私の本棚発掘

第11回

茅盾主編『中國的一日(中国の一日)』(中華民國二十五年〔1936〕九月、上海生活書店)

『中國的一日』の書影『中國的一日』の書影

 本書の編集委員には編集長の作家・茅盾を初め錚々たる知識人11人が名を連ねている。筆者が所持しているのは香港の神州図書公司から再版されたもので、再版の期日は定かでない。
 本書では、巻頭に北京大学校長を務めた著名な教育者、政治家の蔡元培の序があり、次いで編集長の茅盾が出版までの経過を説明している。本書は、1936年5月21日に中国各地で何が起こっていたか、投稿者が何をしていたか、何を感じていたかを広く一般民衆に呼びかけ投稿してもらったものだ。なぜ5月21日に特定したのかの説明はないが、編集長の茅盾は、「五月二十一日」は国内、国外の読み書きが出来、祖国の運命に関心を寄せ、この危難の関頭にある祖国の真実の姿を切に知りたいと願う中国人の心をかき立てたと書いている。
 中国ではこの投稿が呼びかけられた前年の1935年には、4年前の満州に次いで河北省東部に日本の傀儡政府・冀東防共自治政府が作られ、12月には北京で大学生による大規模な12.9反日デモが行われていた。内モンゴルにも日本軍による支配の動きが強まっていた。そして翌年、1937年7月7日には、蘆溝橋事件を発端に日本は泥沼の日中戦争へとのめり込んでいった。華北を始め各地では日本によるヘロインなど麻薬の密輸、販売が横行し、日本製品の廉売もあり中国の社会、経済状態は危機的な状況に陥っていた。このような中国全土を覆う状況が茅盾の言う危難の関頭という言葉の意味だろう。
 投稿は字数で600万字以上、本数で3000篇以上に上り、本書ではこれを字数では約80万字、本数では490篇ほどに厳選した。それでも字数では予定の最高字数を10万字も上回ったという。 投稿者は新疆、西康省(四川省西部からチベット東部に設けられていた省)、チベット、内モンゴル地域を除く中国全土に及び、職業も学生、生徒を含み多岐に渡った。満州、冀東防共自治政府の支配地域も「失われた土地」として扱われ、日本、香港など海外居住者からの投稿もあった。女性の投稿は4%に止まり、本書ではほとんど採用されていない。有名人では中国共産党の創始者の陳獨秀も短い感想文を投稿している。
 編集に当たっては、投稿の配列を内容別にするか、地域別にするか悩んだということだが、全国の状況を見渡す必要があるということで地域別に落ち着いたと茅盾は述べている。 このコラムでも本書の編集方針に従い地域別の紹介にした。
 本書には、投稿のほか、5月21日当日の全国の概観、重要な出来事、当日の各地の新聞の主な見出し、当日上映されていた映画、上演されていた演劇、それにラジオの放送項目なども収録されているが、このコラムでは割愛した。
 本書には通しのページ番号が打たれていないが、筆者が数えた所では全800ページ以上、二段組みの細かな字でびっしり印刷されている。不鮮明な部分も少なくない。特に写真や挿図はほとんど何が表現されているか判別できない。コラムでは出来るだけ多くの投稿を紹介するため、投稿の核心部分を内容を損なわない範囲内で可能な限り圧縮して訳出した。

南京市(首都) 仁丹(二人の投稿者が文と絵をそれぞれ担当)

《挿絵》仁丹の旗の立った商店《挿絵》仁丹の旗の立った商店

「ご主人、21日は縁起のよい日だぜ。この日には大もうけができるんだ。東洋貨(日本の品物)はあまり売れないなんて思っちゃいけないよ。今は確かに何の問題もない、ここに二箱置いていくよ、全部で百包みだ。21時間内に売り切れると請け合うよ。宣伝の旗も置いていくよ、綺麗だろう。」
私が顔を洗って窓の前に座ると向かいの小さな商店からこんな話し声が聞こえてきた。話しているのは北方の若者で、数箱の仁丹を手にし、店の主人に売りつけているところだった。主人は乗り気なようにも、怖がっているようにも見えた。
 主人「本当に売れるのかい。東洋貨は禁止じゃないのか。それに家では元手がなくてそんなに沢山仕入れられないよ」
 若者「売れないなんてことないさ。これは老舗の東洋仁丹で、中国の品に比べずっとすごいんだぜ。それに禁止だなんて、仁丹は救命の良薬だ、禁止なんてできるものか。百包み置いていくよ。金は売れたころに取りにくるよ」
 若者は広告の旗を店の前に立てかけ、去っていった。主人はさようならと言い、箱を開け数回仁丹の匂いを嗅ぐと棚の上に並べた。
 そこへ一人の広東人が通りかかり、仁丹の旗をみると、「淫(仁)丹東洋火(貨)」ってことかと嘲りの言葉を吐いた(ネットで「森下仁丹百年物語」を検索すると、仁丹は1900年代初めから中国での販売を始め、中国全土へと販売網を広げていったとある)。

上海市 子どもたちの叫び

 小学校の社会科の時間。子どもたちが「……密輸……東洋をやっつけろ………楊司令」などと叫びながら教室に入ってきた。密輸とは華北一体で横行していた日本によるヘロインなどの密輸、楊司令とは東北抗日連合軍の指導者・楊靖宇のこと。私(教員)が圧東洋(抗日)の最近の情勢を紹介しようと言うと、十数個の突き刺すような視線が私に向けられた。「敵軍は昼夜を分かたず政府に電報を打ち、軍の増派を要請している。すでに一個師団が吉林に到着した、それに新兵器も……」
 子どもたちは「2個師団がきても怖くない」、「新兵器…それより一番強いのはゲリラ戦だ」、「僕らは小日本人に扮装して敵情を探ってやる」なとど口々に叫んだ。彼らが話題になった抗日少年英雄の最近のニュースを聞かせてくれとせがむので、最近のことはよく分からない、新聞の報道がないからと答えると、彼らは「敵とぐるになって僕たちを騙しているんだ、漢奸(民族の裏切り者)だ」、「漢奸を打倒せよ」と大声をあげた。
 一人が「上海に少年兵の兵営があったら、僕は勉強を止めてそこに行くよ」と発言すると、我も我もと同調する声があがった。一人が、そうしたらきっと親が連れ帰るよと言うと、親を騙せばいい、親と逃げる奴は漢奸だなどと声をあげ、ある者は机の下で「逃げる奴はこうだ」とピストルで撃つ構えを見せた。

一日の活動(投稿者は兵営で集団生活を送っている若い軍人のようだ)

 5月21日の早朝、広場で行われた抗日集会に参加。悲壮な軍隊ラッパに起こされ、朝食を急いですませ、隊列を組んで広場に向かった。あっという間に老若男女が広場を埋めた。
 「同胞諸君」主席が呼びかけた。
 「我々中国はすでに生死存亡の関頭に至った。敵の侵略の目標であるいわゆる“大陸政策”とは、我々中華民族を葬り去ることにある。……我々の国家が彼らの土地に変わり果て、我々の同胞が彼らの奴隷になって初めて敵は戦争を止める。奴隷になりたくない同胞よ、我々は共に立ち上がり、共同の敵に宣戦しよう」
 呼びかけに応え一人の青年が演壇に立った。「友人の皆さん、我が家はこのほど××の鬼にめちゃくちゃにされた。私は、元は東北の×地の者で、東北が占領されたあの年に、私の父は敵に連れ去られ重労働に従事させられ、今に至るも行方が分からない。姉は漢奸にさらわれ強姦され、母と弟は四散し、私だけが虎口を脱し生き延びた。……現在、河北も東北に継ぎ喪われたという。敵は侵略に厭くことがなく、我々一人ひとりを妻子離散の亡国奴にしようとしている。奴隷になりたくない人たちよ、起ち上がれ!」その青年の目からは涙があふれ、「我々一人ひとりが力を振り絞り、帝国主義と国を売る裏切り者と命を賭けて戦おう」と締めくくった。しばしの沈黙を破り子どもの声で「×洋人を打倒しよう」という叫びが上がった。声の主は四、五歳の子どもだった。
 「起て、起て!奴隷になりたくない人たちよ!……」(人民義勇軍行進曲、現在の中国国歌の歌い出しの部分)。我々大隊と民衆は声を和して歌った。これこそ正にこの時代の活力の源だ!

ある紡績工場の出来事

 私は中国人経営の紡績工場の労働者だが、去年、労働時間が一日14時間から16時間に増やされた時のことを思い出す。ある朝午前10時頃、工場側は突然「暫時毎日労働時間を2時間延長し16時間にする」という通知を貼り出した。工場の全労働者は直ちにモーターを停め、機械の運転を停め、工場内の空き地に集合し、工場側に通知の撤回を要求した。工場長らは労働者側の動きを予期していたのか、ピストルを腰に下げた用心棒、検査官、警官などを伴って我々の前に現れ、工場長が報告を行った。「君らは労働時間の延長に踏み切った我々の苦衷を理解して欲しい。君らは外部で我々の工場が閉鎖になるだろうという噂を聞いていないか。それは事実だ、なぜなら日本製品が値下げ販売をおこなっており、中国製品の販路を奪っているからだ。日本の工場の製品と競争するのは至難なことだ。そこで皆さんに2時間の労働強化をお願いしたのだ。君らは日本人を憎まないのか?反日愛国になろうとしないのか?日本人は中国の紡績工場をやっつけよぅとしており、君らは仕事がなくなる。ここで工場に協力しコストを下げ、中国の労資合作の団結精神を示そうではないか。それは日貨に抵抗し中国を救う愛国行動なのだ。諸君の協力がなければ工場閉鎖しかない,第二の道はない」と言った。労働者の中からは反対だ、協力はしないなどの声が上がり、中には「我々を牛馬のように扱うのか?牛でも16時間畑を耕さないぞ」と叫ぶ者もいた。
 結局のところ、彼らの「愛国行動」への誘引と「工場閉鎖に伴う失業」の脅しに暫時労働強化に協力することにしたが、数ヶ月後、やはり日本の工場との競争には勝てず工場閉鎖になった。
(投稿者はその後日本人経営の工場で働くことになった)しかし、そこでも低賃金で16時間労働だった。なんとそれは中国人経営の工場を見習ったものだった。ましてや日本の工場の高速度の新式機械のもとでは、少しも気をゆるめることができず、精力、体力を使い果たし、勤務時間後は体中が硬直して痛み、寝ていてもゴウゴウという機械の音が耳の中で鳴り響くしまつだ。少しでも工場の規則に違反すれば、労賃を支払われず、解雇される。今日5月21日にも4人が解雇され、二人が遅刻などで一週間の雇い止めになった。我々は牛馬以上の奴隷になってしまった!

監獄からの手紙

 (手紙は受刑者が靴下と冬用の帽子で看守を買収し、郵送してもらったのだという。手紙が届けば誠実な看守に感謝とある)以下手紙の内容。
 「五月にはメーデー、五四運動の記念日があり、革命の月だ。監獄当局は五月一日に正式に戒厳一ヶ月を宣告した。囚人と外部の親戚友人との接見、手紙、本、新聞の差入れも停止、毎日20分間の室外の散歩も取り消された。我々は数日間獄舎の壁を叩いて通信する‘室電話’で、我々の刑房で五四の当日、抗議のハンガーストライキをすることに決めた。飯はいらない!ハンストで戒厳令に反対し、××帝国主義に反対する、“起て……”の歌声が監獄中の奴隷たちを覚醒させた。……腹が減って顔の上のシラミを捕る力もないが、震えを帯びた叫び、悲壮な歌声が絶えることはなかった。我々は知っている、革命の五月に当たって世界で、特に血と涙に満ちあふれた中国、正に××によって領土を切り取られつつある中国で、我々の数千数万の兄弟姉妹たちが困苦の環境の中で、滅亡せんとする祖国のために、抑圧された民族のために、彼らの最後の一滴の血を流し、救亡の革命運動を行っていることを。……我々のハンストは延長し二日二晩続いた、苦難を共にする英雄的な青年たちは、みな皮の鞭の拷問で血を流している、……我々は真っ赤な血の中で、飢えた怒号の中で、我々の部分的な勝利を勝ち取った。……六月の初めには接見にきてほしい、何冊かの書物も一緒に、書物は監獄の中では生命と同様に尊いものだ。……監獄の中での死亡率は夏に一番高くなる、去年は一夏に200人の獄中の仲間のうち21人が死んだ。当然健康には十分に気をつけなければ、生命を保つことがとても重大な意義を持っていることを知っているから」

江蘇省泰県 突き返された贈り物

「突き返された贈り物」の文面「突き返された贈り物」の文面

 (前書き)今朝、一通の手紙を受け取り、長い間心に残り離れなかった。手紙は偶然の産物でもなく、ましてや痛痒を感じない瑣事ではないと感じるからだ。それは大多数の子どもたちに共通する断片であり、涙なしに、同情の心なしでは読めないものだった。以下、手紙。
 親愛な胡先生。昨日の朝会であなたから贈り物をいただきました。私たちの同級生にとってとても貴重な贈り物―衛生の重要性についてのお話でした。最後に先生は「皆さん、自分の体を大切にするように、今日の話は皆さんの両親など身近な人にも伝えるように!」と言われました。あの時、あなたは僕の顔が恥ずかしさで赤くなっているのを見ませんでしたか?僕はどこかに隠れたかった,同級生をまともに見ることもできず、頭を垂れたまま涙を目にため、あなたの訓話を聞いていました。あなたの話は僕だけに向けたものではありませんせしたが、僕は平常確かに衛生に無頓着でした。
 (家に帰ってこの子は両親に先生の話を伝え、いくつかの改善点を提案した。家は北向きで一年中陽が当たらない、南側の壁に窓を開けてほしい。床の湿気がひどいので床板を張るのがよい。出入り口に不潔なゴミが山のようだ、北風が吹けば臭気がひどいし、汚い灰燼が吹き込んでくる、これから暑くなるので絶えられない臭気がする、家の前にゴミを捨てるなと立て札をたててはどうか。隣の便所の臭いや蠅がひどい、先生は夏には蠅がもとで伝染病が流行ると言った、お父さんから隣家に注意してほしい。自分には歯ブラシもない、タオルが不潔で体のおできが増えてきた、おできの薬を買ってほしい、などなど)。
 先生、僕はまだまだ言いたいことがありました、でもお父さんの顔色が変わり、目つきもおかしくなったので止めました。お父さんは、お前の言うことは正しいが、全てできないとゆっくりした口調で答えました。(理由は全て貧乏、金がないということに尽きた)そして「お前はまだ幼くて家の困窮がどんなものか分かっていない、お前らの先生が言うことは当然とても正しい。だがお前がさっき言ったようなことは俺たち貧乏人にできることではない。金持ちの家の子には衛生を語る資格はあるけれどもな」言いました。
 胡先生、その時父の目は赤く、喉がぴくぴく震え、母は顔を背け、下を見ていました。僕は彼の言うことが胸に刺さり、涙がぽろぽろとこぼれました。……親愛な先生、昨日あなたが僕に下さった贈り物にはとても感謝します。でも今それをお返しします、なぜなら僕は貧乏な家の子で、衛生を語る資格のない子ですから。

あなたの学生林長明 五月廿一日

浙江省蘭渓 小さな妹が泣いた

 木曜日の午後7時、校内で懇親会があり、萍の6歳の妹棼が母親と一緒に参加した。報告と演説のあと演劇が上演され、喜劇のあとの悲劇の上演では、舞台の空気は張りつめ、観衆も緊張した。東北義勇軍の形勢が悪化し、×軍が追い迫り、義勇軍はやがて包囲圧迫されて次々に捕まり、軍法会議で軍の機密を白状しないためにひどい拷問にあう、という筋書きだった。観衆は形勢の逆転を願ったがそうはいかなかった。子どもたちは「憎らしい×め」「××を打ち倒せ」と拳を振り上げ叫んだ。この劇で××軍の軍法会議で非情な裁判官の役を演じたのが日頃は優しい棼の兄の萍だった。
 舞台の下から「私の兄さんは××人じゃない、私の兄さんは××人じゃない」という悲痛な叫びが上がった。萍が観衆を見渡すとその声の主は可愛い妹の棼だった。彼は途端に自制心を失い、それまでの迫真の演技を続けられなくなった。その時はすでに劇は最高潮の場面を過ぎており、観衆は彼の心理的変化に気づくことはなかった。
 萍はやがて舞台の下で妹を抱き上げると、ほほ笑みながら演劇の内容について説明してやった。「兄さんはこの次からはもうこんな憎々しい××人をやらないよ。」妹の棼は萍の懐に抱かれ嬉しそうに笑った。

浙江省景寧(当時)景城の一断片

 竹の皮の笠をかぶり、裸足か、でなければわらじ履きで、服やズボンは古いぼろぼろの汚い手織りの布といった一群の老若男女、こうした人たちは礼儀をわきまえない衛生に無頓着な「賤しい奴」―田舎者と言われる。朝の7、8時頃にこのような人たちが蟻のように列をなし、たきぎや炭を担ぎ、この田舎町の景城にやってくる。生活の必需品と交換するためだ。「たきぎを買うぞ!担いでこい!」9人の兵士がなまりのある標準語でこれら十数人の田舎の人を呼び止めた。これらの兵士は匪賊討伐のために来ているのだ。「もう買い手が決まっているので」、みなは丘八(兵の字を上下に分解して呼ぶ兵隊への蔑称)が市価通りに買ってくれないのではと怖れている。「買い手がいても、俺が必要なのだ、運べ」、丘八の旦那がどなりつけた。
 ……「炭は一籠いくらだ?」3人の兵士が炭売りを遮った。「先生、持って行く先が決まっているので……」。「何で売れないのだ、金はやるぞ!」「売れませんや」、裁きを受けるようなおどおどした目つきで丘八の旦那を見つめた。……「ついて来ないか、でなきゃぶつぞ!」、兵士が手を挙げた。「売りますよ、俺は担ぎ屋じゃないんだ、それに……」。「まだぐずぐず言っているのか!」兵士は足を上げて蹴ろうとした。「えーえー」、ついに屈服し、丘八の示す方向に担いでいった。丘八の旦那は「罪人」が逃げるのを警戒するようにぴったり後について歩いていった。道はしばらく静かになった。
 間もなく「カッ、カッ、カッ」という革靴の音が響いてきた、将校が遊びに出たのだ。

湖北省漢口 街頭風景 一記者の半日間の見聞

 今日は1936年5月21日、木曜日、ありふれた一日の始まりだ。妻の愚痴を振り切ってカメラを手に家を出た。町では水に漬かった品物の大安売りや、警察の取り締まりで商売ができずに、たむろしている数人の人力車の車夫などを目にしたが、足を停めずに行くと、後ろからか細い声で呼びかける者がいた。思わず振り返ると声の主は骨と皮ばかりに痩せこけ、汚れた皮膚をした2人の子どもで、着ている物はモップの先の布のようにぼろぼろだった。目は強く打たれたようにへこみ、全く光りがない。彼らは純粋な心で、通行人に金をせびるのが当然の権利だと思い込んでいるようだった。私はポケットを探りわずかの金をやると、その小さな人影はゆらゆら揺れながら離れていった。
 私は「市児童健康コンクール」に取材に行くところだったのを思いだした。私は、参加する児童は豚のように肥えた子どもたちに違いないと予想した。だがあのやせ細った子どもや同様の運命にある子どもたちは、「健康コンクール」の鉄の門の外に永遠に閉め出されたままなのだ。
 又いつも見慣れた光景にぶつかった。皺だらけの顔に濃い化粧をした4人の女性の「被疑者」を警官たちが連行していくところだった。都市の景観をよくすることは必要なのだろうが、この女性たちのような都市の景観を損なう者達をいくら追い払っても、同じような女性たちが町の中に新たに増殖し、町の外からも入り込んでくるのだ。警官たちもそれを承知で、手続きを踏むように公務をこなしているだけなのだ。

湖北省漢口 借金(投稿者は小学生)

 夕食後雑誌を読んでいると、母さんが突然「貞明、家には金が一銭もないよ、張おばさんの所へ行き一元借りておいで、さっさと行きな」と言った。「張おばさんからは数日前に借りたばかりでまだ返してないよ。僕はあの人たちの不機嫌な顔を見るのが怖い」と答えると、母さんは「お前が行かなきゃ明日はどうなるの。こんな貧乏な家に誰がお前を産んでやったのさ、行きなさい」と言った。ぐずぐずしているとパチンと音がした。母さんが物差しで机を叩き僕をおどかしたのだ。
 張おばさんの家に行き、家が大変困っているので又一元貸して下さいと頼むと、おばさんは心のこもった風をよそおい、「今は月末でお金がないの。妹が病気で金がかかるし、私もとっても困っているの」などとくどくどと話した。僕は彼女の困ったふりに腹が立った。兄さんは国が戦争を始め、金は全部国のものになってしまったと話したことがあった。毎月貯め込んだその金を出してくれ。金を借りられず家に帰ると母さんはぽかんとして何も言わなかった。僕はまだ本を読み終えていない、貧乏人は本を読むことも許されないの?

北平(現・北京)文化城の一日

 5月21日、大風。朝の東車站(東駅)。東通用門の方から機関車の音がし、やがて1匹の毒蛇のように蒸気と煙を噴き上げ、もの凄い剣幕で列車を引きプラットホームに突っ込んできた。Nanman(南満=南満州鉄道、満鉄)の汽車だ。このような汽車を見ると自分の故郷を思い出す。こんな汽車が380万平方里の我が故郷を虎口に引きずり込み、3000万の老人若者を地獄に引き入れ、大量の貨物を運び込んで中国の経済の命脈を絶ち、数千数万の虎狼を送り込み、そいつらは天津、豊台、北平などの喉元に盤踞し、自分は第二の亡国の民になった。あいつらは滄州、石家莊、包頭、寧夏などまで手に入れようとしている。彼らの威風のもと、華北の一億の民衆の首は鎖につながれている。
 出迎えの下駄履きの子どもたちが跳びはね、列車を下りた「友邦」人たちは互いに90度のお辞儀を交わし合っている。多くの「奴隷」たちが荷物を担ぎ忙しく往き来している。車内の人影はまばらだ。我々の高尚な人たちをご親切にも保護するという太陽軍は豊台で下車したらしい。午前10時半、憂鬱な気分で王不井大街の南口に立っていると、新聞売りの子どもが「日本の新聞だよ」、「冀東日報だよ」と叫び電車の乗客に売りつけていた。

この一日

《挿絵》日本軍の演習風景。右上に髑髏《挿絵》日本軍の演習風景。右上に髑髏

 朝、天安門付近から電車に乗っての帰り道、東単牌楼付近一体の草原で新来のよそ者の軍隊が演習中だった。人馬揃ってすこぶる意気盛んだった。これに合わせるように東長安街では「ロート眼鏡」と「味の素」の広告隊がお祭り行列のように奇妙な服装で獅子舞を演じチャルメラを吹くなどして行進していた。草原のよそ者の軍隊が縦隊を組んで西進すると、双方の隊列が平行になった。私ははっとこれは善隣友好の具象化なのだとさとった。
家に帰り新聞を見ると「華北の新増の×軍が連日到着しており、月末には全て到着する」とあった。一方で北平市政府主催の衛生運動大会が5月30日に行われ、全市蠅撲滅の日とするともあった。お見事、「五・三〇蠅の撲滅」とは、言うまでもなくこれも「善隣友好」の表現だ。

失われた土地 東北(満州)からの手紙

 この手紙で僕は君に二つのことを報告したい、一つは営口で経験したこと、もう一件は失われて5年になる故郷の変遷についてだ。僕は故郷に戻るため遼寧省の営口で汽車を乗り換えたが、営口に着くとすぐ、××の憲兵に捕まり、水上警察署に連れていかれた。私を尋問したのは正真正銘の「友邦人」だったが、とても流暢な中国語をしゃべった。彼は私に本籍、住所、三代の姓名を詳細に書かせた。最後に彼は顔をこわばらせ、「お前は学生だろう、満州国にも大学があり、しかも授業料はただだ、なぜ中国へ行って勉強をしなければならないのだ。中国に行くのもいいが、お前は毎月中国の学生運動の情況を報告しなければならない。さもなければ俺はお前を反“満”抗×分子と認定するぞ」と言った。
 友よ、僕はこのような侮辱には耐えられない、すっぱり死んだ方がました。僕は最終的に彼の恫喝を受け入れず、死ぬことはなかった。
 翌日昼、家に着いた。5年ぶりの故郷は想像していた以上に異常なまで暗黒な様相で、不景気だった。濃厚な抗×の雰囲気のある小規模な「土匪」についてはとりあえず措くとして、人民革命軍の勢力が故郷では日増しに大きくなっている。彼らは過去の義勇軍の過ちから、厳しい組織、鉄の規律を保っている。彼らには抗×救国の心があるだけだ。彼らは自ずと苦しい生活を送っている大衆を基礎としている。比較的裕福な人はとっくに漢奸となり、小商人は「平穏無事に飯を食いたい帰順者」となっている。農民だけはどしどし人民革命軍に加わるようになっている。最も恥知らずなのは「亡国の民」で、最も哀れで腹立たしいのは小市民だ。最も感服に値するのは農民だ。この手紙は危険を冒して送っている、偽名を使ったが、君は僕が誰か分かるね。

5月21日 威

冀東(防共自治政府)冀東の民生

《挿絵》冀東(河北東部)の街の風景、大学目薬の看板、仁丹の丹の字、ふんぞり返っている日本人なとが
描かれている《挿絵》冀東(河北東部)の街の風景、大学目薬の看板、仁丹の丹の字、ふんぞり返っている日本人なとが
描かれている

 5月21日の夜、私は冀東(河北省東部)の友人から手紙を受け取った。内容はしごく簡単だが私の心に突き刺さるものがあった。私の憤慨の気持ちを多くの国民に伝えたい。(以下、手紙の内容)
 君が故郷を離れてからまだ2年余の短い時間しか経っていないが、その間ここの情勢は急激に変化した。敵の急速な進攻と搾取の下、農村は丸ごと破滅し、多くの人民の生存の道は絶たれ、あまねく不安で混乱した状態だ。麻薬、ヘロインなどを販売し、賭場を開設するのは敵の陰険な政策だ。以前は日本人、朝鮮人の浪人がヘロインを販売する機関や彼らが経営する賭場は重要な町にあるだけで、被害者はルンペンやプロのギャンブラーに限られていたが、今では情況が完全に一変した。地方機関のおおっぴらな保護と土地のごろつき、ルンペンと手を組むことで、どの僻村にもこうした施設があまねくある。我が家のある百軒余りの村でも、ヘロイン販売と賭場を兼ねた施設が3軒ある。その結果真面目な青年のほとんど、更には大部分の中年の者や婦女子もアヘンや博打に狂い、彼らの田園を荒廃させ、彼らの仕事を台無しにしている。その結果、途方に暮れて自殺したり、淫売や泥棒に転落する者も出ている。去年の冬、張鎮にある日本人浪人のアヘン館を十数人の愛国青年が襲い、日本の浪人を殺した。彼らや鎮長は高飛びしたが、県政府は数百の警察と保安隊を動員し,関係者や親戚友人を全員逮捕し、鎮長の家族も捕まった。鎮の公務に携わる者はみな自由を失い、逮捕された人たちはひどい拷問に遭い、3人が殺された。今でも20人あまりが拘禁されている。中国人の命は無価値なのか!今日の故郷は非人間的な世界に成りはてた!「冀東政府」の成立後、人民は一切の自由を失い、冀東の二十数県は大規模な牢獄となり、多くの悲惨な事件が起こっている。僕はこの暗黒の故郷を去りたいが、機会がない、何か方法を考えてくれないか?

一通の手紙

 以下の手紙は冀東玉田の友人からのものだ。私は一読、涙を流さんばかりだった。彼の同意はないが『中国の一日』に提供する。
 小学校の教科書は春学期から完全に書き換えられた。新しい教科書は「満州国」の教科書を元に改編された。その内容は中日「満」の共存共栄を主要な精神とし、中国人の民族意識を消滅させることを究極の目的にしている。過去の国の恥辱となる歴史は歪曲されるか抹消されている。中学の教科書は暫時古い本を採用しているが、多くの部分が削除され見る影もない(外の土地からも国史の教科書を墨塗りした際の教室の中の沈痛な情況を描写した投稿もあった)。玉県は布の生産で有名だが、無税の日本商品が大量に安売りされるようになり、本県の織布工業は完全に破産した。
 このような局面に対応する本県の民衆の反応は概ね三つに類別される。第一は有力者、地主階級でこの階層の一部の知識分子も含まれる。彼らは自身の財産と地位を守るため帝国主義の孝子、帰順者となっている。第二は夢うつつにその日を過ごす無関心な者で、知識分子もいれば、労働者、農民もいる。彼らは正真正銘の帰順者で、漢奸にもならず、反抗もしない、可哀想な弱者だ。第三は「友邦」が最も怖れる危険分子で、先進的な知識分子、自覚した労働者、農民が含まれる。彼らはいろいろな方法と機会を利用し、勇敢に断固として民族解放の道を歩んでいる。彼らは中華民族の救い主だ。

山東省 五・二一、煙台にて

 市内を貫流するその川には、市内のあらゆる汚物と病原菌が集まり流れ、水の色は青黒く変色し、大豆カスが便壺の中で腐敗したよりもひどい悪臭を発していた。この川の水が海に流れ込む浅瀬では、無数の困窮した市民が海草を採っていた。年のいった女性は痛みをこらえながら纏足を海水に浸し、若い娘や壮年の男はズボンを捲り上げ、汚物にまみれたふくらはぎをむき出しにしていた。海岸わきのホテルの前ではアメリカの水兵がその奇異な風景をカメラに納めていた。帰国の際の土産にしようというのだろう。
 太平路で最も大きなパリダンスホールでは煌々と輝く紅灯の下、ジャズの演奏に合わせアメリカ人水兵がダンサーを抱え夢見るように旋回していた。同じ町内の妓楼の前では一人の娼婦がたどたどしい英語でアメリカ人水兵を中に引き込もうとして、激しく顔をなぐられた。そこには中国人警察官がいたが、見て見ぬふりだった。彼らはこうした場合、yes以外の英語を話さないのだ。

広東省瓊東 清郷(農村での匪賊粛清)

 瓊州の瓊東は共匪(共産党の蔑称)の多い所だ。私の部隊は今年の三月に清郷を始め、2か月余りで数十名の共匪を捕らえ銃殺に処した。その後特記すべきことが少ない中で、最も愉快な出来事は今日―5月21日のそれに過ぎるものはない。昨日、正体を隠していた郷長(幾つかの小さな村を束ねた行政区の長)を捕まえた。この郷長はもともと共匪の要員だったが、行動を秘密にしていて、これまで見破られていなかった。彼は民衆に郷長に選ばれたばかりか、最近の2か月前までは予備軍の小隊長まで兼ねていた。先月、彼と同郷の某家が瓊東県共産党執行委員会の署名入りの2本の脅迫状を見つけ、その脅迫状の筆跡が彼の物と判明した。同時に村人が共匪の報告文書を拾ったが、その筆跡も彼の物と分かり、密告した者がいて彼は捕まった。2度の尋問でも彼は共匪への参加を白状しなかったが、その場で数十個の字を書かせたところ、手紙と報告文書の筆跡とが一致した。瓊東第一区の清郷の活動は今日を以て一応終了し、区長が我々を宴会に招き、労をねぎらってくれた。(瓊東のある海南島は革命模範京劇・紅色娘子軍の舞台)

四川省成都(省都)この日に(父への手紙)

西安市市街、行き倒れになった餓死者西安市市街、行き倒れになった餓死者

 敬愛するお父さん。故郷の人たちは草を食べていますか、四川北部ではもう食べる草さえありません。あなたは判事をなさっていましたね。次のような案件をどう思いますか。
 向友富は松潘獅馬の人で43歳、水運びを生業にしています。彼から次のような打ち明け話を聞きました。「今年2月12日、自分たちは䔥の家で火にあたっていたが、多くの人骨を見かけた。張という女性たちが掘り出して食べたもので、埋葬に使った粗末な木棺を燃やして煮たのだ。彼女らは一人の死体だけを食べたのではない、まだ多くの人骨に布団がかぶせてあった。今年の2月末、片口の姪の家に泊まったが、自分たちは何も食べる物がなく、腹が減って仕方がなかったので、死人を掘り出して食べた。二人で6人の死体を食べたが、みな腐乱していた。5人は12歳の子ども、一人は大きな女の子だった。自分たちは前には食べる草があったが、その草も食い尽くし、死人を食べたのだ。自分の一家8人はみな餓死ししてしまい、自分も飢えて仕方なくみんなと死人を食べたのだ」
 お父さんは判事でしたね、彼らの罪をどう裁きますか?
 お父さん、こちらの情況をお知りになりたいですか?私が市政府に行き調査したところです。成都の総人口は48万596人ですが、失業者が15万4千人あまり、文盲が識字者を上回り26万2千人あまりでした。あなたはこれらの数字から、いわゆる四川唯一の文化都市・成都の実態がどんなものかお分かりでしょう。

四川省重慶 郷里の一日

 久しぶりに郷里に帰ったら、付近の子たちが寄ってきた。やがて子どもたちはみな家の手伝いに散って行ったが、水生だけは行こうとしなかった。私は「無精な子だね、どうしてみんなのように手伝いに行かないんだ?」と尋ねた。彼は大声で「今日は、田植えが終わり、みんなにご馳走をする日でね、それで彼らは当然家に帰って手伝いをしなければならないのさ。」「君の家は農家ではないの?」「家では去年……刈り入れが終わったら……地主が僕たちを家から追い出した、自警団員が二人きて、僕らが穀物を持ち出すのを許さなかった。僕らはそれから畑を耕せなくなったのだ。去年……父さんが死ぬ時、震え声で言ったんだ、水……生!お前が大きくなったとき、日照りで年貢を納められず、家から追い出され、畑を借りられなければ、一家の者はむざむざ餓死するのだよ……父さんはみなまで言わずに死んじゃった。僕は食べる物がなく、飢えて腹が痛い。」水生は母親と一日おきに「観音米」を掘りに行くのだという、今日は母親の番で水生はひまなのだ。(「観音米」は白色粘土の美称。飢饉の際、餓えをしのぐために掘って食べたという。四川省は古来「天府の国」と言われ、豊かな土地柄とされてきた。以上2篇の投稿にあるようにその四川省でこのありさまだから、外の土地も推して知るべしだ。)

僑踪(海外居住者)日本 (海外居住者からの投稿の多くは香港からのものだが、中に1篇東京に留学中の男性からのがあった)五月二十一日の事

 早朝、新聞で某政府が華北に増兵し、満州への移民を増やすというニュースを見てから、心に鉛の板が押しつけられたように憂鬱になった。そんなことは考えまいと何度も思い直し、カント哲学の教科書を朗読してみたが、新聞のハリネズミのような字が脳内に突き刺さり、幾つもの恐ろしい顔が眼前に現れては消えた。廊下に出て、庭の桜の木やいろいろな花を目にしたが、心には雲の向こう、遠く彼方にある山河がまつわりついて離れなかった。これがいわゆる郷愁というものだろうか?僕はすでに故郷があっても帰れない人になってしまった。……
 友人(女性)と待ち合わせをしていた新宿で電車を降りると、突然黒い洋服を着た背の高い男が人混みの中から現れ、嫌らしい笑みを浮かべ私を手招きした。彼の獲物を狙うような目つきからあの職業の者だと察し、友人に難が及ぶのを怖れ、おとなしく彼の後について交番に行った。
 交番では階級が上らしい警官が尋問に当たった。「お前は台湾人か?」「違います」、僕は頭を横に振った。「満州国人か?」「違います」、私はまた頭を横に振った。「それじゃ……支那……?」、軽蔑するような口調になった。「中華民国人です」、僕は厳正に答えた。「何省か?」「広東」、誇らしい気持ちこめ大声で答えた。警官は僕についてきた友人を指さし、「彼女は?」と聞いた。「同じく広東」、二人はほとんど同時に答えた。「彼女は日本人ではないのか?」「とんでもない……中華民国人です」、友人は冷ややかに答えたが、頭にきている様子だった。「ちょっと……ちょっと似てるな」、彼はずるそうに笑った。「君が日本人なら、日本美人といっても通るのだがな」、彼は同僚の方に目をやり、笑った。
 僕はたまらず大声で言った、「いったい、僕たちをどうしようというのですか?」「ちょっと待て、知っているか、この時期は警備時期だ、だが皇国の軍隊と警察は公正だ、分かったか。」「でもほかに聞きたいことがあるのですか?」「君たちは夫婦か?愛人関係か?」「どちらでもない、友人だ、学友だ」、僕は真面目に答えた。友人は憤然として「こんなに私たちにかまって、どうしようというの?」と言った。「ハハ!支那人をかまっているひまはないよ、日本人ならかまってやるのだがな。これで尋問は終わりだ。2人とも住所を書きなさい、分かったね、……書きなさい!」命令に従い住所を書き、放免された。……
 下宿に帰ると、突然、許さんが障子を開けて入ってきた。僕が朝の興ざめな出来事を話すと、彼は「君たちはまだましだったよ、中国人と言えたのだからな。僕は前回尋問された時、満州の下に国の字を書かなかったため、長時間しぼられ、警察はその後、何度も僕の荷物を調べにきたんだ」……

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 以上20篇の投稿を紹介したが、いずれも怒り、抗議、苦痛、悲哀などの内容で、全490篇あまりの投稿全てでもこの傾向は変わらない。中でも日本の侵略に対する激しい反感、怨嗟の声が際だっている。ほかに飢餓、貧困などをテーマにした投稿も目立った。これに反し楽しい、嬉しいといった類の投稿は皆無だ。
 この時期の中国全土が主として日本に起因する暗い、重苦しい空気に包まれていたことを、庶民レベルの視線で証言しているのが、この『中国の一日』と言えるだろう。気の重い一冊だ。

コラムニスト
横澤泰夫
昭和13年生まれ。昭和36年東京外国語大学中国語科卒業。同年NHK入局。報道局外信部、香港駐在特派員、福岡放送局報道課、国際局報道部、国際局制作センターなどを経て平成6年熊本学園大学外国語学部教授。平成22年同大学退職。主な著訳書に、師哲『毛沢東側近回想録』(共訳、新潮社)、戴煌『神格化と特権に抗して』(翻訳、中国書店)、『中国報道と言論の自由──新華社高級記者戴煌に聞く』(中国書店)、章詒和『嵐を生きた中国知識人──右派「章伯鈞」をめぐる人びと』(翻訳、中国書店)、劉暁波『天安門事件から「08憲章」へ──中国民主化のための闘いと希望』(共訳、藤原書店)、『私には敵はいないの思想──中国民主化闘争二十余年』(共訳著、藤原書店)、于建嶸『安源炭鉱実録──中国労働者階級の栄光と夢想』(翻訳、集広舎)、王力雄『黄禍』(翻訳、集広舎)、呉密察監修・遠流出版社編『台湾史小事典/第三版』(編訳、中国書店)、余傑著『劉暁波伝』(共訳、集広舎)など。
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