北京の胡同から

第03回

『北京再造—古都の命運と建築家梁思成』、近日出版!

丁東氏丁東さんが語る『北京再造』の意義

 都心を中心に次々と環状道路や住宅区が建設され、膨張を続けている巨大都市、北京。だがかつての北京は「城壁」で囲まれ、城壁によって城の内外を区切られた城郭都市だった。新中国の成立時にも、古都北京には、その長い歴史を反映し、数多くの文化財建築が残されていたのだ。

 この古都の遺産を守るため、1950年、梁思成、陳占祥ら都市計画学者は「梁陳プラン」の実施を提唱する。そのプランとは、北京の旧城の西に新しく都心を設け、旧城の歴史的街並みを全体として保存するという、当時としては極めて画期的なプランだった。

 だがその後、政治的事情によって梁陳プランは否定され、北京の数々の文化財建築の保護も疎かにされる。かつて北京の景観を美しく縁取っていた城壁も、厄運を逃れることはできなかった。

 新華社の記者、王軍氏が執筆した『城記』(邦題:『北京再造?古都の命運と建築家梁思成』)は、以上に述べたような新中国成立後の北京の都市の変貌やその都市計画のあり方を、膨大な資料とインタビューを元に入念に追った力作だ。

 このたび、拙訳によりその日本語版が発売されることになった。そこで、20世紀中国現代史、とりわけ知識人問題の研究で知られる丁東氏に、『城記』を推薦する理由やその魅力、および『城記』と関連する話題について、お話をうかがった。

『北京再造ー古都の命運と建築家梁思成』出版をめぐって

──『城記』(邦題:『北京再造ー古都の命運と建築家梁思成』、以下『城記』と省略)の日本語版が出版される意義とは?

 丁東:当初、私がこの本の日本語版の出版を勧めた理由は、まず、作者の書き方がしっかりしていて、資料も豊富な、優れた本であり、また、扱っている問題も、現実問題と密接に関連し、現実的に意義があるからです。

 また、この本の内容も、日本の方が関心を持ちやすいものでしょう。文化財の保護をめぐる話題、とりわけ北京のような世界に名だたる文明の古都の命運や、中国の歴史や文化について、日本の学者や一般の読者の方は高い関心を持っておられます。しかも、本書の内容の一部は、中国と日本を比較したものです。

──解放後の北京の都市計画に対する鋭い批判をはらんだ『城記』ですが、なぜこの本は中国国内で出版できたのでしょう?

 丁東:よく知られているように、中国の出版界の環境とは、それほど自由なものではありません。このような環境では、真摯に中国史の重大な問題を省察し、我々の歴史がたどった回り道について探った本が、公に出版されることはとても少ないのです。中国の学者の中に、『城記』と同じレベルの本を書ける人は少なくありません。しかし、公開して出版できる人は少ない。『城記』はそんな状況の中で出版された数少ない本の中の一つです。

 別の問題なら、それをめぐるある種の見解を政府は受け入れられなかったかもしれません。でも、王さんの扱った内容は、政府もある程度まで許容できるものでした。その理由は、本書で扱われた問題が、すでに現実的な問題となっているからです。最近の数十年における北京の都市建設について、政府の方でも、ある程度反省をしています。そのため、政府の都市計画に対する態度も、この数年においてやや調整がみられるようになりました。北京の古都の保護の問題についての政府の意見も、過去とくらべ、ある面において有識者らの意見とずっと近くなっており、両者は現在、比較的多くの共通認識に達しています。そういった状況のもと、新華社の記者である王軍さんが、独立した作家として『城記』のような本を書いたため、その観点は、ある程度政府筋に許容されるものとなったのです。

──やはり、タイミングに恵まれたということですね。

 丁東:もし、まだ毛沢東の時代であったなら、『城記』のような本が出版されることはあり得ませんでした。改革開放後であっても、初期であったなら、『城記』のような本は、政府に容認されなかったかもしれません。

 実際は、多くの人が、今このような本が出ても遅すぎる、と感じています。北京の景観はすでに取り返しのつかないほど破壊されているのですから。

『城記』の中で語られている北京の変化は、実は私自身も肌身で体験したものです。私は上海生まれですが、1952年、つまり1歳の頃にはすでに北京に引っ越していました。その後16年間北京で暮らした後、知識人青年として上山下郷(註1)に参加し、山西省に行きました。でもその頃も、両親は北京にいました。

 つまり、私は人生の半分の時間しか北京で過ごしていませんが、北京との関係が途切れたことはありません。そのため、『城記』で分析されている内容も、私が人生の中で体験したことと一致しています。たとえば、私も子供だった頃、北京の城壁に登ったことがあります。城壁の取り壊しも、この目で見ました。

 ただ、その頃の私はまだ幼く、知識や見聞、体験も不十分だったので、城壁が壊されたり、北京の古都の景観が破壊されたりしても、そこに含まれる意味がそれほど理解できませんでした。それに、梁思成のような人たちがああいった見方やプランを持っていたことも、当時は知りませんでした。その後彼らの存在を知ってから、初めてそれが無視できない歴史であると感じたのです。

註1:幹部や大卒の青年が農山村に長期間住んで現地の労働者や農民と共に働き、社会主義建設に参加した運動

梁思成の「先見の明」

──ここ数年の北京では、オリンピックに向けて強引に壊された四合院(北京の伝統的家屋)も多いようですが?

 丁東:確かにそうですが、オリンピックを前にした数年に関しては、北京の古都の景観保護は比較的重視されたと思います。

 北京の歴史文化財に対する政府の態度の変化は、オリンピックがきっかけになった可能性が強いでしょう。もちろん、遅すぎたともいえます。北京の古都の景観、都市の構造は、すでに破壊され、もはや回復するすべがありません。すでに建てられたビルを壊して四合院に戻すことは不可能です。北京の城壁にしたって、再び築こうとしても、すでにその場所は別のものに占められています。

──保護の重要性においては、第二の城壁とも言われる四合院ですが、その保護の問題は大変複雑ですね。

 丁東:四合院の保護が抱える問題は以下のようなものです。北京の元々の建築は四合院でした。ではなぜその後、この四合院が問題になったのでしょうか。毛沢東の時代、毛沢東は一般庶民の住宅の問題にあまり関心を払いませんでした。ですから、北京市の人口は何倍にも増加しましたが、住宅はあまり増加しませんでした。そのため、多くの四合院はのち、数世帯が同居する大雑院に変わりました。例えば、もともと1家族しか住んでいなかった四合院に、5家族が住むようになったのです。そうなると、住み心地は極めて悪くなり、人々の気持ちも、この四合院を壊してマンションにしたらどんなにいいだろう、というものに変わりました。少なくとも、各家庭に洗面所やトイレがつくことになるからです。

 そのため、50年代から60、70年代にかけて、四合院はどんどんと、生活に不便な場所となっていったのです。その頃、人々があこがれたのは四合院から引っ越し、マンションに移ることでした。

 もちろん、高級幹部が住む四合院に関しては、一家で一つの敷地に住めましたから、同じ四合院でもすばらしく、マンションより良かった。家には暖房が入り、上下水も完備され、水洗便所もあったからです。例えば、かつて私の住んでいた胡同の近くには、中央政治局委員だった陳錫聯が住んでいましたが、彼の住んでいた四合院は良かったですよ。でもそのような四合院に住める人は、あまりに少なかったのです。

 現在『城記』を読めば、当時の梁思成の構想について知ることができます。それは政治の中心を郊外に設け、古い北京城は元の場所にそのままにしておけばいい、というものですが、こういった考え方は、今振り返ってみれば、とても卓越したものでした。

 梁は確かに、都市計画に精通していた人間で、ヨーロッパやアメリカなど、世界の様々な国の都市計画の成功例について、深く理解していたのです。しかし、毛沢東らは理解していなかった。毛沢東は一生で2回しか海外に出ていませんが、いずれもモスクワで、他の国には行ったことがありませんでした。

 我々一般の中国人も、ここ数年になってやっと、海外に出て、他の国では歴史文化財の保護を重視していることを知ったのです。中国では千年の歴史を持つものでさえ、それほど大事にしていないのに、アメリカでは百年ほどの歴史のものでも、とてもきちんと保護している、ということを。

──毛沢東がもっと頻繁に海外に出ていたら、事情は違ったのかもしれませんね。

 丁東:実際は1940年代の毛沢東は、アメリカに憧れがあり、アメリカに対する評価も高かったのです。でも当時、アメリカの大統領ルーズベルトは、毛沢東が潜在的に持っていた政治力を重視していなかった。もし、ルーズベルトが50年代に毛沢東が大国のリーダーになることを意識していたら、毛沢東が米軍を通じて、アメリカを考察に行きたいと申し込んだ場合、きっと受け入れていたでしょう。しかし、ルーズベルトには予測できなかったのです。

 もし、ヨーロッパやアメリカをその目で見ていたなら、毛沢東も異なる感覚を持ったことでしょう。梁思成は何といってもアメリカに留学に行って、現地を見ていた。都市に労働者階級を多く住まわせるべきか、などといった原則の問題は、理論だけでも語ることができますが、やはり、実際の体験を伴い、その目で見ていることは、いかなる理論と比べても重要です。

 アメリカでは、政治の中心、文化の中心、経済の中心が分離しています。ワシントンはただ政治の中心であるに過ぎず、工業など必要としていません。それは毛沢東には思いも寄らないことでした。毛は当時、天安門から見たとき、至るところが煙突ならすばらしい、と言いました。彼にとってみれば、至るところに煙突さえあれば、現代化した工業国だ、ということでした。今、毛沢東の身になって考えてみれば、その限られた経験からして、あり得る言葉です。中国は100年余りの間、ずっと貧しく遅れた農業国だった。だから、工業国になればいい、と毛は考えたのです。そのロジックは、分からないわけではありません。だけど、ワシントンに行っても、煙突などどこにも見当たらない、ということを、彼は知りませんでした。

──では、やはり梁思成は為政者に理解されない、不遇の学者だったのでしょうか?

 丁東:そうだとばかりも言えません。彼にも幸運な面はあったのです。梁思成は、中国の多くの分野の創始者でした。例えば、中国建築史の分野で、彼は創始者です。今の時代に生きていれば、創始者にはなれなかったでしょう。もう、別の人が先に創始していたはずだからです。また建築教育の創始者でもあります。清華大学の建築学科は彼が創始しました。また、先述の通り、開国の時期に、国章や英雄記念碑をデザインしたりもしました。今であれば、どんなに高いデザイン能力を持っている人でも、これらのものをデザインするチャンスは得られません。

 梁思成は中国において、かなり早期に西洋に留学に行った学者でした。だから彼には、世界のいくつかの学問分野を、中国の過去の時代の伝統と組み合わせるチャンスがありました。例えば、彼は中国古代の建築史を整理しましたし、また、中国古代の建築関連の著作も整理しました。

 いずれにおいても先駆者となれたという意味で、梁は幸運な運命にあったのです。学術面から言えば、彼の功績は、後世の人間には真似できないものですから。

 ただ、不幸だったのは、彼の生きた中華人民共和国の成立初期は、専門家の意見が得られるべき尊重を得られなかったことです。彼の持っていた文化財の保護という考えは、時代に先駆け過ぎていました。国家の指導者たちは、梁思成の観点がもつ意義を認識しきれなかった。その結果、その将来を見越した優れた観点も、受け入れられませんでした。

 そのため、梁思成は結果的には心を痛めることになったのです。彼が高い価値を認めていた北京の城壁や文化財や古跡が、その目の前で一つ一つ破壊されていったのですから。でも、彼にはどうしようもなかった。なぜなら、彼はそこに価値を認めていても、毛沢東を筆頭とする指導者たちはそれらを「邪魔なもの」「遅れたもの」としか見ていなかったからです。

 彼の主張の多くは確かに受け入れられませんでしたが、歴史的な意味からすれば、彼はやはり先駆者でした。真理は彼の手に握られていたのです。当時は梁思成の考えが理解できなかった人々も、後になってみると、やはり彼の意見が優れていたことに気づいたのです。

中国のジャーナリズムの今

──『城記』は新華社の記者の王軍さんによって書かれた本ですが、現在の中国で、ジャーナリストの役割というものは、どんな段階にあるのでしょう?

 丁東:今の中国では、ジャーナリストの役割というものは、過渡期にあると思います。毛沢東の時代、ジャーナリストは単なる代言者に過ぎませんでした。一方で、西洋諸国では、記者は独立した職業です。現在の中国では、ジャーナリストはちょうどその中間に位置しています。一部の記者はまだ代言者に過ぎませんが、一部の記者は独立した力、これを第四種の権力と呼ぶ人もいますが、そういった力を持っています。世論による監督という作用を持っているのです。これを「王冠のない王」と呼ぶ人もいます。

 つまり、現在の中国では、ジャーナリズムは一定の程度、その効力を発揮することができます。でも十分とはいえません。なぜなら、やはりまだ中央宣伝部が「このことに関しては発言をしてはいけない」というような多くのタブーを設けているからです。つまり記者たちはただ一部の「しゃべってもよい」部分に関してしか発言ができません。

 しかし、一部の記者の中には、なるべく真実に近い、責任のある話をしようと努力している人がいます。王軍さんもそういった人です。

 私に関しても同じです。もし、私の書きたいことが、中央宣伝部のタブーに触れるのであれば、どうせ掲載できないのですから、敢えて書いて、編集者を苦しめようとは思いません。でも、嘘は書きたくない。だから、真実の意見を言える問題に関してのみ、本当の話を書く。そうするしかありません。嘘は言いたくないですからね。

 ですから、中国の現在のジャーナリズムを単純な二元論で語ることはできません。中国のジャーナリズムは自由でない、誰もが、嘘ばかり言っているという人もいますが、そうとは限りません。でも、皆が本当の話をしているかというと、そうとも限らない。

 もっとも、読者には、選択肢があります。北京の新聞では、「新京報」が人気があり、全国規模の新聞では「南方週末」がよく読まれています。この二つは、可能な状況の下で、できるだけ本当の話をしようとしているからです。もちろん、時には少し嘘を言わざるを得ないこともありますが。

──やはり全体としては、徐々に開放に向かっていると思うのですが

 丁東:それほど敏感でない問題に関しては、論争、討論の余地も残されていますが、例えばオリンピック批判はタブーです。オリンピックを批判する文章は書いてはならない。この問題に関しては、異なる意見は許されていません。実際には、批判の声もなかったわけではないのですが。

 現在、すでにある程度開放されていますが、多くの人が、更に一歩開放されることを希望しています。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、『シベリアのビートルズ──イルクーツクで暮らす』(2022年、亜紀書房刊)。訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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