連帯経済の面で一時は世界でも最も注目された国だったブラジルは、2016年に労働者党のジルマ・ルセフ大統領が弾劾されて以降、連帯経済側にとって厳しい状況が続いていますが、少なくとも一時期において連帯経済が連邦政府の公式政策として採用され、国内外で大きな反響を呼んだことは確かです。このブラジル式連帯経済について理論的基盤を築いた書物としては、執筆時に名門サンパウロ大学の教授で、その後ブラジル全国連帯経済局の局長に抜擢されて長年務め、近年亡くなったパウル・シンジェル(1932~2018)の「連帯経済入門」があるので、今回はこの本を紹介したいと思います。なお、ブラジル関連の過去の記事については、こちらをご覧ください。
- 連帯経済の精神的基盤としての「被抑圧者の教育学」─パウロ・フレイレの哲学に学ぶ(2013年3月15日)
- ブラジルの連帯経済 その1(2014年10月16日)
- ブラジルの連帯経済 その2(2014年11月1日)
- ブラジル連帯経済フォーラムの連帯経済憲章(2016年6月1日)
- ブラジルの連帯経済関係者へのインタビュー(2016年8月1日)
- ブラジルにおけるフェアトレード(2016年9月1日)
- ブラジルのコミュニティ開発銀行の現状(2020年8月1日)
この本は4章建てになっていますが、その中でも最も大切なのは第1章の基本編です。シンジェルは、雇用や商品の販売、また大学受験など全てにおいて競争が当たり前になっている現状の記述から始め、価格やサービスなどの点で最高の企業が生き残る点を長所として指摘しています。しかし、当然ながら競争には敗者がつきものであり、勝者が勝ち続けることにより勝者に有利な状況が形成されもはや逆転が難しくなったり、長期失業者や中高年の再雇用が難しくなったり、大学受験においても経済力のある家庭が有利だったりする状況をシンジェルは指摘し、そしてこのような格差が拡大を続け、さらに親から子ども、さらには孫へと継承されることも示しています。
このような状況への批判として、シンジェルは連帯経済を提唱します。たとえばどんなに高給取りの医師であっても、薬や病院などのインフラがなければその腕を振るうことはできませんが、そのインフラを支えるのは、掃除のおばちゃんやトラック運転手など、比較的低収入の人たちです。このような中で、連帯経済の原形ともいえる労働者協同組合では一人一票という形で企業経営に誰もが参加でき、組合員同士が協力する状況が描かれています。また、協同組合が主流の経済になっても、やはりうまく行く事業もあればうまく行かない事業もあるので、税金などの形で再分配を行い、富の偏在を防止しようと提案しています。さらに、資本家と労働者に分かれる資本主義企業では必然的に富の偏在が起きるので、その分離がなく、それにより給与格差のない、あるいはあっても資本主義企業よりはるかに小さく、そして株主に利益を配当するかわりに組合員の教育基金などに充てることができる、労働者協同組合を中心とした経済を夢見ていたのです。
さらにシンジェルは、資本主義企業における部署間の(たとえば製造部と営業部の間の)競争についても言及しており、ここでも(人数が少ないうちは全従業員が参加する総会で、人数が増えて全従業員の参加が難しい場合は総代に委任した総会で)民主的な運営のできる労働者協同組合の長所を強調しています。また、経営関係の情報がトップ経営陣に集中しがちで、平社員は自分の職責以外のことをあまり知らない資本主義企業と違い、労働者協同組合ではあくまでも一般組合員全てが情報を共有したうえで経営陣に対して経営方針の指令を行うというボトムアップ型の構造を持つことも力説しています。もちろん、場合によっては時代遅れの部門を廃止する必要もあるでしょうが、その際には廃止される部門で働く組合員の再配置について考え、組合員同士の連帯によりこの問題を解決してゆくのです。その一方、自分の職責に集中していればよい資本主義企業の従業員と違い、労働者協同組合の組合員は職責に加えて組合全体の問題にも気を配る必要があるので、その点で組合員側にも努力が要求される点を指摘しています(特に労働者協同組合による自主運営型経営という概念に慣れてない人が多い現状を踏まえて)。第2章では現在の連帯経済につながる歴史が、そして第3章では連帯経済の事例が数多く紹介されていますが、この連載や拙著「社会的連帯経済入門」をお読みになっている方ならお馴染みの内容なので、割愛します。
「現在と将来」と題した最後の第4章では、労働運動により20世紀中葉には少なくとも先進国では労働者が当たり前のように享受していた権利が新自由主義の流れの中で削られていったり、本来であればそのような流れに逆らうべき社会民主主義政党もそれほど逆らえていなかったりする現状が指摘されており、こういう現状だからこそ、特に各種市民社会の運動(環境保護や先住民の権利など)に加え、教会や大学、労組などと連動した連帯経済の復興が大切であると説かれています。また、連帯経済が単に資本主義の矛盾に対する処方箋の提供しかできていない場合、資本主義自体が深刻な危機に陥らない限り連帯経済にはあまり明るい未来が見えない一方で、生産者や消費者によい生活を提供する代替案になれば、そして消費者自身が環境や労働者に配慮した商品の消費を希望するようになれば、連帯経済が成長するだろうとシンジェルは予測しています。
この本は、シンジェルが連帯経済局長に就任する前(2002年)に書かれたものであるため、特に第4章における将来予測については、20年経過した現在の視点からだといろんなコメントをつける必要があるでしょう。以下、私見を記したいと思います。
- ルラ政権(2003~2010)は連帯経済が連邦政府からの支援を受けて順風満帆な時代であったが、その次のジルマ政権(2011~2016)になると大手マスコミからオンラインメディアに至るまで政権を攻撃する言論が強くなり、ジルマ政権の崩壊後のテメル(2016~2018)・ボルソナーロ政権(2019~)を通じて左派=悪、右派=善という単純な二元論が優勢になった。特に、連帯経済など社会運動側では支持者の多いパウロ・フレイレの民衆教育は、右派により危険思想視されるようになった。
- 前述の教会についてだが、特に福音派と呼ばれる新興宗教系がこぞって反左派になり、連帯経済にとっても敵と化した。
- 連帯経済局は貧困層への雇用創出に特化した支援政策を行ったため、連帯経済が本来目指していたそれ以外の目標、具体的には環境保護やフェアトレードなどの推進がおざなりになった。
- また、上記と関連して貧困層とのつながりがあまりにも強調されたため、中間層が連帯経済と関わる方法があまり提示されず(生産者としてのみならず消費者としても)、ブラジル社会全体の運動として幅広く認知されるには至らなかった(連帯経済=貧困層の経済という偏見ができてしまった)。
- ブラジルにも各種オルタナティブメディアは存在するが、そういうメディアにおいても連帯経済はほとんど報じられず、一部の当事者以外にはその存在が知られないままになっている。
最近の世論調査では、ルラ対ボルソナーロの対決になると見られている次回の大統領選ではルラの優勢が伝えられており、仮に来年ルラが大統領職に復帰した場合には連帯経済関係でも何らかの新しい方策が提案される可能性はありますが、個人的にはやはり、連帯経済がその再興を目指すには、やはり当事者が自分たちの世界に籠るのではなく、一般市民社会、特に潜在的に連帯経済を支援してくれそうな左派支持の中間層に強く訴えかけて、ブラジル経済の全体像を変革する手段として連帯経済を強く打ち出してゆく必要があるように思えます。