長城を行く

第06回

慕田峪──首都防衛の要衝

崩れた長城壁にとまる野鳥と杏の花。慕田峪には未修復の原始の長城が残っている

▲崩れた長城壁にとまる野鳥と杏の花。慕田峪には未修復の原始の長城が残っている

万里の長城(明代)地図(『NIKKEI GALLERY』57号より引用)

◁万里の長城(明代)地図(『NIKKEI GALLERY』57号より引用)

 中国北方の春は唐突にやってくる。
 北京市街から北郊の長城にむかう国道の並木は、いまだ冬姿だ。見上げるような大樹に緑の一葉もなく、樹間に北国の殺伐とした風景を見とおすことができる。それが慕田峪にのぼり、敵楼から山肌を見下ろすと、縹渺とした霞の中に薄紅色の春が萌えているではないか。このあたり一帯はくるみ、栗、りんご、梨、桃、山査子、杏の宝庫だという。金山嶺長城で冬枯れの荒野を走破したのはほんの数日前だったのに、季節のうつろいはなんと劇的というほかない。

 慕田峪は、北京では稀な原始の雰囲気を残す長城だ。八達嶺の混雑を緩和するため、1985年に部分修復を完了し、観光地として一般客に開放された。
 いま、慕田峪の山野を彩っている白い絶景は杏の花だろうか。近寄って観察してみる。すると、花弁の中からほのかな香りが漂ってくるが、遠目には春雪が降りたようで、その息をのむような美しさに写真機を持つ手がふるえる。
 

懐柔県とその周辺

 燕山とその支脈は、北京市街からそれほど遠くない北の郊外に入り組むように展開している。高速遊覧バスで向かえば2時間ほどで天空にそびえ立つその雄姿を認めることができる。

杏の花が咲きほこる慕田峪。白い花は春雪のようにも見える

◁杏の花が咲きほこる慕田峪。白い花は春雪のようにも見える

 慕田峪は、燕山の稜線に沿って築かれた長城である。九辺鎮を構成する薊鎮の西の要衝だ。懐柔区の中心から10キロほど南に寄ったところに位置し、居庸関とともに北京の市街区にもっとも近い長城である。観光に便利なところから、数年前に入り口付近が大開発され、大きな駐車場や近代的な巨大ゲートが整備され、訪れる人はそこからシャトルバスで登り口へと向かう。往年の静かな慕田峪を知る者には、観光化された風景がなんとも味気ない風情になってしまったことに戸惑いを感じる。
 懐柔区の前身である懐柔県が設置されたのは唐太宗(李世民)の貞観年間(627〜649年)で、以来1400年間も県であり続け、区に改変されたのは2002年4月のことである。北京の都市化を一気に進めた改革開放政策の賜物であろう。
 漢語の「懐柔」とは、辞書で調べてみると「招来安撫」、つまり安んじて慰撫する、という意味である。なにが「招来安撫」なのか歴史地図をながめてみると、懐柔県の周辺には延慶(西)、昌平(西南)、順義(南)、平谷(東)の各地区があり、それぞれに悠久な歴史を有し、もっとも古いのは夏の時代にその揺籃があるのだという。面白いのはこれらの名称で、「延慶」は慶(善)を延ばすことであり、「昌平」は平らかな状況を昌(さかん)にし、「順義」は義に順(した)がい、「平谷」には山谷を平らげる、などの意味がある。つまりこの地域を古代史の地球儀で俯瞰してみると、歴代、農耕文化の担い手であった漢族が北方から進入を繰り返した遊牧民族、あるいは狩猟民族との闘いを繰り広げた地域であることが容易に想像できる。慕田峪長城は1400年以上も前の北斉の時代、すでにそれ以前に作られた長城を修築し、さらに明代に修復され、それがいま眼前に広がっている姿なのだ。

慕田峪長城の登り口、三つの楼が横に連なった建築構造

▲慕田峪長城の登り口、三つの楼が横に連なった建築構造

 懐柔区は北京市の北郊に日本の四国の東西を上下にして立てたような形状で大地が展開し、その北端は河北省と境を接している。慕田峪は京師(首都)にもっとも隣接した長城で、歴代、首都防衛の要であった。司馬台、金山嶺、古北口とつづいた外長城は一気に京師に向かって南下して慕田峪に堅牢な長城を築き、ここから西へ数十キロほども行ったあたりで北と西へふたつに分岐し、北ルートは外長城、西ルートは内長城を形成して居庸関、残長城、八達嶺とつづき、二重、三重にも首都を護った。つまり懐柔区とその周辺にある延慶、昌平、順義、平谷の4区は近代以前の中国において、漢族から見れば夷狄としての北方遊牧民族や狩猟民族と交戦してその侵入を食い止め、彼らを馴致し、中華帝国の平和を維持するための要衝であったことからそれらの名前が冠されたらしいことが判る。
 

杏の花は春の訪れを告げる「報春花」

 長城とは直接に関係のないことだが、中国人は杏が好きだ。北京人が好む乾果の代表格は杏で、ジャムや砂糖漬けも広く親しまれている。デザートの逸品として有名な杏仁豆腐を作るには、種子の胚乳が欠かせない。熟れた果実は鮮烈で野趣にあふれ、初夏になると求めやすい果物として庶民に好まれる。そして、その飾り気のない花は、報春花(春を告げる花)として幾多の古書に登場してきた。

戚継光が築いた蓬莱の水城は長城の形と似ている

◁戚継光が築いた蓬莱の水城は長城の形と似ている

 慕田峪の関口は、三つの楼が横に連なった建築構造だ。まんなかの中心楼は空心で内部には兵員が起居し、敵の襲来を見張り、矢を射るための箭窓が穿たれている。二つの側楼は実心(空洞がない)で居室はなく、屋根の部分が見張り台を兼ねていて厳めしい。
 長城は関口の三連楼を登り口として、東南方向と西北方向に急峻な斜面を這い上がっていく。東南の最高地点は海抜603メートルの大角楼山で、西北には940メートルの牛犄角辺がそびえる。勾配のきつい東南の城壁にとりつき、いくつかの敵楼を越えていくと立ち入り禁止の立て札が現れ、にわかに足下が悪くなる。これより先は修復がされていないのだ。 
 かまわずに進み、城壁が崩れ落ちるところまで歩いていく。すると遥か前方に北へ蛇行する長城がみえる。慕田峪は金山嶺から一気に数十キロも南に下ったところに位置し、ここを境に長城は再び北行し、河北省の独石口で万里の長城の北端に到る。

蓬莱閣は古来、中国の桃源郷として知られる

▲蓬莱閣は古来、中国の桃源郷として知られる

 北にむかう巨龍は慕田峪の数キロ先にある摩崖石刻あたりで枝分かれしてもう一匹の小龍を放ち、それは居庸関、残長城、八達嶺へと進む。これまで見てきた黄崖関、司馬台、金山嶺、そしてここ慕田峪など農耕地帯の外縁をのたうつ巨龍を外長城と称し、居庸関、残長城、八達嶺など巨龍の懐深くを走る小龍を内長城とよぶ。外長城を突破して京師(首都)に迫る夷狄の軍隊を押しとどめる役割を担ったのが内長城である。北京の周辺には、王都を護る何層もの防御システムが張りめぐらされていたのだ。
 慕田峪の北斜面は北方異民族の侵入を阻む防衛上の必要から、断崖絶壁に長城を築いた。長大な城壁を支えるために2本の鋼鉄が資材として使われた、と史書にある。明代に施工された建築史上の壮挙を一目見ようと歩きまわったのだが、その現場を探しあてることはできなかった。
 

倭冦討伐の名将戚継光と長城

 明朝はその中期に至り、京師の防衛を強化するために南方を転戦していた武将の戚継光を首都に呼び寄せ、薊鎮総兵官に任じて慕田峪を含む薊鎮全域で京師防衛に当たらせた。戚継光はもともと猖獗をきわめた倭冦(後期倭冦の大半は朝鮮人や中国人が月代を剃って日本人に化けた海賊だったとされる)討伐の名将として、その名を全国に馳せた。

 以下、すこし戚継光について触れておこう。
 倭冦の被害が激しかった山東半島の黄海沿岸に位置する威海や煙台近辺は、明の洪武年間に海防(主に倭冦対策)拠点として築城された。威海の「威」は海を威圧する海防の決意であり、煙台の「煙」は海賊の襲来を告げる狼煙を象徴している。煙台は古来、北部中国の軍事と貿易の沿岸拠点で、航海術が発達した唐代以降には朝鮮半島などとの交易をつかさどる貿易港として栄えた。倭寇の海賊行為が目に余ると、明朝は洪武31(1398)年、ここに狼煙台を設けた。明代以前の歴史地図に煙台という都城の名称は存在しない。元のころには寧海州、つまり海を安寧にする州、とよばれていた。町の高見に狼煙台が設けられ、そこから煙台という名前が定着したのだろう。

蓬莱閣を訪れた家族が白雲宮でひと休み

▲蓬莱閣を訪れた家族が白雲宮でひと休み

 煙台から西に80キロほど行った蓬莱の水域もまた、倭冦の攻撃から中華の沿岸を護る海の砦だった。蓬莱は古名を登州と称した。黄海を隔てて朝鮮半島や日本との国境を護った海防の水城だ。この水城をつくったのが戚継光である。登州(蓬莱)は古来、泉州(福建)や揚州(江蘇)、明州(=寧波、浙江)とともに中国の四大港市のひとつに数えられた。軍事以外に貿易や外交の要衝としても知られる。
 明朝は海防の武将であった戚継光に、今度は長城の防衛を託したのである。すでに見てきた山海関の渤海に張り出した海の長城として有名な老龍頭の構造物も、戚継光の軍事思想で築かれたものだ。
 蓬莱の海の絶壁に屹立する蓬莱閣には戚継光が祀られている。登州の出身で軍略に明るく、日本にも影響を与えた『紀效新書』や『練兵実紀』などの兵学書を著し、清末に太平天国の乱を鎮圧した曾国藩は、これらの書を参考にして湘軍の練成につとめたと伝えられる。
 戚継光のすぐれた軍略で慕田峪をはじめとする薊鎮の首都防衛は一定の効果をあげたが、万暦10(1593)年、万暦帝のもとですぐれた指導力を発揮した名宰相の張居正が没すると政権内は権力闘争に明け暮れ、賄賂が横行して政(まつりごと)は乱れた。これにより戚継光らの有能な武将も地方に追いやられ、首都防衛の任務はふたたび疲弊してゆく。

慕田峪長城は緑豊かな燕山の要衝

▲慕田峪長城は緑豊かな燕山の要衝

 慕田峪長城の特徴は深い緑に恵まれ、大自然の風景が優美なことだろう。一般的な長城のイメージと言えば、荒れた山の稜線を巨龍が這う厳しい風景を思い浮かべがちだが、ここは果てしなく広がる濃い緑影が印象的だ。春夏秋冬に草木は絶えず、春には杏や桃の花が春雪のように白く、あるいは薄紅色に咲きほこり、夏は萌えるような緑に息苦しささえ感じる。冬は北国の厳しい寒さのなかで山は冠雪し、松や柏はその葉を霜で飾る。ことに美しいのは錦秋で、木々の葉はことごとく紅葉し、山は胡桃、栗、梨などの宝庫となる。

 さて、そろそろ下山しなければならない。最後に敵楼にのぼって、遥か南の慕田峪村を俯瞰してみる。杏の花のむこうに田畑が望まれ、小さな人影が動いている。杏は農耕をつかさどる農暦との関係も深く、北京人からすれば南の湖北省の年中行事を記録した『荊楚歳時記』の春3月の条には「杏の花は荼(=と、苦菜)の如し、白沙を耕すべし」とあり、また後漢の崔寔が古代の月令(農業書)を模倣して著した『四民月令』には、「杏花盛んなれば、沙白、軽土の田を耕すべし」などの記述が散見される。白沙とはこの場合、農地のことを指している。つまり、杏の花が咲いたら、そろそろ農作業を始めなさい、と農民に教えているのだ。杏が報春花といわれる所以であろう。

〈参考文献〉
王国良・壽鵬飛編著『長城研究資料両種』(香港龍門書店、1978年)

河北省地図編纂委員会『河北省地図册』(中国地図出版社、2002年)
宗懍著、守屋美都雄訳注、布目潮風補訂『荊楚歳時記』(東洋文庫、1978年)
譚其驤主編『中国歴史地図集』元・明時期(地図出版社、1982年)
羅哲文『長城』(清華大学出版社、2008年)
妹尾達彦『長安の都市計画』(講談社選書メチエ、2001年)

コラムニスト
中村達雄
1954年、東京生まれ。北九州大学外国語学部中国学科卒業。横浜市立大学大学院国際文化研究科単位取得満期退学。横浜市立大学博士(学術)。ラジオペキン、オリンパス、博報堂などを経て、現在、フリーランス、明治大学商学部、東京慈恵会医科大学で非常勤講師。専攻は中国台湾近現代史、比較文化。