマニュアル: スペイン語版バスク語版、講師向けワークショップ運営ガイド: スペイン語版バスク語版)を昨年末に発表していますので、その内容について簡単に紹介したいと思います。

学生向け教科書の表紙学生向け教科書の表紙

 学生向け教科書は7章構成になっていますが、まず第1章は、現在の経済体制の再検討から始まります。経済を意味するスペイン語のeconomía(英語のeconomyと同源)は、もともと日本語でいうところの家政を意味するギリシャ語に由来しており、あくまでも需要を満たすための各種生産・流通活動の運営管理が本来の意味でした。その後、経済の背後には思想があることや、現在の資本主義中心的な経済体制は近代以降のものであることが述べられ、利益の最大化を重視する資本主義により人間や環境に悪影響が及んでいることが示されたうえで第2章や第3章では、そのような従来型経済に批判的な立場から、そしていのちの持続可能性という観点から、社会変革型の経済としての連帯経済が提唱されますが、連帯経済については社会的経済(協同組合、NPO、財団、共済組合)を基盤とするものの、各種社会運動とつながる形で社会変革に取り組んでいる側面が強調され、平等、労働、環境面での持続可能性、協同、非営利性そして地域への取り組みという6つの原則が示され(詳細はこちらで。なお、私が近頃制作したドキュメンタリー「バルセロナの連帯経済」では、この6つの原則をどの程度達成しているかという観点から各事例が紹介されています)、連帯経済が生産のみならず創造、金融、取引や消費をも含むものであることが明らかにされます。さらに、社会的連帯経済の団体がその原則をきちんと守っているかどうか鑑定するためのツール、具体的には社会的バランスシートや社会的監査についても説明されています。

動画1:ドキュメンタリー「バルセロナの連帯経済」

 第4章では、貧富の格差の拡大や、実体経済よりもはるかに巨大なものへと膨張した投機経済といった点の批判から始まり、これらの問題を解決し、環境面や社会面で責任を果たす案件にのみ融資を行う倫理銀行(日本のNPOバンクに相当するが、日本のものよりははるかに規模が多く、預金残高が数千万ユーロから数十億ユーロ規模)の重要性が紹介されています。その後第5章では、貨幣経済という尺度では見落とされがちな子育てや介護などの重要性が強調され、第6章では上記のような価値観を重視した社会的市場について説明が行われ、最終章では個人ではなく地域社会全体の利益を目指す各種コミュニティ経済の取り組みが紹介されています。

動画2:社会的市場についてのオンライン講演(筆者が通訳を担当)

 講師向けワークショップ運営ガイドでは、さまざまなロールプレイゲームにより理論ではなく体験を通じて、現在の経済の各種問題点を理解してもらう方法が紹介されています。たとえば競争型の経済と協力型の経済の違いを体験させたり、天然資源収奪型経済や地産地消型、気候変動・天然資源の枯渇やアウトソーシング化による雇用の不安定化、観光客の急増やジェントリフィケーション(以下説明)、過去世界を変えた女性の追憶、そして倫理銀行や連帯経済の各種事例について、参加者と議論を深めたりといった形です。

 なお、ジェントリフィケーション(英gentrification)は、日本ではなじみのない概念ですが、スペインなど欧米諸国では頻繁に使われているものなので、説明したいと思います。ニューヨークやロンドンなど大都市には、中心街に近いところにある労働者地区など、交通の便がよい割には家賃が安い地区がありましたが、家賃が安いということでアーチストが住み着くようになると、アーチスト向けのお洒落な飲食店やギャラリー、ライブハウスなどが近くにできるようになります。すると、その地区は雰囲気がよくなり、アーチスト以外の中産階級も好んで移り住むようになります。地域の住民が低所得者層中心から中産層、それも中の上の層が中心となると、荒廃していた空き家も修復されてそれなりに高級な住宅に生まれ変わるため、不動産価値は上がりますが、これによりその他の賃貸住宅の家賃も上昇し、元々の低所得層が住めなくなり別の地区への転出を余儀なくされるという問題も発生します。ここ数年スペインは観光客が急増していましたが、これにより一般市民向け賃貸住宅のかなりの部分が観光客向けに貸し出されるようになり、賃貸住宅の供給が減ったことで家賃が上昇し、それによりマドリードやバルセロナなどの大都市では中心街からの退出を余儀なくされた人が数多く出ています。日本ではまだまだ一般的ではありませんが、それでもここ数年観光客が急増したことで、一部の街では似たような問題が起き始めているかもしれません。

 このマニュアル自体は非常に興味深いものですが、個人的にはこれをこのまま和訳しても、あまり日本向けに参考になるとは思えません。スペイン社会で頻繁に話題になっている概念の中には、計画的陳腐化(本来なら長持ちする製品を作る技術があるのに、あえて一定期間が過ぎたら壊れるようにしたり、あるいは見栄えのよいCMで数年前の製品を時代遅れに思わせて買い替え需要を生み出したりすること)や銀行に対する問題意識、そして脱成長やフェミニスト経済など、日本ではほとんど話題になっていないコンセプトもかなり存在しており、仮にこのまま訳して日本の人たちに読んでもらっても、ちんぷんかんぷんとまでは行かなくても、自分たち自身の問題として親近感を持ってもらえない可能性が高いと思われます。むしろ、社会的連帯経済の基本的なコンセプトを踏まえたうえで、ここ数年の日本で話題になっている問題やキーワード(少子高齢化、ワーキングプア、持続可能な開発目標、引きこもりのように社会的疎外に苦しんでいる人の再統合など)に置き換えて、あくまでも現在の日本社会の文脈においてどのような形で連帯経済が日本の社会問題の解決に寄与するかという観点から書いたほうがよいでしょう。また、経済については英語economyだけではなく、日本語・中国語や韓国語の語源である「経世済民」についても言及して、中国語とギリシャ語という、東洋と西洋の両方を代表する古典言語のどちらにおいても、利益追求ではなくニーズの充足こそが経済の本来の目的であることを示すことが大切でしょう(詳しくはこちらの記事で)。

 また、社会的連帯経済の事例の中では、Youtubeなどでその概要が公開されているものも少なくありません。日本以外の事例については、その大半が現地語だけでしか紹介されていませんが(もちろん日本語字幕版があるものもある)、それでも世界各地でさまざまな実践例が存在することを知るだけでも、社会的連帯経済の幅広さを理解し、事例の細かい詳細もですが、それ以上に世界各地の事例に共通する哲学や理念を理解し、それを毎日の活動に応用していくという発想を学ぶことが大切だと言えます。

動画3: ブラジルの連帯経済を紹介した動画(日本語字幕版)

 いずれにしろ、最近は自動翻訳サイトのレベルも向上しており、特に最近日本語に対応したDEEPLでは、連帯経済の現場で多用されているラテン系諸語(フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語)から日本語に翻訳する場合でも、かなり良質の訳文を提供しています。もちろん正確な翻訳ではない場合もありますが、それでもこのマニュアルの概要を知るには十分だと思いますので、語学が苦手な方も一度機械翻訳を試してみて、そこから新しい発想を受け入れてみてはいかがでしょうか。

コラムニスト
廣田 裕之
1976年福岡県生まれ。法政大学連帯社会インスティテュート連携教員。1999年より地域通貨(補完通貨)に関する研究や推進活動に携わっており、その関連から社会的連帯経済についても2003年以降関わり続ける。スペイン・バレンシア大学の社会的経済修士課程および博士課程修了。著書「地域通貨入門-持続可能な社会を目指して」(アルテ、2011(改訂版))、「シルビオ・ゲゼル入門──減価する貨幣とは何か」(アルテ、2009)、「社会的連帯経済入門──みんなが幸せに生活できる経済システムとは」(集広舎、2016)など。
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