今回は、一見経済とは関係ないように見えるものの、連帯経済の思想的基盤づくりに大きな影響を与えることになったブラジルの教育学者パウロ・フレイレ(1921~1997)についてご紹介したいと思います。
◀パウロ・フレイレ(1921~1997)
彼は、ブラジルでも貧しい地域として知られる北東部のペルナンブーコ州の州都レシフェ市で生まれました。彼自体は中産階級の家庭に育ちましたが、特に1929年に始まった大恐慌の影響がブラジルにも及び、貧しい人たちの悲惨な生活を目の当たりにしたことから、その人たちへの識字教育に積極的に携わり、後述するような独自の識字教育法を開発します。しかし、1964年にクーデターが起きて軍事政権が成立すると投獄され、その後南米や欧州諸国への国外を余儀なくされますが、それにより彼の実践がブラジル国外にも知られることになり、実際アフリカのポルトガル語圏の国でも彼は識字教育に取り組むことになります。
さて、彼の代表作である「被抑圧者の経済学」(亜紀書房、2011)についてご紹介したいと思います。なお、この原稿作成時に日本語訳の本が手許になく、原語(ポルトガル語)から私が直接訳した表現をそのまま使うため、日本語訳との間で用語にズレがある可能性がある点についてはご了承ください。
ブラジルの中でも特にフレイレが生まれ育った北東部は、植民地時代からの階級社会構造が今でも強く残る地域です。大地主が非常に広い土地を保有し、安い賃金で奴隷(1889年の奴隷解放後は農業労働者)に農作業をさせる一方で自分たちは破格の収益を上げ、欧米の富豪にもひけを取らないような豪華な生活を送っていました。労働者たちの中には教育を満足に受けられずに育った結果、文字の読み書きもできない人が多く、社会的地位を上昇させる道が閉ざされていた彼らは刹那的な快楽に生きるしかなかったのです。ブラジルというとリオのカーニバルのような派手で明るいイメージを持つ人が多いと思いますが、その見かけの華麗さの裏には毎日の苦しい生活があるのです。
しかしながら、そのような生活に終止符を打って状況を改善させるためには、単に給料を増やしたり労働時間を短くしたりするだけでは十分とは言えません。意外かもしれませんが、物心がついたときから奴隷生活しか知らなかった人は、そもそも自分自身で自由な生活を送ることを知らないので、そのような自由を恐れたりします。奴隷生活は確かに厳しいものですが、主人の命令さえ聞いていれば自分自身で自主的に決定する必要はありませんし、最低限の生活は保証されます。その一方で自由を獲得すると、そこから先は自己責任で人生を切り開かなければなりません。そういう意味では長時間労働に文句を言いながらも大企業に勤め続ける日本のサラリーマンとブラジルの農場の低賃金労働者は、似たような存在かもしれません。また、自由と隣り合わせの不安感について書いているあたり、フランスの作家・哲学者ジャン・ポール・サルトルの有名な台詞「自由の刑」を彷彿とさせます。実際、「被抑圧者の教育学」が執筆された時代はサルトルの実存主義が流行していた時代であり、その影響があったと言って差し支えないと思います。
さて、このような奴隷生活にピリオドを打ち、自由の道を歩むためには何が必要なのでしょうか。「神話的」(思い込み)、「疎外的」、「ニセの事実(への逃避)」、「主観的」かつ「運命論的」な派閥化ではなく、「批判的」、「解放的」、「取り組み(仏語ならアンガージュマン)」、「客観的」および「自らの将来の創造者」となる急進化が必要だとフレイレは語っています。派閥化ではその派閥内だけの論理に支配され、各個人が主体的に自らの状況について考えることはできませんが、そうではなく現状を判断できる知識と判断力をつけ、偏見から自らを解放した上で、自らの向上のために積極的に動く人になることが、真の自由を獲得するには欠かせないのです。フレイレはこのあたりの状況を端的に、「実際のところ、被支配階級が批判的な方法で社会的不正義を知覚できるような教育方式を支配階級が開発するのを待つのは、非常におめでたい態度であろう」と表現しています。
次に大切なこととして、抑圧者と被抑圧者という対立軸の克服です。社会状況の変化などでこれまで被抑圧者だった人がその抑圧者から解放されると、新たに実権を握ったその人自身が抑圧者へと脱落してしまうことは珍しくありません。大切なことは個人としての抑圧者を叩くことではなく、むしろそのような抑圧者が必然的に生まれてしまう社会的不正の構造に対して義憤を持ち、その克服=社会的進歩に対して一緒に歩んでいく態度を身につけた上で、自分自身の中にもある抑圧者性を認識することです。
このような前提を踏まえて、教育そのものの改革へと話が進みます。ブラジルでも日本同様、基本的に学校では生徒は自分の関心の有無に関わらず、先生が授業で説明する内容をひたすら受動的に吸収することに集中する一方、その内容について批判的な検討を行うことはできません。そして、その吸収率が高い=試験で好成績を上げると「優秀な生徒」として褒められます。フレイレは、このような教育を「銀行預金型教育」(まるで銀行にお金を預けるように、先生が生徒の頭に知識を授けるシステム)と呼び、このように生徒の主体性を全く尊重しない知識詰め込み型教育を批判した上で、その特徴として「分割統治」(被抑圧者の間で対立を生むことで団結を阻み現状の支配体制を維持)、「情報操作」および「文化的侵略」(抑圧者の文化のほうが被抑圧者のものよりも優れているという考えの植え付け)を指摘しています。
◀「被抑圧者の教育学」(日本語新訳版)
それでは、どのような教育をフレイレは目指したのでしょうか。彼の教育手法は常に、現実に存在する問題認識から始まりました。たとえば、文字を読めない農民に識字教育を施す場合、その農民が興味を持つとは思えない古典文学を読ませるのではなく、あくまでもその農民の生活を観察した上で、種や土、水や実など、農業に直結した単語を通じてアルファベットを教えるわけです。
また、フレイレが提唱した教育では対話性が強調されます。学生は先生が話す内容を単にスポンジのように吸収するのではなく、その内容を批判的に検討し、自らの不完全性に加え、学生の自由を制限している要素を認識し、その克服に向けた方策を教師と学生が一緒に考えるわけです。先ほどの農民の例で言えば、生産性の低さや環境汚染などの問題に加え、大土地所有制による階層社会構造を認識した上で、その解決のためには具体的に何が必要なのかを一緒に検討してゆくわけです。具体的には、以下の4つのステップを経ることになります。
ステップ1:学生の生活スタイルの認識(仕事、余暇の過ごし方など)
ステップ2:教師と学生の対話による現状認識
ステップ3:問題構造の解釈
ステップ4:研究成果の体系的整理
さらに、先ほどの抑圧的な教育と比較すると、この教育は「協働」、「解放のための団結」、「組織結成」および「文化的統合」が特徴であるとフレイレは指摘しています。自由な生活という大義の下でいろんな人が団結して組織を結成し協働することで、抑圧者のエリート主義的文化ではない別の文化が生まれてゆくわけです。
パウロ・フレイレはブラジルの社会運動全体に大きな影響を与え、社会運動家のうち多くがその後連帯経済に関わるようになりました。ブラジルの連帯経済が特に活発な理由の一つとして、このような思想的・文化的基盤があることを認識した上で、日本においてどのように応用してゆくかについて検討してみることも大切ではないでしょうか。