北京の胡同から

第14回

北京の溥傑故居

稲毛にある、溥傑夫妻が新婚当時(1937年4月~9月)に住んだ家 日本と同じで、中国でも都市はどれも似通ってきている。そのため、近代化の著しい地方都市に行くほど、ああ、どこかで見たような風景だな、といった既視感を覚える。
 でも、北京の胡同はやはり奥が深い。何気ない瞬間に、ああ、やっぱりここは北京だな、と感じさせられるのだ。

 自宅からすぐ近くの蓑衣胡同を取材がてらに散策していた時のこと。地元の住民に胡同をめぐるあれこれについて話を聞いていたところ、ある老人が通りかかった。相手が急いでいるとはつゆ知らず、さっそく「ちょっとお尋ねしたいんですが、この近くに誰か有名人が住んでいたことはありませんか?」と質問してみる。すると、その老人は足取りを緩めぬまま、「溥儀の弟の溥任さんが住んでいたことがあったねえ。私は溥任さんが勤めていた学校の同僚だったから確かだよ」とさらり。
「えっ、あの皇帝の溥儀の弟ですか?」
「解放後で、もう皇帝なんて関係なかったさ」
 そう笑いながら、老人は足早に歩み去っていった。

 溥儀といえば、激動の時代を生きた、清朝最期の皇帝として誰もが知る存在。その弟といえば、時代が時代なら親王だ。そんな人物のかつての「同僚」が、いかにも近所のおじいさんといった風情で突然目の前に現れるとは、さすが北京。書籍や物語の中にだけ存在していた歴史が急にぐっと身近になる。
 もっといろいろと聞きたい、と興味は募ったが、後の祭り。親切な老人はすでに姿を消していた。

 その後、資料を調べてみて、納得した。溥儀の父、二代目醇親王の載澧には4人の息子と7人の娘がいたが、溥任氏は溥儀、溥傑、そして夭折した溥倛に続く四男だった。満州事変後に新京(長春)に向かった溥儀や溥傑とは違い、父親の載澧の元に留まった溥任氏は、解放後も父親と共に什刹海周辺に競業小学校を設立。その校長を務めた。やがて小学校が国のものになった後も、西板橋小学校や廠橋小学校で1988年まで教鞭を執ったという。

 考えれば、この胡同は溥任氏の母方の祖父で、西太后の寵愛を受けた栄禄の故居とされる屋敷のすぐ近くにある。また、父載澧の屋敷があった醇親王府もそう遠くない。溥任氏にとって、この一帯は自分の庭のように親しみのある場所であったに違いない。

 皇帝の弟といえば、先日東京に滞在したとき、意外な場所を訪れる機会があった。溥儀のすぐ下の弟、溥傑が嵯峨浩と新婚生活を送った家である。千葉県の稲毛にあり、現在、「ゆかりの家」として開放されている。一見、昔ながらの日本家屋だが、欄間や明り取りの窓に意匠が凝らされていて、庭の飛石にもとても風情があった。新婚当時に溥傑が「借りた」ということだが、単なる偶然でこの家を選んだわけではないだろう。

 よく知られている通り、溥傑と浩の結婚は日満の関係を緊密にするための政略結婚であったが、夫婦仲は円満であったようだ。溥傑はその自伝『溥傑自伝』の中で、数々のお見合い写真の中から浩の写真を選んだ理由の一つに、当時ファンだった宝塚女優、草笛美子に少し似ていたことを挙げている。また、お見合いで初めて浩を目にした時の感想も、「百合の花を刺繍した桃色のスカートを身につけ、恥ずかしげにうつむいて座っていた。写真よりもさらに美しく、心ゆすぶられた」(『溥傑自伝』より)と率直だ。

 一方の浩の目にも、溥傑の様子は「軍帽を被ってはいるが、五官が整っていて、眼鏡の奥の眼はきらきらと聡明そう。軍人よりはまるで学者か文人みたい」(同上より)と映ったという。いずれも絵画を愛好するなど、趣味も近かった二人はウマが合った。そして、今でこそ埋立地に変わってしまっているが、当時は海が見渡せたこの稲毛の家で、犬を飼ったりしながら、比較的幸福な半年間を過ごしたようだ。

 溥傑の波乱に満ちた人生や、浩との海を越えた夫婦愛、長女の心中事件などについては、ドラマや映画や書籍で様々に描かれているようなので省略するが、溥傑自身が自伝の中で述べているように、溥傑の子供時代は孤独だった。礼儀作法にうるさい皇族社会では、肉親との間であっても距離を置かねばならなかった。家族の間でも、「今日はよい天気でございますね」といった堅苦しい挨拶が交わされていたという。そんな溥傑にとって、稲毛の家は「初めて家庭の味を味わった」場所であった。その幸福な新婚生活を、溥傑は毎日眺めていた浜辺の風景に例え、「穏やかで、素朴で、甘い、まるでさざ波が浜に打ち付けるような生活」と表現している。

北京の溥傑故居。溥傑は1961年から1994年までをここで過ごした。 北京に戻った後のある日、筆者はふと感じた。稲毛の新婚用の家は、庭が軽い斜面になっていて、当時は海に向かって開かれていた。歴史に翻弄され、政略結婚を強いられた溥傑だが、紫禁城や王府など、周囲を高い壁で囲まれた、閉鎖的な空間で幼年時代を過ごした彼にとって、稲毛の家はかなりのびのびとした開放的な空間に感じられたのではないか、と。

 その後、戦争や政治の荒波に翻弄されて離別を強いられた溥傑と浩だが、解放後の1960年に、戦犯として拘束されていた溥傑が特赦のため北京に戻ると、周恩来の計らいで再会が実現した。実に16年ぶりだったという。

 そんな二人が残りの人生を共に過ごした家が、今も北京の西城区にある護国寺街に残っている。以前ご紹介した梅蘭芳が晩年に住んだ屋敷からもそう遠くない場所だ。

 溥傑の死後、屋敷は遺族の意向で全国政治協商会議に寄贈されたため、現在その故居は全国政協の下の機関である「協力国際経済文化交流センター」のオフィスに利用されている。通常は参観不可ということだったが、特別に頼んで中を見せてもらった。中庭はそう広くはないが、増築などの痕跡のないすっきりとした典型的な四合院だ。建物の中はすでに改装を経ているが、建物そのものは昔のままで、中庭に植えられたなつめ、柿、海棠、ライラック、チャンチンなどの樹木も、溥傑夫妻が自らの手で植えたものを留めているという。

 意図的な計らいなのかどうか分からないが、同時に特赦で北京に戻った溥儀も、ここからそう遠くない東冠英胡同に住んだといわれる。撫順の戦犯管理所では兄弟で共に温室の植物を世話し、溥儀は北京に戻ってからもしばらく北京植物園で働いた。植物に造詣の深い溥兄弟は、日々成長する中庭の木々を眺めながらどんな会話を交わしたことだろう。それは、君臣の隔たりのない、自然な家族愛に満ちたものだったのではないか。生き証人である中庭の木々にちょっと尋ねてみたい気分だった。

◎参考文献:愛新覚羅・溥傑著『溥傑自伝』中国文史出版社、2001年。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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