燕のたより

第10回

ふるさとは遠きにありて思うもの そして悲しくうたうもの《後編》

農村! 農村!

(1)私のおじいちゃん・劉澤霖

 今年の春に帰郷したとき、お父さんの父、つまり父方のおじいちゃんのお墓参りをしました。おじいちゃんは劉澤霖といいます(字は念慈、若愚。1895年~1969年)。
 今から40年以上も前、1965年、「大四清」(主に農村基層幹部に対して政治、思想、組織、経済の四つを清める政治運動)のとき、故郷の湖南省耒陽市(湖南の東南で省都長沙市から約200キロ)から、おじいちゃんの所属していた北京林業設計院に、おじいちゃんを告発する一通の手紙が送られてきました。劉澤霖は「逃亡地主」、「階級区分から漏れた地主」だという誣告の手紙でした。
 翌1966年、文革が発動され、毛沢東の「造反有理」のもと、造反派は「大衆による独裁組織」を作り、活発に行動しました。そして、9月には、この手紙を理由に、耒陽からやってきた造反派と紅衛兵におじいちゃんは押さえつけられ、「牛鬼蛇神」として故郷に連行されました。
 北京から長沙に向かう列車のなかでも、他の「牛鬼蛇神」といっしょに臨時批判闘争会にかけられました。批判闘争会とは、大勢の群衆がスローガンを叫びながら「被告」の罪状を暴き、詰問を繰り返しながらつるし上げる集会です。おじいちゃんは、そのような集会のなかで、列車の椅子の上に立たされ、揺れると落ちるというようなリンチも受けたといいます。長沙に着いたとき、顔中があざだらけになっていたそうです。
 さらに、耒陽では数十人の「牛鬼蛇神」が台の下で一列に並ばされ、うなだれてひざまずかれました。おじいちゃんも「逃亡地主」というプラカードを首にかけられていましたが、屈せず顔をあげていたので、さらに激しいリンチを受けました。しかし、そこは田舎で、「この人は毛大★(★は父に多。ピンインはdie。意味は毛じいさんで、毛沢東のこと)と関係があるから、これ以上やると邪気が降りかかる」と言って、止めさせられたそうです。おじいちゃんと毛沢東との関係は後述します。このような迫害のなか、おじいちゃんは1969年に鬱屈した思いを胸に亡くなりました。
 当時、お父さんの劉英伯は、早くも1958年に北京大学化学系から除籍され、党籍も剥奪され、「準右派分子」として江西省武陵銅鉱山に追放され、労働改造を科せられていました。ところが、造反派と紅衛兵が北京のおじいちゃんの自宅を家宅捜査したとき、おじいちゃんとおばあちゃんの肖像画を焼きつけた花瓶のなかから、お父さんが亡くなったおばあちゃんを偲んだ自作の詩「八宝山の青い松」を発見しました。ただちにお父さんがいる鉱山に伝えられ、鉱山の造反派組織「千鈞棒造反隊」(「千鈞棒」は毛沢東の詩句「金猴奮起千鈞棒(金猴は千鈞の棒を奮い起こし)」にちなむ)、にどなりつけられました。
「逃亡地主の死んだ女房を八宝山(北京にある党や国家の要人や幹部の革命公墓の所在地)の青い松にたとえるなんて、なんと大胆不敵なやつだ。ふところに『変天帳(打倒された搾取階級が旧体制復活の日を夢見て残しておく証文の類)』を隠し持つ凶暴な反革命分子だ! しかも、家じゃ毛主席にお金を貸したなんて、悪質なデマを密かに飛ばしやがって。偉大なる舵取り、人民の救いの星の毛主席が、どうしてお前の家のような反動階級に借金するのだ。とんでもない極悪非道の誹謗中傷で、赤い太陽の顔に大糞をぶっかけるようなもんだ!」
 こうして、お父さんは無実の罪におとしいれられ、再び「えぐり出され(原語は手へんに秋という字で、文革期に多用された)」、「車輪戦(次々に新しい相手が現れて攻撃する)」の取り調べを受け、何人かで殴る蹴るの暴行を受け、とうとう気絶して倒れてしまいました。そのため、どうせ死ぬのならと、次のように白状しました。
「劉澤霖は、1918年、北洋大学(現在の天津大学)機械系に入学し、北洋政府秘書長饒漢祥の家庭教師をしていました。
1919年4月ころ、天津の湖湘会館(科挙時代に各省や各県で北京や天津に受験者用に建てた宿泊施設で、同郷人も利用した)で毛沢東主席に会いました。そして、毛主席は『私は湘譚の毛潤之(毛沢東の字)だ。君は耒陽の劉澤霖だろう』と言いました。父は『そうだ』と答えると、毛主席は私は北京からやって来て、上海を経由し、長沙に帰るのだが、米櫃が空っぽだ。他の同郷人から聞いたが、君は給料をもらったばかりだそうだ。ちょっと旅費を工面してくれないか』と言ったので、父は『ちょうどいいときに来たね。20元もらったから、半分貸してあげよう』と答えました」
 当時、毛は北京大学の図書館に勤め、月給はわずか8元でした。その後、毛沢東はありがとう、ありがとうと感謝し、おじいちゃんは同郷のよしみだからと答えたそうです。その翌月、「五・四運動」のとき、おじいちゃんは周恩来や馬駿(当時の学生運動のリーダー)と知りあい、天津学生会の司庫(会計係)になりました。
 おじいちゃんは、このことについて一言も話しませんでしたが、1956年、お父さんの懇願でようやく話してくれました(その後、お父さんは黎明書店版の1937年刊『中国の赤い星』を入手しました)。
 また、毛本人はこれを忘れずに延安でエドガー・スノーに語り、スノーは『中国の赤い星』に書き記しています。増補改訂版『中国の赤い星』エドガー・スノー著作集2、松岡洋子訳、筑摩書房、1972年、103ー104頁)では、次のように書かれています。
「1919年の初期、私はフランスへ留学しようとしている学生たちと一緒に上海に行きました。天津までの切符しかなく、その先はどうすればよいのか見当もつきません。しかし、中国の諺にもあるように“天無絶人之路”で、北京のオーギュスト・コント学校から若干の金をもらった学友から、幸いにも借りた十元で、私は浦口までの切符を買うことが出来ました。」
 ここで毛沢東が語った「学友」は、私のおじいちゃん、劉澤霖です。
 話をお父さんに戻します。お父さんは、赤いテロのなかで、証拠として持っていた『中国の赤い星』を提出しましたが、それでも造反派は半信半疑でした。しかし、毛沢東に関わることはとても重大な政治的問題なので上に報告しました。そして、しばらく経って、何とか一命を取りとめ、懲罰として農村の豚飼いにさせられました。
 今でもおじいちゃんの亡くなった日は具体的に分かっていません。家で遺体が見つかったときは、もう腐敗が始まっていました。簡単に埋葬されただけでした。10年前、お父さんは風水のいいところで、「衣冠塚(死者の衣服と冠のみ埋葬した墓)」を建てました。
 今回が、私にとって初めてのお墓参りでした。大雨のなかで、持参した爆竹はなかなか鳴らず、お線香もすぐに消え、お父さんとお母さんは涙と泥にまみれて「三拝」しました。でも、ようやくお父さんはホッとした様子でした。
 さて、耒陽市の新市鎮におじいちゃんが遺した十数部屋のある旧い屋敷があります。今は十家族が住んでいます。私は私有物だから返却を求めたらとたずねましたら、お父さんは、こう言いました。
「だめだよ。また文革がやってくると、もっとひどい目にあう。それに、彼らを追い出したら住むところがないよ。どっちみち、あなたはものを書くのが好きだから、日本にいるのが一番いいことだ。文字の獄や政治運動がないから。それに、翻訳が一番いい。自分が書いたものじゃないから、いざというとき、自分のせいじゃないと言える」
 私はお父さんの翻訳観に驚いて黙りました。同時に、自分の体験から娘を心配する気持ちもひしひしと感じました。

(2)遠縁のおばさん鳳蘭さんの長女:麻雀中毒

 お墓参りのときに、日本のおみやげなどを持って村にいる遠い親戚の家々を回りました。父方の遠縁にあたる鳳蘭さん夫婦が、大急ぎでにわとりをさばいてご馳走してくださいました。
 鳳蘭さんには3人のお子さんがいます。長女は十数年前に広東省に出稼ぎに行きました。耒陽は広東省と隣接しているので、村人はよく広東省に出稼ぎに行きます。お会いしたときは、3階建てのレンガ造りの家を建てている途中で、2階までできていました。
 長女は一昨年、3歳の娘を連れて実家に戻りました。現在、ご主人は他の村人たちといっしょに福建省まで「麦客」に行ってます。「麦客」とは、以前は夏の収穫の時の臨時雇いを指しましたが、今は農民が自分で請け負った土地を他の農民に任せて、自分は都会に出稼ぎに行ってます。福建省の方が湖南省よりも賃金が高いので、そこまで「麦客」に行くのです。
 長女は毎日毎晩、麻雀ばかりして、4、5歳の娘は少しもかまわず、そのため娘は川辺で遊んでいるうちに川に落ち、溺れて死んでしまいました。その後、また娘が生まれ、わずか3ヶ月ですが、やはり手がむずむずしてあちこちで麻雀をしています。夢中になってお乳を飲ませる暇も惜しんで麻雀をしているので、鳳蘭さんは孫娘を抱いて、長女を追いかけますが、彼女は友だちとドアに鍵をかけて麻雀をしています。
 彼女に会ったとき、私はいきなり「日本の粉ミルクが欲しい」と要求されました。
「どうして。あなたは自分のお乳があるでしょう」
「自分のお乳をあげたら、スタイルが悪くなるわ。それに中国の粉ミルクは問題が多いから」
「どうして麻雀ばかりしているの」
「仕方ないわよ。旦那は年がら年中いなくて寂しいもの」
「親を手伝って畑を耕したり、本を読んだり、……」
「畑を耕すなんて、疲れるわ。私は広州のホテルで働いていたのよ。本だって? 都会のボランティアが鎮に『農村図書普及室』なんてつくってくれたけど、世界の名著シリーズなど難しい本ばかりで、私は小学校しか出てないから読めないわ」

(3)長男:入隊には、お金を?

 鳳蘭さんの長男は、一昨年、まだ16歳なのに中学校卒業で人民解放軍に入隊しました。  「入隊は18歳からで、高校卒業が基本的な条件ときいてるけれど?」
「2万元もかかったのよ。まず、村や県の地方幹部と兵隊募集担当の幹部にどう切りだすかタイミングをつかむのが大変だったけれど、うまくいった」
 鳳蘭さんはため息をつきながら、こう説明しました。
「これからもっとお金がかかるよ。軍事学校に入るのにも、昇進にも、みんなお金だよ。だから、最低でも部隊の高官の運転手になったりしていいチャンスをつかんで、退役したら公務員になれたらいいね。
 村民委員会の主任(村長に相当)の息子は、北京にある大学を卒業しても、都会にはいい仕事がないかったのよ。だから軍隊の入隊を目指したけれど、健康診断で肝炎の痕が見つかって難しかった。それでも数万元かけたら、空軍に入隊できた。数年後には、すごくもうかったわ。空軍の飛行機の燃料の管理部門で、部隊が使い切れない燃料を地方に転売したりしたんだ。見て、ほら。主任の家は立派な5階建てで、市内にも10階建てを建てている最中よ。」
 こうおしゃべりしているとき、当の主任がやって来ました(鳳蘭さんが招待しました)。私は「10階建ての建物はホテルですか、レストランですか、オフィス・ビルですか?」と質問しました。すると主任は「今はまだ6階までで、どう使うかはこれから考える。もしかしたら15階にするかもしれない」と、たばこをふかしながら答えました。なかなかのやり手ということですが、私はびっくりしました。建築基準や防災や効率など全く考えていません。

(4)次男:絶対に農民なんかにならせない

 鳳蘭さんの次男は、高校を卒業しても大学に入学できず、今は家にいます。都会の人から寄贈されたパソコンに毎日かじりついて、ゲームに熱中しています。部屋の壁には世界地図と「知識が運命を変える」という古いポスターが貼ってあります。枕元には『世界軍事』、『現代兵器』、『国際展望』などの雑誌がずらっと並んでいます。息子がパソコンを使っているので、ご夫婦にとっては自慢の「知識人の子」です。
 彼とおしゃべりすると「和諧社会(調和社会)」など新しい政策やイデオロギーの言葉が次々に飛び出します。さらに彼はアフリカの立ち遅れや貧困、イスラエルのガザ侵攻とその道義性、日中関係など、世界の様々な状況を論じました。確かに知識が豊富です。また、その身なりや方言まじりの共通語は長沙の青年と少しも変わりません。でも、ここは農村なので、私は農業についてたずねました。
 すると鳳蘭さんのご主人は、こう答えました。
「今は表では農業税などなくなったけれど、様々な名目で間接的な税金がある。例えば、物価上昇に合わせて税金を上げる(原語は増値税)。他にも営業税、消費税などたくさんの税がある。都会は農民の土地が欲しいけれど、農民はいらないのだ。農民の労働力は欲しいけれど、使い捨てだ。それに、都会人は農民は化学肥料や農薬を使っているから野菜や果物は食べないと言うけれど、みんな都会から来た科学者が教えたものだ。こうやって農業生産を急速に伸ばすのだと言っていた。わしは40年以上も農民をやってきたが、今じゃどんな米の種を使っているのかさえ知らない。みんな種の会社から買ったものだ。一部の農民が種の会社のために、米やトウモロコシの種だけを作っている。企業秘密だから、おれたちには教えない。おれたちは都会から来た科学者の指導でその都度その都度つくっているだけだ。誰が食べているのかなんて知ったことじゃあない。おれは今、借りた土地を耕す、種の会社の労働者にすぎないんだ。
 今はみんな広東に出稼ぎに行っている。不景気でたくさんの工場が閉まっているそうで、みんなゴミ拾いをしている。それだって農民よりましだ。ゴミ拾いの中にも党の支部があって、ゴミ拾いの縄張りを決めている。お互いにけんかしないようにだ。うちの子はもう一度大学を受験させる。絶対に農民なんかにさせないぞ」

(5)水が死んでいる

 母方のお墓参りもして、紙銭を焼いたり(先祖の霊が冥界でも使えるように)、爆竹を鳴らしたりしました。そこは長沙から50キロも離れていない寧郷県花明楼で、耒陽の農村と同じで、過疎化が進み、年寄りばかりでした。
 この村には歴史のある進学校の第四中学(中国の中学校は日本の中学校と高校に相当)があります。母方のおじいちゃん、お母さん、そして私も、ここで勉強しました。有名な卒業生に劉少奇がいます(1959年に毛沢東に代わって国家主席に就任するが、文革期に失脚し、迫害のなかで1969年に死去)。
 1988年には、劉少奇生誕90周年を記念して、面積8000平方メートルの劉少奇記念館が開館しました。「全国首批愛国主義教育基地」、「公衆喜愛的中国十大紅色経典区」、「国家一級博物館」に指定され、そのため地元の観光地になっています。そして村民はみな劉少奇の親族だと自称してます。文革の時には考えられませんでした。

劉少奇記念館劉少奇記念館

 お母さんのいとこの兄、つまり、私のおじさんの家に親族が集まりました。今は農村でもバイク・タクシー(バイクの後部座席に客を乗せる)や電話が引かれているので、呼べばすぐに集まりました。
 おじさんには子どもが3人いて、そのうちの男2人は長沙で警備員をして、長女と孫が家にいます。長女のご主人は、はるか遠い甘粛省蘭州で大工をしています。
 おじさんは200平方メートルもある大きな新しい家を見せてくれました。二人のおばさんは帽子をかぶっていて、顔には白黒まだらのやけどのような痕がありました。聞いてみると、治らない一種の皮膚病だということでした。ここでは7、8年のあいだに、このような皮膚病が増えたそうです。
 私は日本の水俣病などを知っているので、すぐに飲み水に問題があるのではと考えました。村の池は汚染がひどく、全体が黄色ににごっていて、生き物は全くいません。死んだ水が悪臭を放っています。水辺では草花一本生えていません。以前は飲み水や農業用水に使っていましたが、今は、みな口をそろえて井戸水を飲んでいるといいます。

 このように汚染されたのは、村の工場で耐火レンガを作っていたためでした。今は県の命令で廃止されています。よその人が池を汚染したのなら訴えることができるけれど、自分たちのせいだから仕方がないということです。
 私は、この水が水田や井戸に染みこむのではと心配しました。土壌が汚染されれば、土の力が失われるだけでなく、生まれてくる次の世代に悪影響を及ぼします。既に、赤ちゃんの中に、理由が不明の「大頭病」が発生していると聞きました。
 私は手近な方法でも対処しなければならないと焦りましたが、親族はみな「これは自分のために農薬を使わずにつくった野菜だよ。食べなさい。食べなさい」とご馳走をすすめるばかりで、誰も関心を向けず、話は続きませんでした。私は呆然として涙が出そうになりましたが、こらえました。

コラムニスト
劉 燕子
中国湖南省長沙の人。1991年、留学生として来日し、大阪市立大学大学院(教育学専攻)、関西大学大学院(文学専攻)を経て、現在は関西の複数の大学で中国語を教えるかたわら中国語と日本語で執筆活動に取り組む。編著に『天安門事件から「〇八憲章」へ』(藤原書店)、邦訳書に『黄翔の詩と詩想』(思潮社)、『温故一九四二』(中国書店)、『中国低層訪談録:インタビューどん底の世界』(集広舎)、『殺劫:チベットの文化大革命』(集広舎、共訳)、『ケータイ』(桜美林大学北東アジア総合研究所)、『私の西域、君の東トルキスタン』(集広舎、監修・解説)、中国語共訳書に『家永三郎自伝』(香港商務印書館)などあり、中国語著書に『這条河、流過誰的前生与后世?』など多数。
関連記事