特別記事

檻の中の自由/「南方週末」元ニュースディレクター長平氏へのインタビュー

訳者注

この文章は米国の中国問題を扱うサイト「チャイナ・チェンジ」の曹雅学編集長が2020年2月、「南方週末」の元ニュースディレクター(新聞部主任)だった長平氏に行ったインタビューである。長平氏はインタビューにあるように、1990年代後半から2000年代初めに、改革派の代表的メディアとして世界的にも注目された「南方週末」で数多くの記事や評論を発表した中国を代表するジャーナリストの1人だったが、当局の圧力を受け国を追われ、現在はドイツに在住、執筆活動を続けている。訳者(古畑)は長平氏とは10年来の友人で、このほど彼から本インタビューの日本語版翻訳を依頼された。インタビューは5回にわたる長文だが、中国の改革開放期にメディアが最も輝いていた時代の貴重な記録として、紹介する価値があると考え、集広舎のご厚意を得て同社サイトにて全文を公開する。なお、英語版中国語版は「チャイナ・チェンジ」にて見ることができる。

長平氏長平氏
インタビュアーズノート

私が最初に長平(チャン・ピン、Chang Ping)にインタビューしたのは、彼がトロントでCJFE(表現の自由を求めるカナダ記者団)2016年度「国際報道の自由賞」(International Press Freedom Award)を受賞した時でした。ワシントンDCに戻る飛行機に乗る前に、私たちは約2時間話しました。その後数年の間、私は「チャイナ・チェンジ(改変中国)」のためにより多くの人々にインタビューし、それをまとめる作業を続けるうちに、過去30年または40年にわたる様々な異なる個人的な物語の中から、共通のテーマが浮かび上がってきたことから、私は長平氏を再訪し話を聞く必要性をますます感じました。以下は、2020年2月に亡命中のデュッセルドルフとベルリンで数日間をかけて行われた長平氏への2回目のインタビューです。

中国での長平氏のジャーナリストとしてのキャリアは、1992年の鄧小平の南巡講話が発表された頃の成都で始まり、北京五輪が開かれた2008年の広州で終わるという、中国の改革開放の時代と完全に平行しています、彼の言葉を借りれば、この時代は「西側から最も誤解されている時代」と言われています 。1990年代末に、31歳の長平氏は、広州で改革志向の新聞「南方週末」の新聞部主任(ニュースディレクター)兼コラムニストを務めました。 同紙は1989年以降で民間社会が最も希望と活気に満ちた時期に百数十万部を発行していました。

インタビューの前とその間に、私は対話の目的を繰り返し強調しました。それは、時代を背景にした個人的な物語と、個人的な物語を通してその時代を引き出すことです。そして、私はそれをできるだけ具体的に表現しようとしました。

私たちの対話は長平氏の成長期から始まりました。簡潔にするために、次のように要約します。彼は1968年に生まれ、四川省の山間の村で育ちました。彼は1987年に四川大学に入学し中国文学を専攻しました。彼は高校や大学を通じて熱心な読書家であり、古典と現代の両方の多くの文学や、文化大革命の不毛な時代の後に再び出版された政治、文学、哲学などの翻訳書を読み続けました。大学在学中は、ヨーグルトの販売や映画のポスターのデザインなど、生活のために様々な仕事をし、さまざまな学生組織に参加しました。彼は1989年の学生運動に参加、リーダーではありませんでしたが、それでも、チラシを書いたりスピーチをしたりするキャンパスでの注目すべき発言者でした。彼は6月6日、成都の錦江ホテルの外で、(英国人ジャーナリスト)ルイーザ・リムの“The People’s Republic of Amnesia: Tiananmen Revisited.”(記憶喪失人民共和国:天安門再訪、2015年)のテーマである抗議者(学生と都市住民)と武装警察の間の血なまぐさい対立を目撃しました。彼は鎮圧の後、キャンパスに1か月間拘束されました。

インタビューはスムーズに進み、私は彼に簡単な質問と最小限の提案をしました。読みやすくするために、必要な質問を残したほかは、ほとんどの質問を削除しました。「籠の中の自由」というタイトルは、2015年の長平氏の同名のエッセイから取りました。

「チャイナ・チェンジ」は、1991年に長平氏が大学を卒業し、成都で自由奔放な生活を送っていたころから、5回に分けてインタビューを掲載します。

– 曹雅学(ツァオ・ヤーシュエ、Yaxue Cao、「チャイナ・チェンジ」編集長)

成都、ロータスビジネスコンサルティング

大学時代の長平氏(右端)大学時代の長平氏(右端)

1991年と1992年には、成都に6月4日(天安門事件)と多かれ少なかれ関係のある人々のグループがいました。事件の余波で、これらの人々は政府機関や国有企業など、主流社会との関係を築く機会も興味もありませんでした。私も彼らの一部でした。私たちはよく飲みに集まっておしゃべりをしました。当時、私たちは無一文でしたが、私たちはアウトサイダーになることを選んだ人々だったので、自分が落ちぶれて惨めな思いをしているとは誰も思っていませんでした。

さらに、私たちは自分たちが大きな志を抱いていると考えていたので、いつも中国社会の将来、それがどの方向に進むべきかを議論していました。当時、私は成都の西の郊外のアパートに住んでいて、月に25元で借りていました。私は閉じこもり、家で毎日読み書きをしていました。

私たちの多くは、詩を書いたり、絵を描いたり、商業デザインの奇妙な仕事をしていました。隣に住んでいたカップルは以前「農民日報」で働いていましたが、北京での抗議行動に参加し、取り締まりの後、成都に逃げてきました。

大学の先生の一人が私に出版社を紹介してくれて、私はその出版社で働きました。出版社は主に2つの分野を中心にしていました。1つは、小中学校の課外図書でした。そこで私はいくつかの歴史物語や唐代の伝説を書き直し、いくつかの詩の解釈や、納蘭性徳(のうらん・せいとく、清代の詩人、学者)の詩について書きました。

また、「商潮滚滚」(The Rolling Tides of Commerce)という本も書きました。そのため、私は商業の発展を調べるため、多くの新聞を読み、切り抜きをしました。

この本をきっかけに、友人がビジネスコンサルティング誌を始めたいと言って、私に編集長になってほしいと頼みました。ですから、私の最初のメディアでの仕事は編集長で、当初は私1人でした。

成都には、北京の秀水街市場や広州の天河路市場のような大きな市場がありました。蓮花池と呼ばれていたので、我々は雑誌名を「蓮花商情諮詢」(Lotus Business Consulting)と名付けました。すぐに私は4人か5人で編集部を設立しました。あらゆる種類の新聞や雑誌を読み、毎日切り取って貼り付け、政策、法律、ニュース、海外情報のカテゴリーに分類し、薄い雑誌に印刷しました。当時、会員制を導入しており、会員は雑誌に年間300元を支払うことになっていました。

また、コンテンツ制作から印刷までの全過程にとても興味がありました。まだ活版印刷だった頃は、工場に行って植字を見ていました。植字は本当のスキルでした。労働者は活字をすばやく見つけてセットし、鉄の型で保持する必要がありました。彼らは自分たちの仕事をとても誇りに思っていました。しかし、1年後に次の新聞に取り組むまでに彼らの仕事が時代遅れになっているのを目撃しました。活版印刷に代わってフィルム印刷が登場したのです。

やがて何百もの購読者が集まり、たくさんのお金が入ってきました。当時、この仕事は生計を立てるだけの仕事でしたが、出版をどのように運営するのか興味を持ち、商業や経済情報を理解することができました。でもその一方で、家に帰って本当にやりたかったのは、詩を読んだり、小説を読んだり、天安門運動に関係のある友達と話し合ったりすることでした。

それで私はすぐにこの仕事を去り、出版社のために本を書くことに戻りました。1992年に、満州国の歴史に関する60万字の本など、7冊の本を書きましたが、言及する価値はありません。また、唐代の伝説も取り上げました。コピーを残しておけばよかったのにと思います。1冊の本を書くことで約2000元を稼ぐことができました、そしてそれは1990年の初めには高額でした、当時ラジオ局で働いている私の友人は月に95元の稼ぎしかありませんでした。

1992年に雑誌社を離れた頃、鄧小平は南方を視察し談話(南巡講話)を発表しました。その雑誌を作っている時は、郷鎮企業がとても活発で、発展への大きな期待があり、すでに社会の底でエネルギーが沸騰していると感じました。

メディアシーンに入る

だから私にとって南巡講話はニュースでしたが、同時にそれはとても当然のことのように思えました。私はメディアに新たな関心を持つようになりました。

注目したのは彼らの創造性です。明らかに、彼らは新華社のスタイルを望んでいなかった。非常に高い新聞ラックの間にしゃがんで、新聞をめくっていた時、「中国青年報」がクリントン米大統領の当選について報じた「城頭変換大王旗」(新しい王室の旗が城壁に翻った)という見出しを覚えています。「彼らはどうやってこの種の言葉を使って報道できるのだろう?」と思いました。

実際、当時の中国メディアの多くの変化は、(報道が)比較的容易だった国際ニュースから始まりました。

たまたま、この頃、ある人から「市場導報」という別の新聞に執筆を頼まれました。彼らのために執筆する間に、編集長は私にその新聞を私に委託したいと考えるようになりました。それは当時は一般的な慣習でした。国有企業の所有者は、管理費を受け取るのと引き換えに出版物を外部委託し、それを運営したり、新しい出版物を出したりすることもできました。

そこで、志を同じくする友達が何人か集まり、幸いにも自分たちの新聞を持つことができました。いくつかの興味深いトピックについて報道しました。(成都市内を流れる)府南河がゴミや汚水で下水に変わってしまったため、政府は川を浄化するプロジェクトに取り組んでおり、そのことを報じました。市政府は私たちの仕事にとても満足していました。また、ほとんど注目されていない社会集団についても報道しました。たとえば、中国の視覚障害者のグループについてです。彼らは自身の住居、自身のビジネス、そして自身のネットワークを持っていました。しかし、数カ月後、私たちはお金を使い果たし、期間内に投資家を見つけることができなかったので、停刊しました。

この頃、何人かの人々が、何華章氏をトップとして、「成都商報」と呼ばれる新しい新聞を始めました。彼は当時、四川人民出版社の編集者でした。彼は専門的能力を持っていましたが、天安門事件で、彼や同僚は学生運動を支援するために街頭に出ました。6月4日の鎮圧の後、彼らも体制への希望を失い、この新聞を設立することにしました。当初は内部刊行物として発行、30万元を借り、事務所を借り、記者を募集しました。

しかし、彼らのチームは主に出版や文学方面の人々で、新聞を発行した経験はなかった。彼らは、印刷プロセスや植字技術に関していくつかの頭痛の種を抱えていました。その時までに、すでにフィルム印刷とグラフィックオーバーレイなど(の技術)が登場していました。画像の設定が間違っていて、見出しが隠れてしまうことがありました。当時、「市場導報」は解散していましたが、チームは比較的熟練していたため、我々は「成都商報」に参加し、同紙の重要な柱となりました。組版からトピックの選択、管理に至るまで、成都商報に多大な貢献をしました。

成都商報にて

成都商報成都商報

成都商報について私が本当に興奮したことの1つは、私たちが新華社のスタイルを公に軽蔑したことでした。成都商報は、都会に住む一般の人々のための新聞を意図して設立されました。実験の一つとして、四川方言を使った多くのニュースを書きました。語学教師や語学委員会から苦情があり、学校も同紙を禁止し、市の宣伝部から質問を受けました。しかし、これは非常に興味深い実践だと思いました。そして最も重要なことは、言語が変わると、その意味も変わることを発見したことです。

非常に明確な例を覚えています。全国人民代表大会と中国人民政治協商会議は、「両会」とも呼ばれます。当時、新聞の見出しは「両会」と呼ぶことは許されておらず、標準的な見出しは「第n回中国人民政治協商会議が北京で厳粛に開催された」または「第n回全国人民代表大会が北京で厳粛に開催された」とし、サブ見出しとともに赤字にする必要があります。

しかし、私たちの見出しは単に日常の街の言葉を使用し、「人大と政協が開かれた」としました。その結果、全国人民代表大会と中国人民政治協商会議は、私たちの報道が厳粛ではないと激怒しました。

私が気付いたのは、このことです。つまり言葉の表現方法を変えることで、まったく異なる意味を帯びるのです。これは私たちにもっと意識的な試みをするように駆り立てました、そしてもちろん私たちはそれによって多くの批判を受けました。

その後、何華章氏の努力のおかげで、成都商報はどんどん大きくなりました。他の新聞との連携により、公式刊行物となりました。その後、株式市場に上場し、国内初の上場した市場志向の新聞になりました。

しかし、この新聞の成功を受けて、成都商報を繰り返し批判し、閉鎖すると脅迫していた四川省および成都市の宣伝部門は、「精神文明建設」における彼らの業績として称賛するようになりました。言い換えれば、帰順させられました。その後、矛盾が現れ始めました。トピックの選択、報道の方法、さらにはレイアウトさえも主流化(党、政府寄り)しました。宣伝部門の指示に喜んで対応することが増えました。

このころには、私は同紙を去りたいと思うようになりました。しかし、何度か辞めようとしたのに、新聞社の経営陣は何度も私を引き留めました。収入がかなり良かったので、私はとどまりました。それでも、とどまりたい場所ではないと感じました。新聞は商業的に成功し、我々は新しい建物に移り、新しい従業員用住宅も取得しました。私たちは皆、とても広々とした住宅に住んでいました。80平方メートルから120平方メートルに数回アップグレードし、かなりの収入を享受しました。しかし、私は大いに悩みました。もはや本の出版には戻りたくありませんでした。では、代わりに何をするか? 私はメディアの仕事の経験がありましたが、どうすればそれをうまく利用できるだろうか?

成都商報にいた時、私は全国の他の新聞を真剣に見るようになりました。当時、私たちは北京と広州を中心に多くの新聞を購読し、香港からも1、2紙を購読していました。当時、南方と北方の新聞の両方で大きな変化が起こっているのを目にしました。当時の週末の新聞が最も人気がありました。「南方週末」は特に有名でした。同紙のスタイルは基本的にフロントページに大きな特集記事を載せることでした。最も一般的なのは、警察、犯罪、有名人についての話で、売れ行きを良くするためでした。しかし、最初から非常にまじめなセクションがありました。フロントページの下部には「週末茶座」(Weekend Teahouse)という欄がありました。王蒙や蒋子龍のような著名な作家を招き、エッセイの形でいくつかの社会問題について論じており、これらの文章は非常に影響力がありました。

そして北方では、「北京青年報」の週末版が最も有名でした。北京青年報の週末版もフロントページに大きな特徴があり、その一部は非常に長く、南方週末よりも幅広いトピックが選択され、より都会的な色彩でした。また、非常に新鮮で洗練された北京の「中華工商時報」週末版や、「中国青年報」がありました。何年もの間、中国青年報は改革の先駆者でした。

中国青年報には、「社会週刊」「経済藍訊」「青年時訊」「青年参考」そして「氷点週刊」などの週末版がありました。それらはすべて非常に特徴的であり、それらの記者の何人かは深い歴史的知識や調査能力などに優れていました。

全体として、(天安門事件後の)数年の憂鬱な年月を経て、少なくとも鄧小平の南巡講話の後に復活の感覚があったのは事実でした。多くの政府部門は、事業を請負業者にアウトソーシングしていました。国有のマスコミもそれをやっていました。民間企業は繁栄しており、郷鎮企業もより多くの機会に恵まれました。特に南方や沿海で、深センや海南などは開発が非常に迅速に進み、多くの人々が新しい機会を求めて南方に向かいました。私の友人の多くは南方に行き、私も行くことを考えましたが、彼らが不動産投資や、不動産関連ビジネスが目的だと知っており、私はそのどれにも興味がありませんでした。

自分の性に合わない

デュッセルドルフの雨の日に取材は始まった

成都商報では、しばらくフロントページを担当していました。以前は、私たちが興味を持ったことをすべてフロントページで取り上げることができましたが、現在は、四川省や成都市のトップの動向、または省や市の主要な政治イベントに関する記事しかトップにすることができなくなりました。新聞の影響が大きくなるほど、フロントページは宣伝部の指示に従うようになり、ますます主流化していきました。当時の主流は、党が運営する正統派の夕刊紙、大都市の日刊紙でした。それらにはもう興味がありませんでした。

私が成都商報で働いた2年間は、いずれにしても成功でした。自分の書いた記事が高く評価され、専門家としての権威も得ました。しかし、多くの人は、この順調に見えた2年間、私が非常に迷っていたことを知りませんでした。

私は確かに成都商報の創業メンバーの1人、功労者の1人でしたが、同紙が1年に数億元の利益を上げるようになり、お金が稼げると気づくようになった時、私は無関係だと感じました。私は自ら主流ではない部署を願い出て、週末の特集記事部門を担当するように頼みました。特集部門は自ら深層報道をすることができました。当時成都商報はお金があり、我々の部門も自分の車、自分の予算を持っていて、国内のどこにでも出張することができました。

たとえば、私たちは中国で最大のロックンロールスターである崔健を、「無能的力量(The Power of the Powerless)」という新しいアルバムを発表する前に、インタビューしたことがあります。私たちは彼との詳細なインタビューを行いました。そして、私は記者に、彼の苦悶や音楽を通じた体制に対する抵抗に焦点を合わせるように頼みました。インタビューにはいくつかの批判がありました。別の例として、数人の記者と私は、旧正月の間に帰国する出稼ぎ労働者を追跡するために列車に乗りました。この時に私たちが行ったいくつかの報道は、南方週末に注目されました。

1995年に私はコンピューターを購入しました。ビデオディスクを見るためでした。私はたくさんの外国映画を見ました:オスカー受賞作、そして他のハリウッド映画やヨーロッパ映画です。タイピングの練習も始めました。私は将来の執筆に備えるためにタイピングを学ばねばと考えていました。タイピングを練習するために、好きな記事を2回もタイプしました。「海外の優秀なジャーナリストの作品セレクション」と呼ばれる2冊の本から多くの記事をタイプしました。これは、西側のメディアの深層報道、特にピューリッツァー賞を受賞した作品でした。それらの2冊の本はかなり良いものでした。それらは調査報道や他の深層報道をどうやったらいいかを教えてくれました。また、優れた編集に焦点を当てた記事を選んでいました。

昆明の孫小果事件は長平氏が南方週末で行った初の報道だった昆明の孫小果事件は長平氏が南方週末で行った初の報道だった

当時、南方週末には慣習がありました。それは、特定のテーマについて記者と協力するため、全国各地の記者を招待することでした。

1997年から1998年にかけて、昆明である事件が発生しました。これは後に「孫小果事件」として知られています。地元の記者が南方週末の記者に手がかりを提供、南方の記者が私に声をかけてくれたので、私たち2人は取材に行きました。そこに着くと、その事件は確かに大きな事件であることが分かりましたが、地元の人々はあえてそれに触れませんでした。孫小果という男はギャングのボスでした。彼にはならず者の手下がおり、ナイトクラブで暴れまわり、多くの未成年者を含む「三陪女」と言われるセックスワーカーを騙し、殴打し、レイプしていました。この孫小果は実際に以前に刑を宣告されていましたが、彼は1日も投獄されたことはなく、依然として大勢の人々を恐怖に陥れていました。司法当局の一部の役人も非常に腹を立てていました。彼の継父は昆明市の地方公安局の副局長であり、彼の母親も役人でした。我々はインタビューし、数人の警察官からも協力を得ました。

しかし、私が最も感銘を受けたのは、彼の犠牲者であった何人かの三陪女を探し出したことでした。彼女やその家族は非常に惨めでした。一方で、彼女らはいじめられ、ひどく殴打されました。しかしその一方で、三陪女だったために、彼女たちは恥ずかしい思いをしていました。私たちがそのうちの1人にインタビューしたとき、彼女の家族はその隣で「恥知らず! ざまあみろ!」と彼女を罵っていました。

そして記事を書きました。それは私が南方週末で発表した最初の作品でした。全国的に大きな注目を集めました。その後、南方週末は私が加わることを望んでいたので、私は転職を決めました。

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