北京の胡同から

第32回

ドラマ、映画、小説が問う中国の「医徳」

北京のある病院◎写真は北京のある病院。イメージ写真で、本作の内容と直接の関係はありません。

 昨年秋から今年にかけて、新聞やメディアでしばしば取り上げられている言葉がある。医療道徳、医師の備えるべき道徳などを指す「医徳」だ。これは、近年増加している医療訴訟や医療をめぐる数々の苦情申し立てを前に、病院や医療従事者がこれにどう対応するか、が強く問われるようになったからだ。
 最初に小さな旋風を巻き起こしたのは、昨秋公開された「我是植物人(私は植物人間)」という映画だった。これは製薬会社が利益のために未許可の薬品を病院に販売し、何人もの被害者が出た事件を扱ったもので、ソフトにだが医療訴訟の問題、患者に被害が出た際の病院側の対応などにも言及。そもそもはインディペンデント映画ゆえ短期の上映予定しかなかったが、ネチズンやメディア関係者の間で評判が高まり、異例のロングランとなった。
 当時ちょうど筆者は、ある医薬品会社の営業関係者の友人に、ある医薬品を病院の棚に並べてもらう為に、30万元程度のコミッションを払っている、という話を聞き、映画の内容がとても身近に感じられたものだった。

 その後、運の悪い事に、筆者自身も医療事故に遭ってしまった。事故とは、足の裏にできた腫瘍の治療のために北京の大病院に通っていた際、傷口に詰めた綿を看護婦が出し忘れたというもの。気付かぬうちにその綿は足の中で化膿を引き起こし、ついに足の甲側から出てきてしまった。つまり足に穴が開通してしまったわけで、筆者は突然できたグロッキーな穴に仰天。慌てて病院に行ったが、医師は責任を否定も肯定もしない。
 筆者が外科科長である医師の名を教わり、訪ねて行くと、とても医師とは思えない威圧的な態度で、「証拠が立証されていないから医療事故ではない。我が科でそんなお粗末な治療をするはずがない」と言い張る。まるで私たちが最近増加した「医鬧(医療事故を口実に多額の賠償金を請求する人)」であるかのような態度だ。
 しかし、ここ数カ月の通院の記録はあり、穴も確かに空いていて、その穴から出てきた綿も手元にあるわけで、決して立証は無理ではない。本来、病院側が事故によって生じた医療費を負担してくれれば許そう、と思っていた筆者だが、医師のあまりにひどい態度に、涙を飲み、「よし訴えてやる」と決心。だがその帰り途に婦長さんが慰めてくれた言葉が、筆者の心を和らげた。「コットンが知らぬうちに入ってしまうことは確かにあり得ます。あなたの目的は傷を治すことでしょう?だったら一緒にきちんと治しましょう」と半分非を認め、誠意を示してくれたのだ。
 結局、治療費の一部を負担してもらう形で事は収拾し、数カ月後の今もその治療を受け続けている。とはいえ、当初はやはり心穏やかではなかった。まず、普通外科の医師から冷たい扱いを受け、カルテに何も書いてもらえなくなった。もちろん「証拠」を残さないためだろう。麻酔や薬品の一部は病院が負担してくれたものの、何も書面に残らないため、「もし何か起きたら」と不安に駆られた。
 救いは看護婦たちの態度だった。これまであちこちの病院に通ってきたが、一般の問診ではこれまでかつて一度も受けたことのないほどの、丁寧な治療をしてもらえるようになった。別の科から骨科の権威を呼んで、無料で診察してくれたこともある。
 自宅での治療が必要なうえ、週に3日以上も病院に行かねばならぬため、面倒なことこの上ないが、中国の一般の外来でこれまで望めなかったホスピタリティに接しているせいか、今は看護婦の過失に対する怒りは収まり、当時の外科科長の態度だけが気にかかる程度だ。

 振り返れば、筆者が事故に遭った当時は「医徳」をめぐる話題が過熱する一方だった。皮肉なタイムリーさで総合病院を舞台にしたドラマ「医者仁心」が大ヒット。筆者は一部見ただけだが、中国のドラマだけに、主に病院、医師の立場から描かれ、彼らの理想的な姿が強く掲げられていたものの、一部の医療関係者の不正や失敗、医療訴訟などにも触れられており、それなりに見ごたえがあった。
 一方で小説の方も負けてはいなかった。不動産の価格高騰に振り回される市民の姿を描いて大ヒットしたドラマ『蝸居』の原作者、六六が新作『心術』を発表。ゴシップやある程度のデータ、ネット上の書き込みなどを挟みながら、現在の病院が抱える問題、患者と病院の関係などをかなり多方面にわたって描き出した。
 主人公は「コネも金もなく、恋人にもやがて逃げられる」上海の大病院の若手医師。そんな医師の周辺に、個性的な医師や看護婦や患者たちが登場する。ストーリー自体は彼らの恋愛問題などをからめた親しみやすいものだが、その間には、治療費の8割が都市に集中しているともいわれる農村と都市の医療格差、「医徳」面での中国と海外のギャップ、払った金額に見合う「完璧な医療」を病院に求める患者の態度、医療保険を享受できる人々と自費で払う人々の境遇の差、医療従事者の基本給の低さ(医師は教師以下、看護婦は家政婦以下)、などの深刻な問題がちりばめられている。とりわけ、医療費の高さゆえに治療を諦めて故郷に戻る農民や、不治の病にかかったものの、治療費が払えず自殺をするがどうしても死にきれない農民の姿などがリアルで痛々しい。
 主人公は「死を前にしては誰もが平等だというが、実はそうではない」と語る。地位や財産がある入院患者には、舶来の医療器具が用いられ、贈り物を手にした見舞客が行列をなす一方で、貧しい人々の一部は、ベッドの空きも治療の金もなく、ただ死を待つしかない状況にあるからだ。
 医師をやめたい、と悩みつつもこれしか自分にはできない、と模索しながら進む主人公の姿は共感を呼ぶ。全体としてはやはり医療従事者側の立場からの内容が目立つとはいえ、医者と患者の間の情報量の差や意思疎通の問題も比較的客観的に取り上げており、困難な道を進む中国の医療の現状を知る上で、たいへん参考になった。

「中国の医療が遅れている」と口で言うのは簡単だ。道徳的に問題がある医療従事者も確かに少なからず存在する。でも、少しずつであれ良い方に変わってきていることも、筆者は生活者として肌身で感じる。かりに市民の間で高まりつつある「権利の主張」が過剰で、時に非合理的かつ暴力的でさえある賠償請求という形で表れても、その悪循環に患者自身が気付けば、いずれは収まっていくだろう。そして、時間がかかったとしても、最終的には当然保証されていい権利は尊重されるようになるはずだ。
 こういった信念をとりわけ強めてくれるのが、今回筆者自身が病院で感じた変化、そして文中でご紹介した映画やドラマ、小説などの存在である。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。