筆者は定期的に中国語のニュースサイトをチェックしているのだが、その際に主に依拠するのは香港・台湾・北米のサイトだ。本当は大陸メディアもきっちりチェックすべきなのだが、その解読には独特の方法論を要するため、事実を明確に知りたい場合どうしても後回しになってしまう。もちろん、報道が中国国内の文脈でどう展開されているか知るために中国国内メディアをチェックすることはあるのだが…。
発見した途端、目がテンに
そんなわけで、なかなか中国大陸のメディアを参照することの少ない筆者なのだが、4月下旬のある日、中国のポータルサイト「網易」の中に以下のような記事を発見して驚いた。
「人民日报:WiFi、iPhone等外语词伤害汉语纯洁性」(人民日報 “WiFi、iPhone等の外来語は中国語の純潔性を損なう”)
人民日報からの転載記事なのだが、改革開放以前ならともかく、今は21世紀に入って13年も経過した2014年。我が目を疑った。記事は「グローバリゼーションと情報化の進展に伴い、外来語の使用が広がってきた」ことを前提として認めつつ、中国語の文章の中でiphone、ipad、WiFi、CEO、MBA、CBD、VIP、PM2.5のように「翻訳ゼロ」の英単語がそのまま中国語の文章の中で使われる事例が増えてきているとしており、これに懸念を表明している。
中国語にリテラシーのない方のためにここでちょっと注釈を入れると、中国語では西欧語の音をそのままある種無理やり中国語の音に当てはめて(無理矢理という意味では日本語のカタカナ表記もそうなのだが)、音訳する傾向がある。“诺基亚”(Nuòjīyà、ノキア)“摩托罗拉”(Mótuōluólā、モトローラ)などといった具合である。人民日報はそんな”伝統”があるというのに、なぜそれに則らずに、そのまま英語表記を中国語文章の中に挿入しているのか、と文句をつけたのである。
◀活字版の人民日報海外版では外来語使用は若干減少しているように見えるが…
同記事は続けて、このような現状の背景について、識者のコメントを引用して分析したのだが、それはまず西洋文化の優位性である。改革開放、さらには2001年のWTO加盟後はグローバリズムが支配的な中、中国国内においても国際的な言語接触は増えたが、どうしても西洋言語が長年の優位性を基に中国に浸透していく度合いのほうが大きく、中国から西洋のように輸出される語彙は少ないとしている。加えてアルファベットで表記される英語をはじめ西欧語の方が短縮しやすいとの意見も紹介している。
さらには経済的な事情も関係しているようだ。国際的な接触が増えていく中で、英文をはじめとする西欧語から中国語への翻訳の量も圧倒的に増加したが、これと反比例するかのように翻訳料金は減少傾向にあり、こうした悪性の市場競争により手抜きの翻訳がまかり通っているとも指摘している。
しかしこうした状況を踏まえつつも同記事は、現状を是正し、「経済的な実力に付随しているはずの中国人の文化的な自信を表明するために」、E-Mailを中国国内では伊妹儿(yīmèir)との表記で定着させた事例を踏まえつつ、中国国内の主流メディアにおいては外来語を退潮させ、「中華人民共和国国家通用言語文字法」を順守して出来る限り中国語の表記に切り替えていくことを結論として主張している。
予想通りかなりの反響
この記事を読んだ時筆者は「こりゃ議論を呼びそうだな」と思ったわけだが、案の定、ネットを中心に海外メディアも含めてかなりの反響を呼んだようだ。筆者の記憶にある限り、真っ先に反応したのは香港サウスチャイナ・モーニング・ポスト(SCMP)紙英字版の“Beijing’s call to ban foreign words in Chinese media meets with mocking satire”(メディアにおける外来語使用自粛の呼びかけ、市民に皮肉をもって迎えられる)と題する記事。この中でSCMPは先の人民日報記事を紹介した上で、中国版ツイッター”微博”に「中国語の純潔性を守るために」と皮肉たっぷりの語調に富んだタイトルで専用スレッドが立ち、わずか数日間で130万件以上の書き込みがあったことを紹介。その中で「『VIPラウンジにはどう行くのか』という文章をVIPという言葉を使わずどう言えばいいんだ?」とか「毎日私達を苦しめているPM2.5、これを他の言葉でどう言えって言うのか?」といったネチズンの戸惑いや不満を紹介している。
さらに苦言を呈したのはSCMPのような”海外”メディアだけではない。活発かつ批判的な報道で知られてはいるが、いちおうは中央宣伝部の傘下にあるはずの国内メディアである「財新網」も英文版で “What to Make of State Media’s War on Acronyms?”(国営メディアの英略語をめぐる戦いはどうなっているのか?)と題する記事で、当局による外来語統制の意向を突き上げた。
この中で筆者のYuGeは、SCMP同様に、中国国内のネット社会において今回の当局の意向がかなり皮肉を持って受け止められていることを指摘した上で、中国語の”純潔性”に疑義を呈した。YuGeいわく、中国語で横丁を意味する「胡同」(hútòng)だってモンゴル経由の言葉だという。また清朝末期の大思想家、張之洞が、当時「健康」(jiànkāng)という言葉を使った弟子を咎めたのは、この言葉が日本語経由だったからだとされているが、今日この言葉に違和感のある中国人がいるだろうかとYuGeは指摘している。このYuGeの疑義は言語・文化とは最初から純粋なものではなく、混成的なものなのだという考え方に根ざしているように思える。
以上のように英語による反応を紹介したのは、たまたま筆者の目についたのが英語の文章だったことによるだけのことで、中国語の文章でも反論を主張したものがあるはずだが、おそらくはそれこそ中国当局の意に反して英語での方が反論しやすかったことは想像に難くはない。ただこれら2つの記事が紹介しているように、英語のリテラシーがそう高くはない中国の一般ネチズンの間でも今回の当局の意向表明には違和感があったことは間違いないと思う。
5月上旬、中国当局が目の敵にする英語だけではなく、日本語の使用について「百度」に掲載された「离开日语词中国人能开口说话吗?」(日本語の語彙なしで中国人は会話できるのか)と題した4月30日付の文章を筆者は発見した。この中では西欧語を漢字語に翻訳した明治時代の学者・西周(にしあまね)に焦点が当てられ、中国のいわば根幹にあたる「革命」も日本から輸入された単語ではないかとして強調表記されている。この記事には5月末現在も100件以上のコメントが寄せられており、その中では例によって日本に対する事実誤認も時に見られるが、やはり原則論的には罵倒語などの口語はともかくまともに話をする場合、日本語経由の語彙なしでは会話はできないのではないかというトーンに貫かれているように筆者には思える。
中国当局の狙いも分かるが…
こうした反響が予想のほか大きくなったためなのか、中国当局は少なくともネット空間においては、この外来語使用自粛を強行してはいないようである。筆者も最初の人民日報の記事を見て以来、時々中国国内オンリーのネット空間で、特に当局メディア上でどの程度外来語使用が自粛されているのかチェックをしてみているのだが、しかしネットで見る限り依然としてiphone、wifiなどの用語は人民網などでは依然使われているようではある。
ただし、近所の公立図書館に届く人民日報海外版を見る限り、英単語を織り交ぜた文章を使った記事は一日あたり1〜2件程度に留まっているので、あるいは活字化された新聞に関しては外来語の使用を自粛する方針が実行に移されている可能性はある。ただ、それも人民日報海外版に関して言えば記事数そのものが少ないので断言はできない。いずれにせよ、当局メディアにおける外来語使用を抑制するという方針は当局の中にあることは確かであろうが、ネット空間のみならず、各メディア関係者からもおそらく抵抗はされており、中国当局はそれも織り込み済みでアドバルーンとして打ち上げてみただけなのかもしれない。しかし、アドバルーンであるとしても、なぜそれをこの時期に打ち上げたか、ということは真面目に考える価値はある。
これを考える状況証拠としては、習近平政権成立以降、メディアに対しては特にこの半年~1年間、言語の使用のみならず、様々な引き締めがなされ、メディア幹部養成機関たる各国立大のメディア学科ではマルクス主義的報道観の復活なども提唱されていることが挙げられる。ネット空間では影響力のあるブロガーなどが別件逮捕される事態も相次いでいる。また言語に関して言えば、広東省だけだが、同省の共産党員間では、老板(lǎobǎn=社長)、老大哥(lǎodàgē=アニキ)などの俗称を禁止する措置が通達された。これは香港からの影響力を排除する意向もあるとみられる。
おそらくこれら全てから共通して抽出できるのは、今の中国の指導部が社会を内側に向け引き締めようとしていることではないかと思う。現在の日本の空気から見れば、それはナショナリズムということになるのだろうが、しかし筆者自身は実はあまりそうは思わない。なぜなら中国が全土規模で、例えば日本のような凝集力の高い「国民国家」になったことはないためだ。ただし2014年の現時点では、そうなるための条件は揃ってきており、ここにおいて初めて中国に近代以降の文脈での国家というものが遅ればせながら誕生する可能性が生まれてきているのではないかと思う。
◀押し寄せる外来語に中国は果たしてNoと言い続けられるだろうか
そう考えると、中国当局が主流メディアから外来語を排除したい意向も分からなくはない。確かに「文化帝国主義」と呼ばれるように西欧の文化的影響力はグローバリゼーション下の現在拡張する一方ではあり、意図的に制御しなければ歯止めの利かないものであることも分かる。しかし、にもかかわらず筆者としては、あまり積極的に賛成する気にならない。
それは戦前日本の野球においてストライクを「よし」、ボールを「ダメ」というふうに表現を変えた歴史を思い起こさせる。しかしそれは周知のように戦後には元の言い方に戻った。この事実、つまりすでに日本文化になったとも言える野球で英語での表現が欠かせなくなっているように、言語とは最初から純粋な形で存在するものではなく、その時々の状況において様々に外部ファクターを取り入れながら生成していく混成的なものであるはずで、一民族一言語一国家という、国家当局の作りたがる神話とは対極にあるものだ。筆者はこの点確固としてそう信じており、先に挙げたYuGeの主張に賛成したいところだ。
周知のように、東アジア各地域ではいまだに国家をめぐる問題は完全には解決しておらず、欧州のような実験には踏み切れない。そこでは市民社会からの働きかけよりも指導部によるある種の強行といった事態も見受けられる。これは先に挙げた中国だけではない(と書けばどこのことを指しているかお分かりだろう)。もしもそんな各地域が一斉に言語の純潔性を守るために”外来語”を一斉に排除し、「固有の言葉」だけしか使えなくなったとしたら…。想像してみるのも恐ろしい。