北京の胡同から

第49回

断片から構成されるもの 胡向前と洪浩の個展より

 胡同は一つの宇宙だ。とはいえ、物理的には大都市の片隅の細い路地に過ぎない。そんな中にいて、しかもメディアの規制の強さを実感する毎日を過ごしていると、いかに今はインターネットで世界と繋がっているとはいえ、時おり自分にはごく限られた身辺の情況しか見えていないような気がしてくる。
 そもそも人にはみな、そう信じ込みやすい面があるのだろう。だから一般的に人は「全体」、つまり「わしづかみ」にされた「全体像」や「全体の傾向」などを見たがり、読みたがる。私もその例にもれず、国や国民性がどうだとか、社会の傾向がどうだとかいった話題には、まゆつばだとは思いつつ、ついつい目が行ってしまう。
 だが、当然ながら世界には別の面もある。断片から構成されていて、その断片同士の関係が世界を作っている、というものだ。だから、その断片をどう切り取り、どう扱うか。それが世界への深い省察につながることがある。
 そんなことを考えさせてくれるアート作品に、先日胡同の中で出会った。 

エンドレスに煮えたぎる鍋

 それは、細く、きわめてローカルな胡同、「箭廠胡同」の中にある実験的なアートスペース、「Arrow Factory」で見かけた広東出身のアーティスト、胡向前の作品、「A像B(AはBに似ている)」だった。
 狭いスペースには三つのスクリーン。それらは、蛇口から逆さに流れる水、嵐の中に置かれた車の上でもがく人間、スープが煮え滾る鍋といったシチュエーションの映像をそれぞれエンドレスに流し続けている(参照URL)。

胡向前の作品「A像B」(写真/張全)胡向前の作品「A像B」(写真/張全)

▲▲胡向前の作品「A像B」(写真/張全)画像はすべてクリックで拡大します

 胡同という日々の生活臭であふれた空間に、空間、時間、状態などを切り取った「永続的な断片」が、延々と流れ続けるという不思議さ。それはエンドレスな人類の営みとも、限度を知らない人の欲望とも捉えられるし、本来知っていながら、普段は無視している、不可逆的でありながら堂々巡りにも見える時間の流れの永続性を視覚化する試みにも見える。タイトルから想像されるのは、三つの映像が相似形にあることだ。「日常」から切り取られた映像の断片がきわめて「日常的」な風景の中に置かれることで、かえって通常のアート空間では感じられないほど強烈な「非日常」を生み出す、という落差は興味深い。
 オブジェのように設置されたスクリーンから流れるそれぞれの映像が、まるで日常的な空間や時間を切り裂く切れ目のように見えたのは、それらが、あまりにも日常的な構成要素を媒介としていたからだろう。

胡同の中にある「ARROW FACTORY」(写真/張全)

◀胡同の中にある「ARROW FACTORY」(写真/張全)

物質性を平らにする試み

 一方、北京郊外の79芸術区にあるペースギャラリーで見た1965年生まれの作家、洪浩の個展も、日常の断片を再構成する試みを感じさせ、印象的だった。
 今回の個展は、卒業制作から最新作まで、1980年代末以来の彼の創作活動を振り返ったもの。洪浩の作品といえば、日常のこまごまとしたものをびっしりと並べ、スキャンして作品にしたものが有名だ。期待に背かず、今回の展示でもその「『私の物』シリーズ」は強い存在感を放っていた。洪浩はあるインタビューでこう答えている。
「市場経済の社会変革が、物質化された価値観と消費観をもたらした。それは人と物の間に、新たに関係を打ち立てる必要を生じさせた。その結果、私には内省的に自我を分析したいという欲求と態度が生じたのだった」。

洪浩「結算04-05」2006年(画像/PACE BEIJING提供)

▲洪浩「結算04-05」2006年(画像/PACE BEIJING提供)

 びっしりと並ぶ各種の領収証やチケット、通帳。作品「決算 04-05」は、さまざまな断片を通じ、私たちの暮らしがいかに金銭を媒介に社会と繋がっているかを突きつけてくる。そこからイメージされる、気が遠くなるほど複雑に入り組んだ消費社会は、版画のようにすべてが極限まで平面化された視覚的効果と、鮮やかな対比をなすものだ。そもそも洪浩は版画科出身。彼自身も「スキャンが生む、ある種の美学的趣味」を、版画がもたらすものと似ていると認めている。

洪浩「負部之四」2009年(画像/PACE BEIJING提供)

▲洪浩「負部之四」2009年(画像/PACE BEIJING提供)

 その平面化の試みは、器具の底部を撮影して並べる「負部」シリーズによって、物質の識別性を消滅させるまでに至る。同上のインタビューでこの過程について洪浩はこう語っている。
「それは、価値を平らにならすこと、物質性を抜き去る過程だった。そこには重要か重要でないかの差はなく、物理性の差だけがある。まるで、廃品回収所の物質に対する態度のように。かつて、どんなに貴重なものでも、そこでは分類して積まれる境地になるのだ。ここは鉄で、あそこは紙といった具合に」。

描き直される世界地図

 そもそも遡れば、洪浩の作品では、世界は断片から成り立っている、という意識の視覚化は、卒業制作の頃から手掛けられてきた「蔵経」シリーズにおいて、「世界規模」で展開されてきた。
 1990年代初頭には、当時の国際的な勢力図の変化を念頭に、洪浩は「世界の新たな区分けと視覚上の倒置」を意図したシルクスクリーン版画のシリーズを生み出している。

「蔵経95頁」最新実用世界地図 1995年(画像/PACE BEIJING提供)

▲「蔵経95頁」最新実用世界地図 1995年(画像/PACE BEIJING提供)

「蔵経3065頁」世界行政新図 1995年(画像/PACE BEIJING提供)

▲「蔵経3065頁」世界行政新図 1995年(画像/PACE BEIJING提供)

「蔵経2001頁」世界新図A型 2000年(画像/PACE BEIJING提供)

▲「蔵経2001頁」世界新図A型 2000年(画像/PACE BEIJING提供)

 これらにおける世界の国や地域レベルの断片化、そしてその恣意的な置き換えは、その後、伝統絵画の世界においてパーツを置き換え、過去に現在を闖入させるという形の作品でも結晶したのだった。
 胡向前が今現在の永続的な日常の断片を今現在の日常の中に置くことで非日常を生み出したのとくらべ、こちらは日常の断片を時間的隔たりのある空間に置くことで、ある時間軸の中に置かれた日常の普遍性を直観させている。

洪浩「八達游春図」2008年(画像/PACE BEIJING提供)

◀洪浩「八達游春図」2008年(画像/PACE BEIJING提供)

 展覧会場の壁の一角には、大きな文字で「往復をすることは、一種の生き方であり、一種の立場でもある」と書かれていた。興味深いのは、確かにこの作品にせよ、「蔵経」シリーズにせよ、果ては「私の物」シリーズにせよ、その表す時空や概念が、一見そうでないようにみえて、どこかあるスパンの中で反復を繰り返しているように感じられることだ。表現者も含め、人間は常に同じことを繰り返している、ということを認めた、諦念に近い態度とでもいえるだろうか。ここで、ふたたび、胡向前の作品が連想される。

 言うまでもなく、現代はまさに情報の断片化の時代だ。インターネット上の情報が最たるもので、私たちはそれらをふるい分け、つなぎ合わせて、何らかの真実や全体像を得ようとすることを、日々余儀なくされている。だからこそ、アーティストたちの、断片を拾い集め、その意味を問い続けるこのような試みは、現在の私たちにとって、ますます示唆的となっているのかもしれない。

【参考データ】
◎胡向前「A像B(AはBに似ている)」展 
会場:ARROW FACTORY (箭廠空間)
会期:2013年3月20日~2013年4月30日
詳細:http://www.arrowfactory.org.cn/?page=huxiangqian

◎洪浩個展
会場:PACE BEIJING
会期:2013年3月16日~2013年4月27日
詳細:http://www.pacegallery.com/beijing/exhibitions/12569/hong-hao

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、『シベリアのビートルズ──イルクーツクで暮らす』(2022年、亜紀書房刊)。訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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