▲中国動画サイトyoukuにアップされた半沢直樹
加倍奉还(jiābèifènghuán)=倍返し
「やられたらやり返す、倍返しだ!」
この表現は中国語圏では「人若犯我,加倍奉还」または「以牙还牙,加倍奉还」と訳出されています。「人若犯我」は「他人が自分を犯すならば」、「以牙还牙」は「目には目を、歯には歯を」ということです。「加倍」は「二倍にして」、「奉还」は日本語の「大政奉還」でも分かるように、目下の者から目上の者へ「お返し申し上げる」という意味。実にうまい訳出だと思いますよ。ちなみに「十倍返し」「百倍返し」は「十倍奉还」「百倍奉还」といいます。
おなじみのセリフだが、このフレーズをこうして自分の授業で使うようになるとは思わなかった。テレビも普段から見といてよかったと思った次第である。
なぜ中国語とは一見関係なさそうな、こんなセリフを引っ張りだすようになったかといえば、このドラマ『半沢直樹』の日本での本放送が始まって間もない昨年2013年秋には早くも中国大陸にもこの言葉「倍返し」が浸透し、都市の一部若年層を中心に定着し始めていたからだ。しかし、この時点では中国大陸では公式には『半沢直樹』はテレビ放送されていないはず。なぜ放送されてもいない日本ドラマのセリフが中国大陸に定着していったのだろう。
実はそのからくりは、日本や東南アジアの文化を台湾が中継していくという東アジアの漢字語圏、もしくは中国語圏で言語が流通する最近のパターンを見事に踏まえているといえよう。『半沢直樹』を中国語圏で一番最初に放送したのはご多分に漏れず、台湾の日本語専門ケーブル局で日本での本放送開始約2カ月後のタイミング。今中国や台湾で流通している上記の表現はこの時の放送で付けられた繁体字中国語字幕を基にしていると思われる。現地報道や日本の新聞報道などによると、放送直後からサラリーマン中心に台湾では反響や共感を呼び、コンマ数%で競争になる視聴率競争で2%を維持。放送局の少ない日本の感覚ではこの数字はあまりピンとこないが、ケーブルを入れて100局以上がしのぎをけずる台湾では驚異的な数字だ。後追い的に現時点からYoutubeなどの動画サイトで見てみても、この台湾での『半沢直樹』現象をかなりの数のニュース専門局が「報道」として取り上げていたことが見て取れる。また総合誌や新聞などでも次々に『半沢直樹』特集が組まれた。
ではなぜこの台湾の熱気を情報流通に制限があるはずの中国大陸も共有するようになったのだろう。そこには、インターネットをはじめとするテクノロジーの進化が大きく作用した。Youtubeには日本での『半沢直樹』放送中から、台湾人ユーザーによる中国語字幕付きの映像が少なくとも数百件単位でアップロードされていた。そのほとんどの”元ネタ”が前述の台湾のケーブルテレビで放送されていた字幕付きのいわば台湾版である。中国国内からはYoutubeなど欧米発メディアの視聴制限がかけられているとされているが、中国でちょっとパソコンにリテラシーのある若年層ならVPNなどを使って「壁越え」(海外へのアクセスを禁止するグレート・ファイアウォールを越えること)することは常識であり、これによって多くのネットユーザーがYoutubeなどにアップされた繁体字版にアクセスしたと考えられる。ただ中国国内の動画サイト”youku (优酷)”などを見てもかなり早い段階でこの作品が簡体字版字幕付きでアップされてもいるので、例えば日本国内で見ていた中国人が直接別個に字幕をつけて動画を上げていた可能性もあり、台湾経由でのみこの作品に接触したとは断言はできない。しかしこの簡体字版の字幕の表現が台湾・繁体字版と酷似していることや、留学生などに話を聞く限りでは、やはり台湾でいち早く字幕付きでこの作品が放送されたことが、ネット経由で中国人の流行に敏感な層を刺激したということは言えそうだ。
◀中国「ウェイボー」での半沢関連書き込み(画像をクリックすると拡大します)
かくして中国版ツイッター「微博」でこの”加倍奉还”を検索してみると、この言葉を使った書き込みはクロスポスト(同じ投稿のコピーアンドペースト)も多々あるが、今や数としては360万件以上に及んでおり、すでにある種の流行語として中国大陸に定着したとも言えるのではないか? この言葉が広まった背景としては──もちろん台湾はすでにそうなっているわけだが──、中国にもすでにいわゆるサラリーマン社会が広く形成され、その中で展開される不条理さや人間模様が共感を呼んだということも言えるかもしれない。また高級幹部やホワイトカラーによる汚職などの不正が構造的に根絶されないことも、「包青天」(中国版大岡越前)などがもともと人気の高い中国で、この勧善懲悪作品への共感度を高めている可能性もある。微博で『半沢直樹』続編に期待する書き込みは多く個人の経験値のみで判断するのは危険だが、続編に期待する声は日本より中国の方で大きいのではないか、とすら思えてくる。ほかにもこの作品の放送を中国のテレビ局が決定したという情報もあり、それが本当だとすると”表ルート”つまりネット経由などではない形で中国人が見る日も近いということになる。
21世紀に入り、日本、中華圏、韓国でナショナリズムの動きが高まっているとされている。確かにそういう側面もあるが、一方で社会・民間の間では『半沢直樹』の事例が示すように例えば言語が国家の意志とは関係なく流通している一面もあると思うのである。特に中国・台湾・香港の間では、それぞれの経済レベルが近づいていくにつれ、摩擦を生じつつも、それぞれの地域の特色を持つ中国語単語の流通や平準化が進んでいるのではないか。また同じく漢字を共有する日本も、今回の事例が示すように、そのような言語流通の発信源になっている場合もある。その速度や空間の広がりは、テクノロジーの発達に助けられて、日本に漢字が入ってきた近代以前や、中国が日本発の近代語を逆輸入し始めた20世紀初頭とは比べ物にならない。本連載ではそうした近年の言語流通の現状を具体的な単語などを事例に紹介していきたい。
筆者=本田親史(ほんだ・ちかふみ)
1990年東京外語大中国語学科卒後、報道機関、私立大学院などを経て明治大学、神奈川大学等講師(中国語・中国社会論等)
(注:著者プロフィールはサイドバーからも確認できます)