北京の胡同から

第33回

被災者の方々へ──故郷の話 & 消えた文化財たちの墓標

 本題に入る前に、今回の大震災に関し、伝統と土地と人間について、考えたことを記させていただきたい。
 震災時、実は筆者はたまたま北京でなく静岡の実家にいた。筆者も高校時代に住んでいた舞阪という旧宿場町で、浜名湖の南、太平洋に面した遠州灘の北にある。
 1498年、大地震と大津波により、それまで内陸の淡水湖だった浜名湖が海とつながってしまった時のこと。その決壊部分にあったため水没してしまった舞澤という村から命からがら逃げてきた人々は、砂丘の柳の木の根元に、津波で流された、かつての自分達の氏神、岐佐大明神の祠を見つけた。人々はその祠をきちんと建て直し、新たに自分たちの村を作ったという。

現在の岐佐神社の社殿

現在の岐佐神社の社殿⇒

 その後、浜名湖の決壊部は「今切れた!」という言葉から来た「今切(いまぎれ)」と呼ばれ、新たな移住地は海抜が極めて低く坂などほとんどないのに「舞坂」と呼ばれるようになった。想像に過ぎないが、いずれも何だか、当時の人々の強烈な印象や切実な願いを感じる地名だ。
 その後、決壊部ができたことによって、東海道の旅人たちのための渡し場が必要となり、舞阪は宿場町として発展した。その役目を終えた今も、過去の災害を何も感じさせない、平和でのどかな風景を呈している。
 というわけで、前置きが長くなってしまったが、被災地の方々も、いつか必ずまた故郷が平和で元気な姿に戻ること、もしかしたらこれまで思いもかけなかった新しい形で発展できるかもしれないことを信じ、希望をもって苦しい日々を乗り切っていただけたら、と願ってやまない。

今切に残る船着き場「雁木(がんげ)」の内、大名や幕府の役人が利用した「北雁木」

今切に残る船着き場「雁木(がんげ)」の内、大名や幕府の役人が利用した「北雁木」⇒

 教訓というには痛ましすぎるけれど、「今切」という緊迫感あふれる地名に、当時の人々の、後世の者に警戒を怠らないよう促す気持ちが感じられるように、大事なのは将来同じ災害が起きた時のために、後世の人々にきちんと何らかの形で、災害の記憶や取るべき対策などを伝えていくことなのだろう。それは貴重な土地の「伝統」となっていく。
 今回の地震で筆者は、伝統や地名を残していく価値の大きさとその多面性に改めて気付かされたのだった。

 前置きが長くなってしまったが、本題に入りたい。

 不思議なこともあるものだ、と思う。
 北京の崇文門内の小報房胡同というところで、1997年、清代の郵政総局址を利用した、北京郵政博物館が開館した。開館当時の関係者の説明やウェブサイトの説明を読むと、ここは清末の1905年から1907年にかけて郵政総局だっただけでなく、民国期の郵政においても北京の第一支局として機能していたとのこと。北京最小の博物館だそうだが、建物の歴史的価値も含め、とても丁寧な説明が並んでいた。
 そこで昨年、期待を胸に訪れてみると、博物館どころか建物まで取り壊され、復元とはとても思えないような、まったく新しい建物が建ち始めていた。どうも博物館は数年前からずっと閉まっていたようだった。

清代の郵政総局址の工事現場←清代の郵政総局址の工事現場(写真/張全)

 老朽化した文化財がとうとう危険家屋になってしまったので、修復の費用もない以上、取り壊さざるを得なくなった、というのなら分かる。東京なども、かろうじてプレートでの説明のみを残す幽霊遺跡だらけだ。だが、ここの場合は博物館として開館できたぐらいだから、そこまで老朽化がひどかったとは思えないし、ウェブサイトの説明にも、築百年でも、構造はしっかりと保存されている、と誇らしげに書いてある。それに、もし関係者自身が言うようにそこまで価値のある文化財なら、取り壊す前に専門家を交えた討論会や何らかの告知があってしかるべきだ。

 やはりまだどこかに文化財の痕跡はあるのでは?との希望を抱きつつ、先日再び訪れてみると、工事こそ終わっていたが、門は固く閉ざされ、防犯カメラまで設置されていた。その場所が文化財であることを記すプレートなども見当たらない。やはり人知れず消えてしまったのか、とがっかりしながら帰るしかなかった。

固く門が閉ざされた清代の郵政総局址

▲固く門が閉ざされた清代の郵政総局址

 だが今年の3月に発表された、北京市の「市の文化財」として新たに認定された31の文化財のリストを読んだ時に、思わず目を疑ってしまった。有名な北京ダックの全聚徳の本店のファサードなどとともに、この清代郵政局址が含まれていたのだ。

 文化財として保護してほしいとの申請こそしたが、許可される前に持ちこたえられなくなって壊してしまったのか、移築されたのか、それともまったく新しい建物を「清代のものだ」と主張する気なのか、謎は深まるばかり。あの日に見た工事の風景が幻だったのだ、と信じたいが、残念ながら写真はしっかり残っている。
 この件については、新たな情況が分かり次第、また稿を改めてご報告したい。

 いずれにせよ、今回発表された31の新たな保護文化財の中に、これまで軽視されがちだった建築物、例えばかつて上京者が出身地ごとに集まった会館や、民国期の建築物が数多く含まれているのはすばらしい。遅すぎたとはいえ、認定されないよりはずっといい。

 これを含め、最近、文化財をめぐる政府側の価値観の変化を示す、いくつかの現象が北京で見られる。とりわけ重要なのは、消えてしまった文化財の存在を碑の形で人々に知らせる動きだ。北京の西城区で、古い城門を含む、現在は失われてしまった12カ所の文化財について、碑が建てられた。その位置はその遺跡が元あった場所に限りなく近く、碑には文化財の説明も附されている。
 地味な動きだが、全市、全国に広まってほしいと思う。白い碑を慰霊碑、墓標と捉えるか、地理的、歴史的資料と捉えるかは人それぞれだろうが、昔からの北京っ子がどんどん市の中心部を去っている今、「そこに何があったか」を人の語りや記憶にのみ頼る危うさは増す一方だからだ。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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