アジアから見る日中

第13回

中国はなぜあんなに発展したのか 経済成長の条件

インドの農村部 子供たちへの教育も行き届かない

▲インドの農村部 子供たちへの教育も行き届かない

 約30年前、上海に留学した。勤めていた会社からの半強制的な派遣だった。あの頃、中国に自ら希望して留学する金融マンは非常に少なかった。何しろ中国は文化大革命後で未知の国であり、当時バブルの入り口に差し掛かった日本とは雲泥の差があると思われていた。そして何より「中国に我々が思う金融など存在しない」という思いもあり、ここでビジネスをすることは考えられなかった。帰国後勤務先に対して「中国勤務はしたくない」とはっきり述べたことを今でも思い出す。

 時々今の大学生から「30年前の上海はどんなところでしたか?」などと質問を受けることがある。そんなに簡単に答えられるような問題ではないが、時間の関係もあるので「NHKのニュースにいつも出てくる浦東のタワーや高層ビルは全くなく、浦東はポンポン船で渡る所だった」「1986年当時上海は中国1の都市と言われていたが、(今は数百軒あると言われる)日本食レストランは全くなかった」「今や世界の有名ホテルは殆どある上海だが、留学開始当時は1つもなかった」と簡単に説明すると皆ポカーンとしている。まるで想像できない、という顔をしている。

古い街並みのが残る上海旧市街

◀古い街並みのが残る上海旧市街

 あの頃の中国について「この国はどんな発展をするだろうか?」などと考える外国人は少なく、逆に「この国は大丈夫だろうか。明日崩壊してもおかしくない」と感じた人は沢山いた。それが真実偽らざる気持ちだった。そんな中国に光はなかったのか? 唯一思い出されるのが、「猛烈に勉強する中国の大学生たち」。留学当時、中国の大学生は国のエリートであり、授業料は全て無料で、全員が寮生活だった。国家が人材を育てているという感じであった。バブル直前の浮かれた大学生活を過ごしてきた筆者にとって、彼らの存在は驚き以外の何物でもなかった。寮生活と言っても8人部屋の共同生活、お湯のシャワーなど出ず、食事も極めて質素に、ご飯と野菜炒め、肉や卵はたいそうなご馳走だった。まさに苦学生たちがそこに居た。

 夜10時になると宿舎は消灯となるが、そこで見た光景は今でもはっきり思い出せる。何と廊下の非常灯の下に、1人ずつ学生が立ち、薄暗い中、教科書を読んでいるのだ。トイレに座り込んで勉強したなどと語る者も居た。まさに勉強の虫、蛍雪時代といえた。そして朝周囲が明るくなった頃には、キャンパスのあちこちで、英語など外国語を声を出して暗記する姿があった。既に高校生時代に秀才と言われ、「漢詩500首を全て暗記していた」人もいたほどで、正直日本の学生は彼らには全く太刀打ちできないとさじを投げた。逸材とはこのようなハングリー精神より生まれるのだな、と肌で感じた。

発展する蘇州

◀発展する蘇州

 そんな彼らだったが、決して前途を楽観していたわけではない。当時すでに後の天安門事件の予兆があり、1986年末には上海の大学でも初の反政府?デモが行われた。最初はデモの意味も分からずに、友達の付き合いで遊び半分に付いて行った学生も多かったようだが、翌年初胡耀邦総書記が失脚すると、俄然認識が変わり始めた。

 あの頃大学生だった王さんと最近再会した。彼女は卒業後蘇州で働き(当時は仕事を自由に選べず、政府が分配した)、その後独立、今では立派な経営者となり、私を助手席に乗せて、トヨタの高級車を運転して、太湖に連れて行ってくれた。「王さんの車に乗せてもらえるなんて夢のようだね」というと、彼女も「本当に夢のようです」と答える。その夢を実現した原動力は何か、と問うと、「あの時日本人が言ってくれた『日本も戦後どん底から這い上がった。中国も必ず発展するよ』という一言でした」としみじみ言う。そんな思いを中国の大学生は背負ってこの30年を生きてきたのだ。

筆者が留学した上海の大学キャンパス

▲筆者が留学した上海の大学キャンパス

 経済発展の原動力、それは懸命に学ぶ、そして頑張る若者にあったと思う。現在アジア各地を回っていると、頑張るアジアの大学生に多く出会う。彼らは優秀なのは勿論だが、凄まじいほどの意欲を持ち、前に前に進んでいる。今やパキスタンやバングラデシュの優秀な人材がシンガポールやマレーシアで引っ張りだこだという話も聞く。中国でも30年前に比べると1人っ子世代の今は、かなり弱くなっていると思うが、それでも日本の学生と比べれば貪欲さは十分にある。

 経済が発展するには諸条件が整っていることがあるとは思う。中国の場合、もう1つの大きな要素が「言語の統一」であったのではないかと推察する。中国政府が進めた普通話政策、これにより、どんな田舎から出てきた人でも北京や上海などの都会で、意思疎通ができ、仕事に従事できた。同じことは人口大国インドでは全くできない。インドの田舎では英語は勿論、公用語とされるヒンディー語すら全く通じない、その地域の方言だけが使われていることは常識となっている。

高層ビルが建つ上海の夕陽

◀高層ビルが建つ上海の夕陽

 単に優秀な人材を作るだけでは、経済は発展しないように思う。中国がこれほど急速に発展した理由は、外資を上手く導入した他、優秀な人材が意欲的に働く仕組みを作ったこと、そして一般労働者にもそのインセンティブが一部享受されたこと、そして工場労働者などが言語の統一などの理由から、容易に集められ、低賃金で労働したことなどによるのだろう。

 現在訪ね歩いているアジアの国々でこれらの諸条件を揃えている国はなかなか見当たらない。当分は中国を越えるような急成長国家の出現はなさそうだ。いや、むしろゆっくり発展する方が国民の幸せにもなり、隣国のためにもよいのではと思うのだが、そううまい塩梅に行くわけがないことは、当然かもしれない。

コラムニスト
須賀努
1961年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。金融機関在職中に、上海語学留学1年、台湾地場金融機関への出向2年。香港駐在合計9年、北京駐在合計5年では合弁会社日本側代表。合計17年の駐在経験を有し、日経BP社主催『中国ビジネス基礎講座』でトータルコーディネーター兼講師を務める他、進出企業向けアドバイスを行う。日本及びアジア各地で『アジア最新情勢』に関する講演活動も行っている。 現在はアジア各地をほっつき歩いて見聞を広めるほか、亜細亜大学嘱託研究員、香港大学名誉導師にも任ぜられ、日本国内及びアジア各地の大学で学生向け講演活動も行っている。 時事通信社「金融財政ビジネス」、NHK「テレビで中国語テキストコラム」など中国を中心に東南アジアを広くカバーした独自の執筆活動にも取り組む。尚お茶をキーワードにした旅、「茶旅」を敢行し、その国、地域の経済・社会・文化・歴史などを独特の視点で読み解き、ビジネスへのヒントとしている。
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