北京の胡同から

第68回

東北の旧市街地をめぐる旅 ②瀋陽

 ハルビンでの滞在を終えた私たちは、チチハルを経て、瀋陽へと向かった。
 瀋陽といえば、現在は中国屈指の重工業都市としてのイメージが強い。だが実際は、多様かつ複雑な歴史が刻まれた都市でもある。清王朝を開いた満州族が最初に首都を置き、皇宮を築いた場所であり、また日露戦争後、東北地方に進出した日本が重要な拠点として建設に励んだ都市でもあるからだ。

日本統治期の遺構を今も利用

 鉄道で瀋陽に到着した場合、まず印象的なのは、瀋陽駅だろう。かつての名は奉天駅。その東駅舎の歴史は、今年で104年に上る。その外観が少し東京駅に似ているのは、東京駅をデザインした辰野金吾の学生である太田毅と吉田宗太郎が設計したからだとされている。ちなみに竣工は東京駅より4年早い。
 瀋陽駅からやや北寄りの東に延びる道を歩くと、瀋陽でもっとも早い商業建築とされた七福屋百貨店跡、電話交換局跡、旧奉天郵便局跡、藤田洋行跡などの、日本占領期の建物をいくつも見つけることができる。そのほとんどが今も本来の用途に近い用途で使われている。

旧奉天駅(現在の瀋陽駅)の東駅舎。1910年の10月1日より使用開始(張全撮影)

▲旧奉天駅(現在の瀋陽駅)の東駅舎。1910年の10月1日より使用開始(張全撮影)

奉天自動電話交換局跡。1928年竣工。設計は関東庁内務局土木課。現在はチャイナ・ユニコムのビルに(張全撮影)

▲奉天自動電話交換局跡。1928年竣工。設計は関東庁内務局土木課。現在はチャイナ・ユニコムのビルに(張全撮影)

奉天郵便局跡。1915年竣工。関東都督府の通信管理局と民政部土木課が設計。解放後は瀋陽市郵政局に(張全撮影)

▲奉天郵便局跡。1915年竣工。関東都督府の通信管理局と民政部土木課が設計。解放後は瀋陽市郵政局に(張全撮影)

旧藤田洋行。日本降伏後は旧ソ連の対外貿易部の下、秋林公司に。秋林公司はもともと白系ロシア人チューリンが経営していた百貨店チェーン(張全撮影)

▲旧藤田洋行。日本降伏後は旧ソ連の対外貿易部の下、秋林公司に。秋林公司はもともと白系ロシア人チューリンが経営していた百貨店チェーン(張全撮影)

中山広場の中央にある毛沢東像。日本統治期は日露戦役紀念碑があった(張全撮影)

◀中山広場の中央にある毛沢東像。日本統治期は日露戦役紀念碑があった(張全撮影)

 
 やがて中山広場を中心として放射線状に道路が延びる空間に至ると、360度の視界に次々と意匠が凝らされた当時のビルの正面が入ってくる構造となっており、そのビジュアル的効果に圧倒される。当時の奉天警務署は現在、瀋陽市公安局として使われており、この他にも、満州事変の時には関東軍司令部も置かれた東洋拓殖株式会社奉天支店跡(現・盛京銀行)、旧朝鮮銀行(現・華夏銀行)、奉天三井ビル跡、旧横浜正金銀行(現・工商銀行)、旧ヤマトホテル(現・遼寧賓館)などが並ぶ。隣接する土地には、当時の満鉄奉天医院の建物を利用した大きな病院もある。

中山広場に面した東洋拓殖株式会社奉天支店跡(現・盛京銀行)。1922年竣工(張全撮影)

▲中山広場に面した東洋拓殖株式会社奉天支店跡(現・盛京銀行)。1922年竣工(張全撮影)

旧ヤマトホテル(現・遼寧賓館)(張全撮影)

▲旧ヤマトホテル(現・遼寧賓館)(張全撮影)

旧朝鮮銀行(現・華夏銀行)(張全撮影)

▲旧朝鮮銀行(現・華夏銀行)(張全撮影)

奉天警務署跡(現・瀋陽市公安局)。警務所は鉄道付属地の警察業務を担当。1929年竣工(張全撮影)

▲奉天警務署跡(現・瀋陽市公安局)。警務所は鉄道付属地の警察業務を担当。1929年竣工(張全撮影)

満州医科大学の遺構。(現・中国医科大学付属第一医院の一部)(筆者撮影)

▲満州医科大学の遺構。(現・中国医科大学付属第一医院の一部)(筆者撮影)

旧横浜正金銀行(現・工商銀行)(張全撮影)

◀旧横浜正金銀行(現・工商銀行)(張全撮影)

 
 これらの威風に満ちたビル群を眺めつつ、私は言うに言われぬ悲哀を覚えた。設計した建築家の側にいかなる高い理想や創造力や卓越した技術力があろうと、当時の時代背景を思えば、これらの建物は植民地主義の下で一方的に押しつけられたものに過ぎず、本来であれば、解放後に「保存の価値なし」と取り壊されても仕方なかったものだ。一般庶民の建物であればまだ「建物に罪はない」ともいえるが、国策を担った建物に関しては、そういう言い訳は苦しい。だから、建物の実用性を優先した解放後の政策のお陰とは知りつつも、これらの建物が瀋陽において今もきちんと保護されていることに、私は深く心を動かされた。しかもその多くが今も銀行や病院などの公共施設として利用されており、外部の者も自由に参観できるのだ。高級ホテルの類に入る遼寧賓館でさえ、宿泊客でなくとも参観が可能で、しかも銀行関係とは違い、断ればホールの写真撮影まで許される。

旧ヤマトホテルの内部(筆者撮影)

▲旧ヤマトホテルの内部(筆者撮影)

美しいカーブを描く旧ヤマトホテルの螺旋階段(筆者撮影)

▲美しいカーブを描く旧ヤマトホテルの螺旋階段(筆者撮影)

満州族の古都

 近代以前の瀋陽の歴史も興味深い。
 以前、自らのルーツに強い誇りを持っているらしき満州族の知人が、瀋陽に強い思い入れをもっていることに気づき、興味深く感じたことがある。当時の私は、瀋陽と満州族の結びつきについて、十分に認識していなかった。そのため、知人の思い入れの理由をただ、彼が戦時中に瀋陽に住んでいたからだろうと思っていた。
 だが、今回瀋陽の故宮を訪れて、私はその思い入れの理由が少しわかった気がした。想像以上に広大かつ威厳があり、しかも東の敷地に独特の宮殿の配置をもつ瀋陽故宮は、この地に満州族文化のルーツがあることを、はっきりと感じとらせてくれたからだ。一部の建築は修復中だったが、幸い主要な建物はまだ過度の改修を経ておらず、かつての趣を十分に残していた。

瀋陽故宮内の崇政殿の玉座(張全撮影)

▲瀋陽故宮内の崇政殿の玉座(張全撮影)

会議や宴、国璽の保管などに使われた鳳凰楼。当時は瀋陽でもっとも高い建物だった(張全撮影)

▲会議や宴、国璽の保管などに使われた鳳凰楼。当時は瀋陽でもっとも高い建物だった(張全撮影)

ヌルハチの時代に建てられた大政殿。この前には十王亭が左右対称に並ぶ。清王朝の八旗制度の特色を強く残した建物とされる(張全撮影)

▲ヌルハチの時代に建てられた大政殿。この前には十王亭が左右対称に並ぶ。清王朝の八旗制度の特色を強く残した建物とされる(張全撮影)

 ただ残念だったのは、私の不注意かもしれないが、旧城内にもう少し残っていると思っていた洋風ファサードの建物がほとんど見つからず、かつてあった城壁の位置もほとんど確認できなかったことだ。
 そもそも、瀋陽の城壁は北京の城壁と同じような末路をたどっており、1960、70年代までにはそのほぼすべてが壊されている。近年、かつて城壁に用いられ、その後民間で恣意的に建材に転用されたレンガの回収、保護運動が起こったようだが、現在遺跡として残っているのはほんの一部で、普通に歩いているだけでは、そこに城壁がかつてあったことは感じられない。

張家父子の故居が観光地に

 一方、意外だったのは、張作霖、張学良の故居、つまり中国の優秀な近代建築群として国の重要文化財にも指定されている「張氏帥府」に、多くの観光客が押し寄せていたことだった。

「張氏帥府」の門(張全撮影)

▲「張氏帥府」の門(張全撮影)

四合院の廊下部分に残る彫刻(筆者撮影)

▲四合院の廊下部分に残る彫刻(筆者撮影)

 馬賊出身とされ、一時期は日本軍と協力関係にもあった奉天派軍閥の領袖、張作霖と比べ、その後継者で息子の張学良には、確かに現政権の立場からみれば、「西安事件」において蒋介石を監禁した、という功績がある。この事件により、内戦停止と国民党と紅軍による一致抗日の方針が定まった。それは、それまで賊軍扱いだった紅軍を、政治の表舞台に連れ出すことを意味した。
 だが、入り口に聳えている肖像こそ張学良のものだが、実際はこの屋敷は張作霖の屋敷としての要素の方が強い。張氏帥府の建物は四合院部分と洋館部分に分かれるが、広大な四合院や主要な洋館である大青楼はもちろん、小青楼と呼ばれる2階建ての建物も張作霖が建てたものだからだ。

「張氏帥府」の東側の敷地にある大青楼(張全撮影)

▲「張氏帥府」の東側の敷地にある大青楼(張全撮影)

大青楼の南にある小青楼(張全撮影)

▲大青楼の南にある小青楼(張全撮影)

 この小青楼は、爆殺事件で重傷を負った張作霖が運ばれた場所という意味で、父子の世代交代を促した歴史的事件ゆかりの場所ではある。だがもともとは、張作霖が第五夫人の寿氏のために建てたものだ。
 最終的に第七夫人まで抱え、14人の子供をもうけた張一家の家族構成は複雑なものだったようだ。張学良の母親で張作霖の糟糠の妻である趙春桂は、権勢を得た後に自分を疎遠にした張作霖を恨みながら実家で死んだといわれ、第二夫人も実の娘を冷酷無比な政略結婚の犠牲にした張作霖を恨んだ。第三夫人までもが、夫の無情を恨んで尼僧になったといわれている。さらに言えば、第五夫人の年齢は張学良と同じだから、第六、第七夫人は張学良よりさらに若かった可能性が高い。つまり故居のプライベート部分は、一夫多妻制時代の財産家の家庭生活の多難さをあれこれ想像させる場所でもある。
 そもそも、1988年に「張学良旧居陳列館」として一般開放されたこれらの建物群が、2002年に張作霖の存在も反映させた「張氏帥府」と改名されたのは象徴的だ。こういった、中国共産党的な価値観からすると多分にグレー・ゾーンも含む民国期の遺産が、ここまで観光地として大々的に整備されたことには、時代の変化を感じずにはいられない。
 もちろんその人気の理由は、基本的にはやはり張父子の知名度と故居の文化財的価値の高さからであろう。だが北京には、同じく著名人ゆかりの国家レベルの重要文化財でも、いまだ雑居住宅となったまま、立ち入りが禁止されているものがある。そう考えると、「張氏帥府」の大々的な観光地化は、建物やその装飾の美しさもさることながら、やはり現在の中国社会で顕著な、民国期の歴史や社会をもっと客観的に見直そう、という動きと無縁ではないように思われる。

ちょっと奇抜な金融博物館

辺業銀行跡を利用した瀋陽金融博物館。ドイツ人の設計で、1930年竣工(張全撮影)

◀辺業銀行跡を利用した瀋陽金融博物館。ドイツ人の設計で、1930年竣工(張全撮影)

 
 ちなみに、故居の主であることが記念されたのは息子の後とはいえ、張作霖の評価そのものも、東北地方においては必ずしも低いわけではないようだ。東北大学の設立に力を注ぐなど、東北地方における教育の普及に貢献しただけでなく、最終的には漢奸にはなることを拒否したとされているからだろう。軍閥の支配のもとで近代化が試みられた時代であれ、満州国の時代であれ、戦前の瀋陽では、金融業の発展に力が入れられた。その成果を語るべく、張作霖が設立したプライベート・バンク「辺業銀行」の跡地が、現在「瀋陽金融博物館」として公開されている。

金融博物館のホール。すべて蝋人形(筆者撮影)

▲金融博物館のホール。蝋人形がずらりと並ぶ(筆者撮影)

同上

▲同上

同上

▲同上

同上

◀同上

 この博物館が面白いのは、当時の銀行窓口の環境や雰囲気を再現しようとする努力が並々ならぬものであることだ。1階のホールに入ると、客や銀行員を象った等身大の無数の蝋人形が、まるで本物の人間が一瞬にして凝固したかのように思い思いの姿勢を取っていた。その風景はちょっとシュールでさえあり、このホールを見るだけでも、ここに来る価値は十分だと思えるほどだった。

金融博物館地下の財神を祀った部屋。部屋全体に銅銭の装飾(張全撮影)

◀金融博物館地下の財神を祀った部屋。部屋全体に銅銭の装飾(張全撮影)

 博物館ではこの他、各種コインや紙幣、瀋陽の銀行の歴史、金庫跡など、銀行にまつわる資料なども分かりやすく展示されていた。福の神を祀った、あたかも拝金主義の時代を象徴するかのような黄金色の部屋がある一方で、民国期、つまり「アナログ」時代の証券取引所まで再現されていたのは、興味深かった。

貴重な技を今も受け継ぐ

 実は、瀋陽ではこの他にも思いがけぬ嬉しい収穫があった、この銀行の周辺の露店で、「瞎擘(シアバイ)」と呼ばれる工芸品を現地制作しながら売っている職人の姜さんと出会ったからだ。

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◀「瞎擘」を制作しながら売っている姜さん

 この「瞎擘」とは、一つの木のかたまりに切れ目を入れるだけで作られる折り畳み椅子。かつて大工が自分の腕前を証明するために作ったもので、これが上手に作れるようになれば、大工として一人前であることが認められたといわれる。私は北京のとある博物館でこの「瞎擘」を目にしてからしばらく、ちょうど当時は工芸品作家を次々と取材していたこともあり、北京で懸命にこの「瞎擘」が作れる職人を探したことがある。でも、どうしても見つけることができなかった。
 そういった経験から、以前の私は「瞎擘」を作る伝統はもう途絶える寸前なのでは、と危惧していた。そのため今回の滞在で、瀋陽で生まれ育ち、今も「瞎擘」を作り続けているという姜さんと出会えたことは、とても貴重だった。

巨大コリア・タウンの由来

 最後に私たちは瀋陽の西塔にあるコリア・タウンに向かった。じつは朝鮮族の集住する地域や北朝鮮との国境がそう遠くない瀋陽には、地理的、歴史的な理由から、数多くの朝鮮族が住んでいる。

コリア・タウン、西塔地区の表通り

▲コリア・タウン、西塔地区の表通り

西塔地区の裏通り

▲西塔地区の裏通り

 西塔には20世紀初頭から朝鮮族が移り住み始めたといわれるが、その後一定の規模をもつコリア・タウンになった経緯には、日本も深い関係がある。前述の通り、日露戦争後の日本は、東北地方での勢力を固めるため、瀋陽で大量の建設事業を推進した。その際、すでに植民地化していた朝鮮半島から、廉価な労働力を大量にかき集めた。その一部が移り住んだのが、この西塔エリアだったという。戦後も朝鮮半島に戻ることを拒んだ彼らは、そのままこの地に定住したのだった。
 確かに西塔エリアは、かつて「春日町」の名で呼ばれていた旧日本人街の太原街に隣接しており、かつて日本の国力を誇示するために建てられた、先述の中山広場の建物群からも近い場所にある。つまり西塔の先代、あるいは先々代の住民たちには、中山広場のあの洋風建築群の建設に携わった建設労働者が少なからずいた、と考えてよいだろう。
 建設を指揮した占領者たちはこの地を追われたが、実際に汗水たらして建てた者たちの子孫は今、瀋陽という街の住民となり、建物を見守り、利用している。こういった構図は、恐らく世界中の元植民地でも見られるものに違いない。だが、日本統治期には劣悪な居住環境で知られていた西塔は、1990年代以降、韓国人の投資や留学生の増加を追い風にして整備が進み、今は中国最大、世界ではロサンゼルスに次いで第2の規模とされるコリア・タウンへと成長した。
 さらに驚きを禁じ得ないのは、西塔に隣接する先述の太原街(旧春日町)が今世紀に入り、東京の銀座を徹底的に参考にした都市計画に基づいて整備された、という事実だ。その都市計画史的な開発の経緯を思えば、太原街を銀座風に改造することには、一定の合理性がある。だが、瀋陽の人々が太原街の歴史的背景にまるで無頓着であるとは思えない。ただただ、市の都市計画担当者の大らかさには脱帽するばかりだ。
 西塔エリアの繁栄ぶりや、太原街の現代的な街並みを眺めていると、逆境をただ乗り越えるだけなく、乗り越えた成果を「強み」に変えてきた瀋陽の人々の、辛抱強く、しなやかな強さに心を打たれる。
 そして、異国の大地に都市を建設する、という過去の日本帝国の身勝手かつ横暴な企みが、どうしても太刀打ちできなかったもの、変えられなかったものに思いを馳せざるを得ない。そんな時、瀋陽の街角で、かつて大工魂の証しだった「瞎擘」を黙々と作っていたおじさんの姿が、いっそう印象深いものとして、脳裡に蘇ってくる。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、『シベリアのビートルズ──イルクーツクで暮らす』(2022年、亜紀書房刊)。訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。