大資本のもたらす不安
朱氏自身はその理由を不明としているが、いずれにせよ、偶然ネット上で発見された過去のプランをめぐり、なぜ今年、議論が沸騰したのか、という問題は吟味に値する。
過剰ともいえる一般市民の反応について、北京で大型書店を含むいくつもの建築デザインを手がけてきた建築家で慶應義塾大学准教授の松原弘典氏よりコメントをいただいた。これについて氏は、「歴史とか遺跡とか、いままで我々が、なんとなく皆で共有すべきもの、と思っていたものが、ある特定の資本によって手を加えられることへの漠然とした不安」を理由に挙げる。
松原氏によれば、「本来、遺跡などは公共の記憶なり公共のものだから、近代社会においては政府や公費で管理するものだと思われてきた」。しかし20世紀末頃から、公共の力が弱まり、政府からも遺跡を保存する余力が失われる。とはいえ、「都市の中心にあって莫大な訴求力、観光資源としての可能性を持っている遺跡」をそのままにしておくわけにはいかない。そこで、それらを「大きな民間の資本がいじることが計画された」という。
氏の予測によれば、朱氏のプロジェクトも、設計の如何より、出資者がグッゲンハイムであることに、市民は不安を覚えたのではないか、という。「得体の知れない資本が皆の共有の財産を支配してしまう」という、「高度資本主義社会」ならではの新たな不安が生まれているというのだ。
だが紫禁城や欧米や日本の古い城などを思い浮かべれば分かるように、実際には歴史的な建築物や遺跡が公共の管理下に置かれたのは近代に入ってからのことだ。それまでは貴族や一部の資産家が道楽としてそれらを所有していた。この事実を踏まえ、松原氏は「この不安は、公共の力が一度興隆した近代ならではのもの」だと述べる。
さらに松原氏は、グッゲンハイムだけでなく、ルーブル、ポンピドゥー・センター、ボストン美術館が日本を含む世界各地で実現させたプロジェクトを例に挙げ、「巨大資本のアートが都市づくりや町おこしに口を出すような傾向は、いまや世界中にある」と述べる。「資本主義というのは何もかも経済的価値に置き換えてしまうということの具現化。遺跡も金になる、だったら金を持っているやつにいじらせろ、というような発想が出てくる。いささか恐ろしい気もします」。
しかも近年は、ハイエンド・ブランドが資金にモノを言わせ、銀座などで新たな都市景観さえ形作っているという。そんな中で、松原氏は市民の心理を「一時的には良くても、各企業が衰退したり、資本主義そのものが傾いたら都市景観も荒れてしまうのでは、と不安を感じるのだろう」と分析する。「遺跡や公園くらい、経済不況になってもそのままであってほしい、というような常識はもはや消失しつつある、ということでしょうか」。
確かに、中国でも歴史ある古い村に、これを観光開発しようとする巨大資本が入り、安い価格で伝統的な民家を買い上げ、住民を追い出そうとした例などが見られる。歴史遺産に巨大な資本が投入されることについて、日本以上に「資本」の脅威に敏感な中国の一般市民が強い警戒心を覚えるのは、十分理解できることだ。
民族的自尊心も影響?
しかし、国内の巨大な資本が歴史的遺産の独占的再開発に関わっても、よほど大きな破壊を文化遺産にもたらさない限り、それがやり玉に挙げられることは少ない。だが今回は、すでに立ち消えになった、しかも歴史的建築物をまるごと温存するプランが、激しい批判にさらされた。ここで疑問が生じる。やはりそこには、国の文化財を扱うのが巨大な「外国」の資本であることに対する、狭隘な民族意識の高まりはなかったか。そもそも、大型の建築プロジェクトにいくら外国の資本やデザイナーが関わっても、それをあまり大々的に公にはしたがらないお国柄である。
この疑問に対し、文化遺産保護中心の関係者は「批判は純粋に伝統建築の保護の立場から」だったと強調した。一方、朱氏は以下のように答えた。
「確かに、民族的自尊心が人々の心を狭くしています。でも、人類の文明とは人類がともに築いてきたもの。シルクロードなどを通じて西洋文化と溶け合う過程がなければ、中国の文化だってここまで栄えませんでした」。
氏は、中国を代表する文化の一つとされる仏教文化も「そもそもは海外から来たもの」だと語る。「仏像彫刻だって、ギリシア彫刻の影響がなければ、高度な完成はなく、それが中国に流れ込んで、発展しました。だから、海外の影響だからといって排除することは、文化を黒く塗りつぶすこと。中国文化は寛容で、誰もがともに享受できたからこそ栄え、強大になりました。それを限られた範囲に限るのは、狭さ、自信のなさの表れに過ぎません」。
不透明な商業利用への不安
これほど書き連ねた上での結論があいまいで恐縮だが、今回の異常なタイミングでの議論の高まりの理由には、まだまだ謎に包まれた部分が大きい。筆者の私論を付け加えれば、そこには公共の文化遺産の扱いをめぐる、これまで政府の不透明なやり方、関連法規の不備と不徹底に対する漠然とした市民の不安も影響しているように思う。
北京では、恐らく何らかのコネを持つ経営者が、文化財建築、または観光地の要所にある建築の使用権を有利な条件で手に入れ、商業利用しているケースをよく目にする。また、国営の商業施設は特殊な例を除きすでに存在しないとはいえ、その既存勢力は、そもそも有利な地の利と知名度、土地と建物の使用権が既得であることなどから、徐々に競争上優位に立つケースが増えてきている。そういった旧国営系が文化財を占拠して経営してきたレストランやホテルが、改革開放後、一般開放されていたにも関わらず、近年、政府関係者の接待専用の施設へと逆戻りした例もある。そのいずれもが不当な占拠であるとも言い切れないが、そこで少なくとも、かなり不透明な権利の取引、時に文化財の保護に不利な改造が行われていることは確かで、関連する報道も増えつつある。
皮肉なのは、商売が繁盛すれば、文化財の保護費用も捻出できると思いきや、むしろ恣意的な改造の費用に回され、営業用面積拡大などを目的に、文化財が破壊されるケースもあることだ。もちろん、美術館への転用となれば、商業的利益に駆られた恣意的改造の危険性は低いが、故宮内にスターバックスが進出した例もあり、巨大な資本の影響力の下では、どんな例外もまかり通るという不安は、多くの市民が共有しているものであろう。
これらの傾向に歯止めをかける意味もあってか、今年の10月に北京市の都市計画委員会が修訂した「都市および農村部の計画用地分類基準」には、これまでにない「保護区用地」という区分が設けられた。この基準に関しては、近日中に社会から広く意見が募られる予定だが、もしこの基準が適用されれば、「保護区用地」に分類されたエリアでは、恣意的な開発が禁止され、関連する条件に従った保護が行われるという。このエリアに、皇史宬を含む故宮周辺が含まれるであろうことは、容易に想像できる。
こういった複雑な背景が絡んでいたと思われるとはいえ、市民が伝統的建築物の行方、その現代的デザインとの結びつきについて率直に発言する機会が与えられたことは重要だ。朱氏も、実際にプランが実施される段階になれば、デザイナーを交えた市民や文化財保護の専門家らとの討論は必須と考えているという。今回の討論が朱氏不在のまま独り歩きしたこと、また朱氏曰く「罵倒に終始している」ことは残念だが、今回の件が、伝統建築の現代的再生をめぐるディスカッションの先駆けとなったことは、やはり歓迎すべきことだといえるかもしれない。