北京の胡同から

第50回

蘇った名演目~日中の役者が昆劇を共同公演

 優れた文化は時代や国境を超えて愛される。とはいえ、伝統芸能の演じ手が、本国以外の土地でその芸能への情熱を貫き、研鑽を積み続けるのは並大抵のことではない。ましてや舞踊、歌唱、演技などのさまざまな要素が混じり合い、複数の仲間を必要とする古典演劇であればなおさらだ。
 そんななか、600年以上の歴史をもち、『百戯之母』とも呼ばれている中国の伝統劇、「昆劇」をこよなく愛し、日本でその稽古に励み続ける人たちがいる。中国以外で外国人が組織した数少ない昆劇団体の一つ、「日本昆劇之友社(以下、日昆と略)」だ。
 そのメンバーと北京を代表するプロ昆劇団である北方昆曲劇院(以下、北昆と略)との記念すべき共同公演が、今年の5月5日、北方昆劇院内で開催された。

プロ顔負けの熱演

 日中関係は、時期による程度の差こそあれ、今も緊張状態が続いている。そんな中、昨年秋より日中合同の文化イベントの多くが、中止や延期などに追い込まれていった。だがそんな状況にあって、まさに個人と個人のつながりが、かけがえのない交流を産んだ例もある。その代表が、今回行われた日昆と北昆の共同公演だ。
 本公演は、今は亡き昆劇の名旦(女形)、馬祥麟氏の生誕100年を記念した六つの公演の内の一つ。いざ幕が上がると、北昆の団員たちの力強いバックアップを得て、日本人のアマチュア俳優らが日ごろの稽古の成果を存分に披露し始めた。彼らの多くは主役級の役柄で、その堂々とした様子はプロ楽団の本格的な伴奏にも引け目をとらぬほど。長いセリフや歌を流暢にこなしつつ、さまざまな仕草を表情豊かに演じ分けていく。

「長生殿・小宴」の舞台。楊貴妃役は三野雄一郎さん、玄宗役は邵崢さん(写真/張全)

▲「長生殿・小宴」の舞台。楊貴妃役は三野雄一郎さん、玄宗役は邵崢さん(写真/張全)

「牡丹亭・游園」より。左の杜麗娘役は福永美菜さん、右の春香役は関優子さん(写真/張全)

▲「牡丹亭・游園」より。左の杜麗娘役は福永美菜さん、右の春香役は関優子さん(写真/張全)

「青塚記・昭君出塞」でも王昭君役を演じる三野雄一郎さん(写真/張全)

◀「青塚記・昭君出塞」でも王昭君役を演じる三野雄一郎さん(写真/張全)

 今回演じられた演目は「長生殿・小宴」、「牡丹亭・遊園」、「貨郎旦・女弾」、および「青塚記・昭君出塞」。いずれも昆劇ファンの間では人気の高い演目ばかりだが、なかでも今回、その由来が注目に値したのは「貨郎旦・女弾」だ。

元代から残る名悲劇

「女弾」の全体を貫くのは、張三姑が「貨郎児」の曲に込めて歌う、李家の物語。一家の主、李彦和は、妓女張玉娥を妾に迎えたために、妻を憤死させてしまう。だが玉娥には他に情夫がいた。やがて李家の財産を狙う二人の姦計によって李彦和は川に落とされ、子の春郎やその乳母張三姑とも別れ別れに。だが幸運にもその後命を救われ、長い月日を経て、乳母や息子と再会する……。
 おもに中国北方で演じられてきた「女弾」は、もともと山東省一帯の物売りの節に由来しており、語り物を舞台上で語って聞かせる珍しい形態の作品だ。中国の古典演劇の研究で知られる京都大学の赤松紀彦教授は「女弾」について、以下のように説明する。「現存する清代の楽譜には二種類あり、今回の公演が基づいたのはその内の『集成曲譜』と呼ばれている楽譜のものです。もっとも女弾自体の源流は元雑劇に遡ることができ、現存する伝統演劇作品としては、最も長い歴史を持つ演目の一つとなります。元雑劇の特徴を受け継いだその音楽的特徴から、演劇研究の先駆者であった故青木正兒先生もかなり注目していた作品で、青木先生自身による原作の元雑劇『貨郎旦』の翻訳も残っています」。
 今回、主役である張三姑を演じたのは日昆の初期からのメンバーで、響きの良い声とバレエで鍛えた優雅な動作が印象的な前田尚香さん。幼い頃から踊りや歌が大好きで、宝塚女優に憧れたこともあったが、中国留学中に中国の古典演劇の魅力に目覚めた。やがて昆劇の名優で、当時留学生に昆劇を教えていた張毓文老師に弟子入りした後は、昆劇ひとすじだ。

「女弾」の張三姑役を演じる前田尚香さん(写真/赤松紀彦氏提供)

▲「女弾」の張三姑役を演じる前田尚香さん(写真/赤松紀彦氏提供)

 張老師はその日の前田さんの舞台をこう評価した。「なかなかのものでした。『女弾』は、歌の技が問われる演目です。40分の間に、長いものだけで9つの歌を歌うのですから、良い喉がないと歌いきれません。前田さんは、しっかり準備していたからこそきちんと歌えたのです」。

偶然現れた幻の録音

 実は「女弾」の舞台用の楽譜には二種類あり、古いオリジナル版の上演は、今は亡き名優、白雲生氏によって、1960年に劇団関係者への手本用に演じられたのが最後となっていた。文化大革命の開始とともに、団員はもちろん、劇団自体も活動を停止。やがて白雲生氏が亡くなると、その「女弾」は弟子たちに伝授されることなく終わった。
 文革が終わり、昆劇の上演が解禁されると、1979年には北方昆曲劇院も活動を再開。だが、オリジナル版の「女弾」はすでに伝承が途絶えていたため、北昆では1988年に改訂版を制作し、演じ始めた。
 かつて白雲生氏の演じる旧「女弾」を目にしていた張毓文老師はこう語る。「改訂版は、主人公を講釈師のように扱っていましたが、私はその必要はないと感じていました」。だが、一つの劇団が異なるバージョンの「女弾」を演じたのでは具合が悪い。そこで、張老師はそれを黙認したのだった。
 一方、日本で昆劇を続けていた前田さんは、そんな改訂版の「女弾」でさえ、ここ十年ほどは演じる人がいなくなったのを残念に思っていた。そんなある日、神戸で二胡の先生と中国民族楽器やCDなどの販売を手掛けていた村田順一氏が、前田さんにある北昆のCD集を勧める。その演目を知り、前田さんは愕然とした。昔の作品を再編集したそのCDの中に偶然、1960年代に録音された、古い型の「女弾」が入っていたからだった。どういう経緯でそのCDに入っていたのかは不明だったが、北昆を通して正式に発売されたものでありながら、その存在は張老師をはじめとする北昆の団員たちさえ知らなかった。

若い世代にも好評

 録音を「たいへん貴重なもの」だと感じた前田さんは、さっそくその内容を少しずつ楽譜に書き起こす。そして張老師にCDをダビングして送り、復元できないか、と相談した。かねてよりその復活を望んでいた張老師は、他の北昆の団員と連絡をとって上演のためのアレンジを行う。その成果が、今回の記念公演での上演だった。
「現在、改訂版を演じていた役者はすでに亡くなっています。つまり、今は古いバージョンを復活させるいい機会なのです。それに、これをきっかけにかつて他の師匠たちが演じた一連の作品の整理も始められます」と張老師は目を輝かせる。
 半世紀途絶えていたオリジナル版「女弾」の復活は、まさに昆劇をこよなく愛する日中の師弟の絶妙な連係プレーがあってこそ、だった。その試みは、他の昆劇関係者たちからも高く評価される。若手の役者たちも、この特色ある演目に「強い興味をもった」とのコメントを前田さんに寄せたのだった。
 前田さんはこう語る。「今後張老師が、プロの俳優も含めた、こうした若い方にこの演目を指導されていくきっかけになれば、私どもの公演にも何かしらの意味が生まれるかもしれません」。

張三姑役を演じる前田尚香さん(写真/赤松紀彦氏提供)

▲張三姑役を演じる前田尚香さん(写真/赤松紀彦氏提供)

昆劇の伝統を守るために

 今年で47歳になるという前田さんが北京に留学したのは、大学を卒業してすぐの22歳の時。留学の目的は中国語の習得だったが、演劇が好きだったため、留学先には「中国人学生の卒業公演などが見られる」とPRにあった中央戯劇学院を選んだ。バブル最盛期の頃の学生だったため、最初は「語学を1、2年学んだ後、帰国して就職できればいい」などと気楽に考えていたという。
 だがその後、わけのわからないまま、6月の天安門事件に巻き込まれてしまう。目の前で強烈な学生運動が展開するのにショックを受けた前田さんは、「大きな動乱がいつ起こってもおかしくないこの中国では、芸術はいつ消えてしまうか分からない。昆劇の伝統も一刻も早く拾い集めておかなくては」と考えた。その結果、留学も3年に延び、日本に帰国後、2年してまた再留学した。
 今回、公演を行った日本昆劇之友社も、そんな時代背景の中、1991年4月に生まれたという。前田さんは当時をこう振り返る。「その頃、中国各地で昆劇団の公演などが行われることはたいへん稀で、昆劇は非常に廃れてしまった印象でした。このままでは貴重な演目がどんどん失われていくのではないか、という危惧がありましたので、当時留学生だった昆劇好きの日本人が集まり、おもに演目の保存を目的に団体を立ち上げたのです」。初代の社長は、前出の赤松紀彦教授。団員らが北昆に所属する張老師を師と仰いでいたことから、北昆との交流も多く、さまざまな形での共同公演は、今回を含め、これまでに合計37回に上る。やがて日昆は、北京の昆劇ファンの間でも名が知られるようになった。
 前田さんによると、現在、活動の情報を共有しているコアなメンバーは30数名ほど。根拠地は東京と京都、大阪、神戸などを含む関西地区だが、特に会則などはなく、会の名の下で各自活動している、拘束のゆるやかな団体だという。
 幸い中国ではその後、大きな混乱は発生せず、2001年には昆劇はユネスコの世界文化遺産に指定された。「人々の昆劇に対する認識も相当変わりました。私たち外国人の昆劇愛好者の役割もずいぶん変化したと思います」と前田さんは感慨深げだ。
 すでに昆劇歴が二十数年になる前田さんは、昆劇と出会えた喜びを今、改めてかみしめている。「歌舞伎や能と同じく、一生精進をしていくものなので、よぼよぼの婆さんになっても昆劇は続けているのではないでしょうか」。

昆劇を広めた立役者

 そもそも、日本人留学生の間で広まった昆劇熱は、張毓文老師の存在を抜きにして語ることはできない。11歳の頃から芝居を学び、13歳で正式に北昆に入団したという張老師。その自宅に飾られた写真は、まだ新人だった1959年、14歳の頃の麗姿を伝えている。演目は現在「白蛇伝」の名で知られている「雷峰塔」。張老師はこう語る。「当時の写真は、のちにすべて焼き払われたので残っていませんが、これはある日たまたま見つかったものです」。

当時の写真を手に持つ張毓文老師(写真/張全)

◀当時の写真を手に持つ張毓文老師(写真/張全)

 張老師が生きたのは、昆劇にとっては厳しい時代だった。「年配の役者が亡くなるたび、多くの演目が危機に瀕しました。私ももうじき70歳です。現在、古い世代の役者は、パンダと同じ。絶滅危惧種ですよ」と笑う。だが、それだけに昆劇を学ぶ弟子たちへの愛情も深い。「北昆が復活してから30年以上。古株の師匠の多くがこの世を去りましたが、その間に日本の留学生は多くを学びました。私も無私の精神で多くの演目を伝授したのです。教えている内容は、いずれもオリジナル通り。私が師匠から教わったままのものです。そうであってこそ、生徒たちも、昆曲芸術の格調の高さを感じ取れるからです」。稽古中は師弟だが、終わればつきあいは家族同様。自宅でのレッスンの後、生徒たちはいつも手作りの料理をふるまわれた。
 欧米や台湾など、現在、張老師の学生は世界各地に散らばっている。だが、彼らにとって帰国後も昆劇を続けるのは至難の業だ。そんな彼らを張老師は、「昆劇を学ぶのは難しく、マスターするのはアリが骨をかじるようなもの。でも継続こそが勝利」と励まし続けている。

国を超えた師弟のきずな

 昆劇における師弟のつながりは世代を越えても強い。今回、生誕百周年を迎えた馬祥麟氏は、張毓文老師の師にあたり、1994年に82歳で逝去しているが、今回、日昆のメンバーが複数駆けつけたのは、彼らが生前の馬祥麟氏の公演を目にしていたからだ。
「彼らは馬祥麟先生の直接の弟子ではありませんが、私の師匠ということで尊重してくれ、去年という時期に自主的に『北京に来て公演したい』と言ってくれました。それは師を尊重する伝統があるからで、そこに他の不愉快な事を巻き込む必要はないのです」。そう語る張老師は、「今年一年はあの世の馬祥麟氏に楽しんでもらいたい」という気持ちから、今年の後半にも、今回と同じような公演を計画している。「今度も見ごたえのあるものにします。できれば、中国の役者と日本の人が一緒に主役を演じられればいいですね。まさに日中交流という感じになるでしょう」。
 何はともあれ、親日的というだけでいわれなき糾弾を受けかねない昨今の中国にあって、今回、張老師と北方昆曲劇院の団員たちが示した度量の大きさには脱帽せざるを得ない。最後に張老師が語ったこんな言葉が印象的だった。
「日中の人々の友好は、長い時間を経て築かれたもので、別に一日二日の内に始まったものではありません。彼らには来る勇気があり、私たちにも彼らを受け入れる勇気がある。すでに門が開かれている以上、どうしてそれを拒む必要があるでしょう」。

公演の後の師匠夫妻への花束贈呈。左は立ち回りが専門の元北昆の名優、戴祥麒老師、右は張毓文老師(写真/張全)

▲公演の後の師匠夫妻への花束贈呈。左は立ち回りが専門の元北昆の名優、戴祥麒老師、右は張毓文老師(写真/張全)

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、『シベリアのビートルズ──イルクーツクで暮らす』(2022年、亜紀書房刊)。訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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