北京の胡同から

第69回

東北の旧市街地をめぐる旅 ③大連

 瀋陽と大連にはよく似ている点がいくつもある。中山広場の周りに日本統治時代のコロニアル建築が整然と並び、広場からは放射線状に道路が延びている。鉄道の駅舎はそれぞれ日本の東京駅や上野駅と似ていて、いずれも現役だ。
 だが当然ながら、そういった国家レベルのプロジェクトとは別の次元で、いずれの街でも名もない庶民の暮らしが、脈々と営まれてきた。とりわけ大連に残る戦前からの古い街並みの現状は、人々の生活レベルを保ちつつ歴史ある建物や文化を守り、受け継ぐことの難しさを、改めて痛感させた。

大連の旧市街地の一角

大連の旧市街地の一角(著者撮影)

幻と化した鳳鳴街

 今回の旅で最後に訪れた街、大連はそもそも、東北への旅立ちを誘った街でもあった。つい最近、大連の鳳鳴街という旧日本人街の街並みが、根強い保護活動の甲斐なく取り壊されてしまった。そのショッキングな知らせが、「今のうちに東北の古い街並みを見ておかなくては」という私の気持ちを強く掻き立てたからだ。
 数年前に撮影された写真を見ると、かつて鳳鳴街にあった100棟余に上る住宅たちが、中国大陸で西洋と日本の文化が融合するという特殊な時代環境を反映した、じつに個性的なスタイルを持っていたことが伝わってくる。
 正直な話、日本でも戦前の外観を残す民家を見つけるのは、そう容易ではない。たとえ大連で当時、建設を奨励されたのが、堅固な素材を使った、寿命の長い住宅だったことを考慮しても、1920年代から40年代にかけて建てられた膨大な数の鳳鳴街の建物がほんの2、3年前まで残っていたこと自体、奇跡に近いのかもしれなかった。当時大連に住んでいた日本人たちが、戦後の中国では侵略者として否定的に位置づけられ続けてきたことを思えば、なおさらだ。
 だが、かつての満州について記した文献などを読むと、当時の大連には日本人、中国人を問わず多くの人口が流れ込み、家を建て、暮らしを営みながら、猛烈な勢いで街を形成していたことが分かる。統治者側の日本人の欲目やプロパガンダを差し引いたとしても、当時の大連が建築関係者によって「今日もっとも自由に発展しうる」都市とみなされたのは、根拠のないことではないだろう。そんな時代の街づくりや人々の暮らしの名残をこの目で見たい。そんな願いを胸に、私は大連での街歩きを始めた。

甘井子の消防署跡。現在も消防局として利用(張全撮影)

◀甘井子の消防署跡。現在も消防局として利用(張全撮影)

不思議なアパートとの遭遇

 最初に訪れたのは旧日本人街の一つで、市の中心部から北に1時間ほどバスで向かった場所にある甘井子だった。旧日本人街の範囲を示した地図などは入手できていなかったので、バスを降りたばかりの私は坂が多く、さまざまな建物が入り混じる風景を前に、途方にくれた。

 だがさいわい、しばらくすると日本のアパートと少し似た、横長の集合住宅が目に入った。中国北部ではこれまで見かけたことのない外観で、間取りも個性的だ。近所の住民に建物の由来を聞くと、果たして70年以上前の満州国時代に建てられた建物だという。

甘井子で見つけたアパート(筆者撮影)

甘井子で見つけたアパート(筆者撮影)

 この建物との出会いをスタート地点として、甘井子での旧日本人町めぐりは始まった。幸い、かつて日本人の住宅跡に住んでいたというおばあさんとも出会うことができた。
 そのおばあさんによれば、今目の前に林立しているマンション群は、かつての日本人町の建物を取り壊して建てられたもので、取り壊しは1970年代と1990年代に集中していたという。上海系の某大手デヴェロッパーが開発を手掛けたエリアの建物は最終的にすべて壊されたが、空軍関係者が所有してきた家屋などを含むごく一部は、まだ残っているらしい。

豪邸から長屋まで

 おばあさんの親切な道案内を参考に、実際に建物たちを訪ねてみると、いずれも予想以上に見応えがあった。アパート風、一階建ての長屋風、タウンハウス型、などのさまざまな形の住宅が、建てられた当初の面影を残しつつ、現在もちゃんと住まれ続けていたからだ。
 その内、2~4世帯向けとみられる一戸建て風アパートが並んだエリアでは、陽光を十分に取り入れるためだろう、どの棟にも広めの前庭があり、集合住宅とはいえ、かなりゆったりとした空間で生活が営まれたらしきことが感じられた。

甘井子の一戸建て風アパート(張全撮影)

甘井子の一戸建て風アパート(張全撮影)

同上。建物の裏側(張全撮影)

同上。建物の裏側(張全撮影)

 前述の通り、当時の大連では、日本人に限らず中国人の人口も膨張していた。移民たちの背景や移住の目的はバラバラで、国籍、職業、地位、財力などによって、人々の住宅の環境も大きく異なっていたはずだ。

上海路近くの旧日本人町の建物。内部は長屋風(張全撮影)

上海路近くの旧日本人町の建物。内部は長屋風(張全撮影)

 1922年1月11日付の『満州日日新聞』は、「一般的の住宅組合なく、また住宅会社もこれなく、官舎や社宅の恩恵に浴するもの以外はいずれも住宅難に苦悩している」と報道している。その一方で、満鉄の社員は優遇され、当時高級住宅だった市街地南部の南山の社宅に住んだり、約3年分以内の俸給額を住宅建築費として銀行から借りたりすることができたという。『満州建築協会』誌(1921年創刊)の1924年第1号に掲載された雑感では、建築学教授、橘節男氏が市南郊の住宅街を「とても東京では見られぬ所」であり、「建築材料や手間が安いためとはいいながら、我々のような、木造の貸長屋に住居しながら、しかもかなり高い月々の家賃を取られて窮窮たるものが羨まずにはいられぬ所」だと評価している。

石とレンガで和風建築

 一方、長屋風の民家が連なるエリアに至った時は、路地の幅が日本的で、家の屋根も日本風の切妻屋根なので、まさに一瞬、日本の街を歩いているような錯覚に陥った。ただいくつかの差もあり、最大の違いは家の壁がとてもどっしりしていたことだ。温かく、丈夫で長持ちする住宅を建てるため、木材よりレンガ、石、コンクリートなどが多用されたためだろう。前出の『満州建築協会』誌の記事などでも、日本人は防寒対策を暖房器具に頼りすぎる傾向があるが、実は建物の構造の方が大事であるという旨が、注意すべき点として挙げられている。

甘井子にて。石で壁を覆った民家(筆者撮影)

甘井子にて。石で壁を覆った民家(筆者撮影)

同上。統一感のある旧日本人町の住宅街(張全撮影)

同上。統一感のある旧日本人町の住宅街(張全撮影)

 その日訪れた甘井子の住宅地では、エリアごとにデザインにはっきりとした統一感があった。道案内をしてくれたおばあさんによれば、それぞれ同一の設計者(または事務所)がデザインしたためらしい。
 ちなみに、そのおばあさんはある日、住み慣れた旧日本人町の住宅から立ち退きを迫られたものの、その後運よく「回遷房」に戻ることができた。「回遷房」とは、立ち退いた世帯のため、元の家の近くに準備された補償用住宅のことだ。そのせいか、再開発そのものに対してはあまり強い反感は持っていないようで、「古い家の写真を撮りに来る日本人がよくいるけど、なぜだろう。ノスタルジーからかねえ」と不思議がっていた。

そば屋や瀬戸物屋も

 大連では、日本人ゆかりの商店街も印象的だった。その代表格が、大連駅から歩いてすぐの場所に今も残っている旧連鎖街(現在の五金街)だ。日本の宗像建築事務所が設計を担った広大な商店街の跡地で、そのガラスを多用したモダンな街並みは、1931年に発行された『満州建築協会』雑誌第11巻第1号の「大連連鎖商店街」特集で豊富な写真とともに紹介されている。(日本建築学会図書館デジタルアーカイブスよりアクセス可)。
 現在は建て増しや改築が目立ち、看板も中国式になっているが、それでも道幅や建物の高さ、間口のバランスなどがこじんまりとしているせいか、どこか日本の昭和時代にタイムスリップしたような感を覚えさせる。

旧連鎖街の現在の様子(筆者撮影)

旧連鎖街の現在の様子(筆者撮影)

 かつての連鎖街の店舗の配置図を見ると、ここにはそば屋や中華料理屋、バーなどの飲食店、洋装店や呉服屋や靴屋、瀬戸物屋、化粧品店、銭湯、旅行代理店など、ありとあらゆる店があったようだ。劇場には日本のスターも続々と訪れたそうで、その賑わいぶりはいかほどだったろうと想像が膨らむ。もっとも現在の街の雰囲気は、露店のある一角以外はかなり寂れており、金物屋が集中しているため、その名も金物を指す「五金」を冠した五金街となっている。

旧連鎖街。現在は金物屋が集中(張全撮影)

旧連鎖街。現在は金物屋が集中(張全撮影)

同上。背後には大連一の高さのビル(張全撮影)

◀同上。背後には大連一の高さのビル(張全撮影)

 正直なところ、旧連鎖街を眺めた私は、鉄道駅のすぐ近くで、周囲はすでに高層ビル街と化している、という位置的条件や、建物の保存状態などから、このエリアの保存は困難を極めそうだ、という印象を持った。五金街を見下ろすように建つ、現時点では大連一の高さというビルも、この街全体に無言の圧力をかけているように見えた。

記憶が再現する街並み

 旧連鎖街で出会ったお兄さんが、建物の状態は東関街の方が良いよ、と教えてくれたので、路面電車でさらにひと駅移動し、東関街へと向かった。ちなみに、大連では満州国時代からある路面電車が2路線あり、新しい車両に交じり、70年の歴史をもつとされる旧型車両も現役で走っている。

旧型の路面電車。車体は70年以上前のものといわれている(筆者撮影)

旧型の路面電車。車体は70年以上前のものといわれている(筆者撮影)

路面電車の運転席(筆者撮影)

◀路面電車の運転席(筆者撮影)

 東関街は、かつては小崗子と呼ばれ、大きな市場や繁華な商店街があったことで名を馳せた。中国人を中心とした街で、最盛期は12万の人口を抱えていたという。建物は2、3階建ての洋風や折衷様式のものが目立つが、大連の高層ビル群は、ここでもすぐ近くまで迫っている。。

現在の東関街周辺。アーチ型の窓やドアが目立つ(張全撮影)

現在の東関街周辺。アーチ型の窓やドアが目立つ(張全撮影)

同上。繁華街だったせいか、十字路に存在感のある建物が集中(張全撮影)

同上。繁華街だったせいか、十字路に存在感のある建物が集中(張全撮影)

東関街でよく見かける旧式のドア(筆者撮影)

◀東関街でよく見かける旧式のドア(筆者撮影)

 ある住民が、「ここで一休みしていきなさい」と言いながら腰かけを出してきてくれたので、素直にその言葉に甘えた。
 おじいさんは現在70歳を超えており、すでにこの地に66年間住んできたという。現在住んでいる家は、民国期は服装関係の店だったらしい。
 「柱にまだ当時の主が残した屋号が残っているよ。この通りには他にも棺桶屋やラッパ屋などがあった。1階を店にし、2階を住居にする家が多かったみたいだ。もっとも妓楼なんかは別で、2階では妓女が客の相手をしていたみたいだけど」。
 そのおじいさんは通りのどの家が、何年頃どの部分を改修したか、その際、どの部分が元の形通りに修復されたかなどを、驚くほどはっきりと覚えていた。

窓の形もかつての趣きを留めたものが多い(張全撮影)

窓の形もかつての趣きを留めたものが多い(張全撮影)

 だが正直に言えば、おじいさんの家の周辺にある民家の大半はボロボロで、改修などは長い間行われていないように見えた。東関街は現在、大連以外から来た出稼ぎ労働者たちが集住するエリアとなっている。貧しい借家人に安く貸す物件をきれいに改修するような奇特な大家さんは稀だ。「河南省から来た人が多いから、ここはもう、いわば河南街だよ」と笑うおじいさんを、伴侶らしきおばあさんが、「何を言っているの、ここは大連の街よ」とたしなめていた。

廃品回収業者などが集住するエリア(張全撮影)

廃品回収業者などが集住するエリア(張全撮影)

 他の地方から労働者が多数集まる街は、おおむね外部の人たちに寛容で、活気に満ちている。だが出稼ぎ労働者のほとんどは、この土地の歴史を知らないまま、遅かれ早かれこの地を去っていく。そんな中、おじいさんのような根っからの地元民の存在はやはり貴重だ。私はおじいさんのような街の記憶の伝承者が、一人でも多くこの地に踏みとどまってくれることを心から祈った。

消滅の瀬戸際

 もっともおじいさんによれば、東関街の一帯は2017年を期限とした再開発計画の対象エリアだという。立ち退きの補償金は、各種の手当を含めると1平米あたり9万元に上る見込みらしい。東関街がある西崗区の中古住宅の平均価格が1平米1~2万元であることを考えれば、一見、悪くない金額にみえるが、残念ながら大連でも最近のマンションは一戸あたりの面積が広い。そのため、現在住んでいる10数平米ほどの家屋に対して与えられる補償金では、近所に家を買い直すのは難しいという。

路地で遊ぶ子供たち(張全撮影)

路地で遊ぶ子供たち(張全撮影)

 そういった悩み以上に深刻そうに見えたのは、住み慣れた土地を離れる不安だった。それは街の説明をするおじいさんの言葉のはしばしから伺われた。何といっても66年間住んだ街だから、名残惜しさは想像するに余りある。私が「この通りはどの建物にもとても個性がありますね」と言うと、おじいさんは大きくうなずきながらこう返した。「一度壊してしまったら、もう誰も二度と同じものは作れないよ」。驚いたのは、おじいさんが北京の胡同についてもある程度知っていたことだった。「北京の胡同には、ちゃんと保護されて、商業的にも成功している所があるんでしょう」と、望みを託すような口調で確認してくる。
 もちろんその期待には、東関街が保護され、観光地化された場合に生まれ得る経済的利益への期待も含まれるだろう。だがやはり私には、残せるものならここを残したいというおじいさんの切望も強く伝わってきた。
 「そうですよ、だからここも何とかして保存しなくちゃ」。そう答えながら、私は立ちあがった。北京に戻る列車の発車時間が近づいていたからだ。最後に「100年以上は歴史がある」とおじいさんが語る、道の向かい側の建物をカメラに収めるつもりだった。ウロウロと撮影の角度を探している私をみて、先ほどのおばあさんが、「もっとこちらの方に寄って撮りなさい。でないと、全体がきれいに撮れないでしょう」とアドバイスしてくれた。少しでも多くの人に東関街の良さを記録しておいてもらいたい、というおばあさんの気持ちが伝わってきて、私は胸が熱くなった。

東関街エリアの一角(張全撮影)

東関街エリアの一角(張全撮影)

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、『シベリアのビートルズ──イルクーツクで暮らす』(2022年、亜紀書房刊)。訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
関連記事