長城を行く

第14回

花馬池・銀川

花馬池の烽火台。右手前方に北大池の採塩場が白く、細く光って見える

▲花馬池の烽火台。右手前方に北大池の採塩場が白く、細く光って見える

 
 河北、天津、北京、山西、陝西をたどってきた長城を行く旅は、いよいよイスラム教地帯の寧夏回族自治区に入る。長城はオルドス砂漠の淵にそって一旦南下し、そして北西に向きを変える。黄河は北流し、両者は銀川郊外の横城堡で交差する。
 次の目的地は花馬池(塩池)だ。そこは九辺鎮の6番目の要衝、楡林鎮の終点でもある。荒涼とした砂漠のなかに二匹の双龍のような大小の長城が数キロの間隔を保って走り、藍天の下に烽火台が屹立する。九辺鎮は遼東鎮を皮切りに薊鎮、宣府鎮、大同鎮、山西鎮とつづき、楡林鎮を終えようとしている。その先の横城堡など銀川周辺は寧夏鎮となり、さらに固原鎮、甘粛鎮が南へ、そして西へと展開する。

 

花馬池の湖塩

 早朝、楡林の南門長距離バスセンターから銀川行きのバスに乗る。これから、花馬池までの約300キロを走るのだ。発車してまもなく、右手車窓には濃紺の空に似合う褐色の大地、オルドス砂漠が展開する。バスは砂漠の東辺に沿ってどんどん南下し、途中、靖辺、定辺の町を一気に通過した。砂礫の荒野を龍のように這う構造物が見えたり、隠れたり、あれは長城の遺構にちがいない。定辺から花馬池にいたる区間には右手に外長城が、左手には内長城が並行している。外長城は前線にあったから壁が高く堅牢で、後方を防衛した内長城は壁が低く小さい。近代以前の歴史において、モンゴルなどの騎馬軍団が西安府への突入を狙ったアキレスの腱を親子の双龍が守ってきたのだろう。

背の低い風化した城壁が10キロメートルほど東を並走する外長城と対照的だ。前方は花馬池鎮

◁背の低い風化した城壁が10キロメートルほど東を並走する外長城と対照的だ。前方は花馬池鎮

 高速道路は思ったより速く、バスは楡林から花馬池の料金所までを3時間半で走りきった。省道や県道なら、かるく1日はかかる行程だ。すでに陝西省をすぎ、寧夏回族自治区に入っている。花馬池は定辺とともに長城の南限をなす。照りつける真夏の太陽のもとで、数週間前に歩いた長城の北限、独石口の寒々しい風景を思い出した。高速道路の料金所で降ろしてもらい、付近の花馬池鎮にむかう。そこまで行く間の農地に背の低い小さな長城が這っている。内長城であろう。緑地のなかに大きな宣伝看板が立ち、「以工代賑、造福人民」(工業を救済に代え、人民に幸福を)と呼びかけている。

 レンガで覆われた威風堂々とした万里の長城は張家口の大境門までで、それより西は肌がむき出しの土長城が多い。花馬池の内長城で壁高、壁幅、壁の内部構造などを調べてから、付近の村まで歩く。新しい安普請の建物ばかりで、本来、集落が持つべき温もりが感じられない。不自然に誘致したような工場の巨大な建屋があるので、その関連施設からなる人工的な町、あるいは鬼城なのかもしれない。そうだとすれば、あの大きな広告看板にペイントされていたスローガンの意味が理解できるのだ。鬼城とは乱開発で生まれたゴーストタウンのことで、オルドスの周辺には数多く存在している。小さな食堂に入り牛肉麺で腹を満たし、車をさがして外長城に向かう。

銀川市街を俯瞰する。最奥に賀蘭山脈が見える

▲銀川市街を俯瞰する。最奥に賀蘭山脈が見える

 外長城と内長城は10キロほどの間隔を保って並走している。双龍の間には、数キロおきに古代の通信警報装置——烽火台が屹立する。烽火台は烽燧台とも称され、「烽」は夜間に焚く炎、「燧」は白昼にあげる狼煙のことをさす。狼煙は乾燥した狼の糞に火を放って上げる。糞には油分が多く含まれているので、燃やすと盛大に黒煙を噴出した。狼の糞を燃やして上げた煙だから、古人は「狼煙」と書いたのだ。

 花馬池は塩池とも称され、そこにはその名前が示すように、塩の結晶を露出させた湖がある。名前を北大池という塩湖だ。
 中国で採れる塩には、海水から製塩される海塩以外に岩塩、井塩、湖(池)塩、土塩などがある。
 岩塩(砿塩)はかつて塩湖、あるいは海だったところが大陸移動などの要因で陸地になり、水分が蒸発して塩の結晶が析出したものである。主に湖南、四川、雲南、江西、江蘇などの地域で産出する。
 井塩は井戸を掘るようにして地下に固まった塩を採掘したものだ。四川省の自貢が主産地で、ヨード、カリウム、ホウ素、カルシウムなどの成分を大量に含んでいるため、精製して化学工業製品として利用されている。
 湖塩 (池塩)は砂漠地帯などにある塩湖が部分的に干上がり、そこに塩の結晶が析出した結果である。北大池はこれに相当する。
  土塩はアルカリ土壌に多く産出する。海塩などに比べて品質が劣るために塩類の最下位に位置づけられ、中国では食塩の代用品として使われている。  

 北大池はオルドスの域内にあり、そこはもう内蒙古だ。烽火台のあたりから遠望すると、析出した塩がオルドス砂漠の直射日光を反射して白く光っている。運転手に採塩場へ向かうよう頼んだのだが、遠いとか、道がない、などと渋って、とうとう行ってくれなかった。車が通ることのできる道がないのだろうか、それとも越境したくないのかもしれない。いずれにしても、外国人にはわからない複雑な事情があるのだろう。

街路に張り出した肉屋の店舗。イスラム教地帯なので羊肉が多い

▲街路に張り出した肉屋の店舗。イスラム教地帯なので羊肉が多い

 高速道路にもどり、手をあげて銀川行きのバスを停める。車窓にはまだ双龍が並走している。河東辺墻だ。これは明の成化十(憲宗、1474)年、順撫寧夏都御史の徐延章が献策して築かれた。王国良の『中国長城沿革攷』によれば、それは花馬池から寧夏の北350里(175キロ)までの区間とされる。また、明の魏煥が著した『巡辺総論』巻三「論辺墻」には、「黄河嘴起、至花馬池止、長三百八十七里」とある。黄河嘴とは黄河の嘴(くちばし)という意味だろう。具体的に寧夏のどのあたりを指しているのかわからないが、銀川の東郊外を流れる黄河の東岸から花馬池までの約190キロ区間に長城を築いたことが見てとれる。

 この河東辺墻はこれまでに見てきた楡林から花馬池までの長城と接続されてオルドスを東から南、南から西へと包囲するように展開する軍事防衛ラインを形成した。元の崩壊で北帰したモンゴルがふたたび南下してオルドス周辺に食糧などを求めて出没しはじめたため、その漢界への侵入を阻止する目的があった。正徳元(武宗、1506)年、三辺総制(楡林、寧夏、甘粛の三鎮を統管)の枢要な地位にあった楊一清は徐延章が築いた河東辺墻をさらに修繕し、壁高7㍍、幅7㍍の長城に格上げし、城壁上には暖鋪(休憩・宿泊所)まで設けた。兵士が城壁に宿直しなければならないほどモンゴルの襲来が頻繁であったらしことがうかがわれる。

 これらの仲良く並んで走る長城は7キロほど先の興武営で合流して1本になり、北東へと進む。前方に黄河が立ちはだかり、バスはここで大河を越えた。橋を渡ってしばらくいくと少しずつ街並みが現れ、すでに銀川の郊外に入ったことを知る。

 

オルドスの漠都──銀川

 銀川市の長途汽車站(長距離バスターミナル)に到着した。花馬池の荒涼とした砂漠地帯から一気に大都市の喧噪に迷い込み、これからどうすればよいのか一瞬途方に暮れる。ターミナルの周辺をうかがうと、枸杞(くこ)を売る商店、簡易旅館、果物屋台などが雑然と並び、ミニバスの客引きや白紙領収証の売人などが右往左往して他の都市と大差はないが、清真レストランやモスクのある風景はここが寧夏回族自治区の区都であることをものがたっている。

トマトや梨とともに、ひまわりの花が商品として売られている

◁トマトや梨とともに、ひまわりの花が商品として売られている

 銀川はかつて西夏王国(1038-1227)の首都を拝命し、興慶府という名前で繁栄した時代があった。市の西郊外40キロの賀蘭山麓には西夏王陵があり、9人の皇帝とその家族、陪臣たちが眠っている。市内には西夏時代の建築様式を継承した承天寺塔などの仏教建築物とともに、イスラム寺院の清真寺が各所にあり、回族住民に礼拝の場を提供している。

 銀川という都市名を知ってはいたが、これまでその具体的なイメージを結ぶことはできなかった。寧夏回族自治区の区都であることから、せいぜいイスラム教徒が多く居住する田舎街だろうと想像するくらいだったのだ。それは38年前、内蒙古自治区の包頭から甘粛省の蘭州へ移動する際、銀川駅で停車した列車からホームに降りて記念写真を撮ったときに感じた辺境の街というイメージも大いに影響している。そんな気持ちのまま、陝西省の楡林から花馬池を経由して銀川にやってきた。

ひまわりの花から採取した種子を煎って「瓜仔」をつくっている

▲ひまわりの花から採取した種子を煎って「瓜仔」をつくっている

 中国の都市人口は西へ行くほど少なくなる。それは歴代、漢民族居住地域であった「内中国」から少数民族が多く居住する「外中国」とよばれる地域まで出てくると顕著だ。たとえば浙江省の省都で、中国では中堅都市の部類に入る杭州の人口は約640万人だ。これに対して西北諸省・自治区の省(区)都人口は圧倒的に少ない。幾つか例をあげてみると、人口が少ない順にラサが42万人、西寧140万人、銀川160万人、フフホトが185万人、ウルムチが370万人となっている。西北地域でウルムチの人口が突出しているのは、そこが中央アジアの中核都市に発展し、また一帯一路政策の要衝でもあるからだろう。銀川が順調な発展を遂げながらも清潔で静かな環境を維持できているのは、その人口の少なさにあるのかもしれない。

 銀川の市街は東西に細長い。東側は興慶区で、この名前は銀川の古名である。11〜13世紀、中国の大地を彗星のように駆け抜けた西夏王国の首都、興慶府に由来する。真ん中は金鳳区で、もっとも繁華な街区を形成している。西側は新市街の西夏区で、行政機関や工場、高等教育機関などが集中する。

 

清真の街

 銀川の街は、各所にイスラム・レストランやモスクが点在している。これらは中国語で清真餐庁あるいは清真寺とよばれる。自治区全体で2500以上のモスクがあるというから驚きだ。その代表格が銀川の興慶区にある南関清真寺であろう。前庭に池のある二階建ての建物の上階には、1300人を収容できる礼拝堂がある。2本のミナレット(光塔)が天を突き、時刻になるとここから信者にアザーン(呼びかけ)を行う。

南関清真寺。前庭にある池が印象的だ

▲南関清真寺。前庭にある池が印象的だ

 中国でイスラム教を信仰しているのは、回族、ウイグル、カザフ、トンシャン、キルギス、サラ、タジク、ウズベク、バオアン、タタールの10民族である。その中でみずからの省級行政自治区を有するのはウイグル族と回族だけだ。寧夏回族自治区の総人口は580万人で、そのうちの約200万人(35%)が回族である。銀川の回族人口は約24万人(15%)と、自治区の比率よりははるかに低い。これは銀川が区都で、漢族化が進んでいるためだろう。

市内各所にある清真食堂。漢族が営むレストランより清潔なのがよい

◁市内各所にある清真食堂。漢族が営むレストランより清潔なのがよい

 中国とイスラム教の関係は、唐の第3代皇帝李治の永徽2(651)年にウマイヤ朝(現在のシリア・アラブ共和国)第3代カリフのウスマーンが宗教使節を派遣したことに始まるといわれる。その後、渡来したイスラム教徒が定住あるいは混血し、回族など中国のイスラム教徒の子孫となった。
 中国におけるイスラム教派は、一般に三大教派四大門宦という言葉で表される。三大教派とはカディーム(老教)、イフワーン(甘粛省出身のイスラム教徒がメッカに巡礼して宣教を始めた)、西道堂(甘粛・漢学派)の諸派を指し、四大門宦はジャフリーヤ(高念派)、フフィー(低念派)、カーディリー(アラビアから広東、広西、雲南、甘粛に伝播)、クブラヴィー(新疆から甘粛、青海、河南に入り甘粛省に定着)の各教団のことで、いずれもスンニー派に属する。門宦とは聞き慣れない言葉だが、スーフィズム(イスラム神秘主義)あるいはスーフィー教団のことを指す。

 銀川ではモスクだけでなく様々な建物にイスラム様式がほどこされており、ここが回族の街であることに疑いはない。

 

〔参考文献〕
王国良・壽鵬飛編著『長城研究資料両種』(香港龍門書店、1978年)
郭正忠・主編『中国塩業史』古代編(人民出版社、1997年)
景愛『中国長城史』(上海人民出版社、2006年)
宋良曦『塩史論集』(四川人民出版社、2008年)
譚其驤主編『中国歴史地図集』元・明時期(中国地図出版社、1982年)

コラムニスト
中村達雄
1954年、東京生まれ。北九州大学外国語学部中国学科卒業。横浜市立大学大学院国際文化研究科単位取得満期退学。横浜市立大学博士(学術)。ラジオペキン、オリンパス、博報堂などを経て、現在、フリーランス、明治大学商学部、東京慈恵会医科大学で非常勤講師。専攻は中国台湾近現代史、比較文化。