特別記事

檻の中の自由/「南方週末」元ニュースディレクター長平氏へのインタビュー

上海「外灘画報」での長平氏上海「外灘画報」での長平氏

公共知識人のインキュベーター

曹雅学:私は1990年代初頭に中国を離れましたが、何年もの間、中国で何が起きたのか、その社会の変化についてほとんど知りませんでした。過去数年間「チャイナ・チェンジ」に取り組んだことで、理解を深めることができました。私は実際に南方週末の新聞紙を手にしたことはありませんが、20年前の新年の社説やいくつかの画期的な報道など、集団の記憶に刻まれるような南方週末の記事を見てきました。また、他にも気づいたことがあります。例えば、賀衛方(北京大学法学院教授)は、1998年に「退役した軍人が裁判官に任命される」というエッセイを最初に同紙で発表して以来、有名な公共知識人になりました。北京師範大学で文学を教えている私の友人も、南方週末に寄稿しています。ですから、南方週末は少なくとも一時期、活発な公共の議論の場であったという印象を受けました。それについて教えてください。

南方週末は、イデオロギーの解放を価値の核心としていました。それは、改革開放の記念日のための単なるテーマ、新聞に掲載したキーワードではなく、最も重要な思想上の議論を促進し、それに参加しました。1990年代の終わりごろから2000年代の初めにかけて、新左派と自由主義者の間で大きな論争がありました。この論争は、共産党の関与なしに、最初から最後まで市民社会の領域で起きたまれな出来事と見なされています。それは最初に「読書」、「天涯」などの学術的雑誌で始まりましたが、南方週末の参加により、すぐに公共の論争に突入しました。

簡単に言えば、新左派は平等をより重視し、自由主義は自由を重視しています。双方は彼らの議論の支えとして西洋の学術作品を引用し、多くの西洋の思想家を多くの人々に知らせ、ジョン・ロールズ、アイザイア・バーリン、F・A・ハイエクの著作は中国でベストセラーになりました。しかし、中国では、学術的背景や政治的傾向の違いから、必然的に中国の特徴を持った論争に変化しました。新左派は平等を強調する一方で、強いナショナリズム的な性格を持っていました。加えて、共産党政権のイデオロギーが左翼に端を発しており、少なくとも自由主義者の目には、新左派は現在のイデオロギーと政権を擁護し、さらには毛沢東主義のような旧左翼のお先棒を担いでいるように見えました。自由主義者たちは、自由は公正と正義の基礎であると信じていました。そして中国の改革開放は政治的には憲政民主、イデオロギー的には自由と寛容、経済的には市場経済へと向かわなければならないと信じていました。

この議論は、公共の場で多くの学者のスターを作りました。たとえば、賀衛方、徐友漁、秦暉、朱学勤は、南方週末に多くの記事を発表し、自由主義の代表的人物になりました。汪暉、甘陽、劉小楓などの対戦相手も非常に有名になりました。

南方週末に代表される市場志向の新聞は、概して、当時の自由主義を支持していました。南方週末の編集部は二つの重点、つまり法の支配と市場経済を重視し、それらは政治上の憲政民主と法律上の法治の建設を促進するものでした。このような背景の中、法学者や弁護士、経済学者や起業家という2種類の人々が急速に注目を集めました。ただし、こうした動きは2001年に中国が世界貿易機関(WTO)に加盟する前後の時代の雰囲気とも切り離せないものでした。

上記の賀衛方の有名な文章は、当時の中国の奇妙な現象について語っていました。政府は、多くの退役軍人を裁判官として任命していました。賀衛方はこう尋ねました:なぜ彼らを病院に割り当てて医者にしないのか? 彼は、医者は専門的な訓練を受けなければならず、退役した軍人は医学教育を受けていないことを誰もが理解していると言います。では、裁判官も専門的な訓練を受ける必要はないのだろうか? 退役した軍人が裁判官になる資格があるのはなぜなのか?

賀衛方が強調したかったのは、共産党の法の概念でした。党にとって、裁判所は法治を行うのが仕事ではなく、党の命令と指揮を実行するための政治的手段です。必要な時には、裁判所は用心棒の役割を果たすことになるでしょう。

メディアは、ある問題を取り上げ、記事やその反応、読者のディスカッションを公開することで、それらを公開の討論に変えることができます。これらの報道や議論を通じて、南方週末は公共知識人のためのインキュベーター(孵卵器)になりました。大学、所属組織、または裁判所などの特定の枠の中に隔離されていた人々を結び付け、公共の議論の場に連れ出しました。その結果、市民運動の出現、さらには権利擁護運動において重要な役割を果たしました。

農村人口の窮状

1990年代の終わりから2000年代の初めにかけて、農民問題や農業問題は中国社会の焦点となりました。中国共産党はその政権を樹立して以来、いわゆる「都市と農村の鋏状の格差」を実施しました。つまり、工業製品の価格はその実際の価値よりも高く、農産物価格はその実際の価値よりも低く設定されました。さらに、戸籍制度により農村住民は都市住民よりも差別され、農民は労働者を支援し、農業は工業を支援し、農村は都市を支援することを強制されたのです。それは何十年にもわたる政策でした。

2000年代の初めまでに、中国の人口は12億人を超え、そのうち8億人が農民でした。中国が発展を始めると、農民は都市での重労働の原動力であるだけでなく、高い農業税を負担しなければなりませんでした。何百万人もの出稼ぎ労働者は、工場や建設現場に出稼ぎに行きましたが、それは家を建てたり両親を支援したりするためではなく、農業をしなくなったにもかかわらず、農業税を支払うためにお金を送り返していたのです。

2000年、湖北省の李昌平という村の党書記は朱鎔基首相に手紙を書き、農民の生活は非常に厳しく、農村は非常に貧しく、農業は危険だと訴えました。そして、これら3つの面について詳しく説明しました。この手紙は最初「中国農業報」に掲載されましたが、あまり注目されなかった。その後、南方週末がこれを報道しました。2000年末に、私たちはフロントページに大きな写真を載せ、李昌平を年度人物(パーソンオブザイヤー)に選びました、そして私はその選出に合わせて解説を書きました。

南方週末2000年度人物、李昌平南方週末2000年度人物、李昌平

私は彼の基層の役人としての良心や責任感を称賛し、中国の農民の地位を向上させるための三農問題(農業、農村、農民)改革の緊急性を強調しました。その後、私たちは農民や農村問題に関する一連の詳細なレポートを続けました。

他のメディアもそれに続きました。その後、李昌平は農業問題に取り組むために北京に移り、三農問題解決に取り組む中心的な人物となりました。

「張君事件の批評」

2000年から2001年の間に、国民の注目を集めた刑事事件の1つが、張君事件でした。張君は湖南省の農村で生まれ育ちました。青年期に彼は中国の何百万もの農村の若者と同様、労働者として働くために南方に行きました、そして何千、何百の彼らと同様、挫折を何度も味わいました。何度も失業した後、彼は強盗や盗難などの犯罪に加わり、何度も警察に逮捕されました。彼は後に、彼が警察に連行され、釈放されるたびに、なぜより悪人になったのかを説明しました。第1に、派出所や刑務所から出るたびに、生計の手段がなくなった。第2に、彼は警察に拘束されるたびに拷問を受け、警察と社会をますます憎むようになった。そこで彼は黒社会(反社会勢力)のボスになり、銀行強盗と警官殺害など、重大な罪を犯しました。

2001年4月、彼は重慶で捕らえられました。重慶市公安局長だった文強は、張君を捕まえたことで、「打黒」(反社会的勢力取り締まり)の英雄となりました。

曹雅学:(読者への脚注として)張君が死刑判決を受けてから10年後、文強は重慶市トップだった薄熙来による2010年の「打黒」キャンペーン中に「反社会勢力を保護した」として死刑判決を受けました。

殺人、強盗、5人の恋人とのラブレター、劇的な逮捕など、すべての全国メディアが張君事件について毎日報道しました。中国中央テレビ(CCTV)は、拘留中に張君に直接インタビューする特別な機会を与えられました。メディアの報道の主な目的は、サスペンスに満ちた犯罪や反社会勢力の話であり、勇気と英明さにより社会の害毒を取り除いた警察への称賛でした。

しかし、事件の重要な側面が等閑(なおざり)にされました。つまり、彼はどうしてこのようになったのかということです。農村問題にずっと注目していた南方週末にとってこれは必然的な問いでした。私は彼の成長の過程を調査するために湖南省の張君の故郷に記者を送りました。また、湖南省や湖北省などに記者を派遣し、彼の活動を追跡しました。最後に、一連の報道を発表しました。トップページには「張君事件の批評(張君案検討)」の題が付けられていました。

この批評は2つの主要な側面に焦点を合わせました。一つ目は、彼が純朴な田舎の若者から暴力的な反社会的勢力のリーダーにどのようにしてなったのかということでした。二つ目は私たちの司法制度でした。刑務所から出た後、なぜ一部の犯罪者はより反社会的になるのか、身体的拷問と厳しい罰は社会の治安にどのような影響を及ぼすか、ということでした。

「張君事件の批評」「張君事件の批評」

その号は小売りだけで135万部を売り、中国大使館へのNATO爆撃に関する号に続いて2番目に高い記録でした。

地方当局からの対応は迅速でした。湖南省党委員会と省政府は激怒し、重慶市公安局も激怒しました。彼らは中央政府に手紙を書き、公安にとってこれほど良いこと、警察による大きな成果が、南方週末によって党と党の農村政策を誹謗中傷し、警察のイメージを傷つけることになるとは予想していなかったと言ったのです。

江芸平編集長、銭剛副編集長、ニュースディレクター長平の更迭は南方週末にとって大きな打撃だった

中央宣伝部による審査:ニュースディレクターを離任

中央宣伝部も非常に怒っていたので、南方週末への審査を実施し、4つの記事を選び出し、南方週末に関連する編集者と記者を懲戒するよう要求しました。

一つ目は「張君事件の批評」。二つ目は中東和平についての論評でした。題名は「独裁は地域の不安定の根本的原因である」でした。中央宣伝部は、それは明らかに共産党を標的にしたものだと言いました。旧ソ連のジョークが言うように、「あなたが誰について話しているのか誰もが知っている」ということです。

「石家荘爆発事件現場の目撃」「石家荘爆発事件現場の目撃」

3番目の記事は2001年の石家荘での爆発事件に関するものでした。108人が死亡し、38人が負傷しました。宣伝部門は報道を制限したが、南方週末は詳細な調査を行い、地方政府が公共の安全を確保できなかったことに疑問を呈したのです。

4番目の記事は文化大革命の歴史についてでした。派閥による抗争により、17~18歳の若者だった重慶の紅衛兵は多くの死者を出しました。彼らは重慶青春墓地と呼ばれる墓地に埋葬されました。この報告は、中国共産党の歴史の傷跡を暴露したとみなされました。

中央宣伝部は、これら4つの記事が世論を導く上で深刻な問題を示していると結論付け、責任ある編集者と記者の「厳しい罰」と編集チームの「完全な是正」を命じました。

ニュースディレクターとして、私は4つの問題のある記事すべてに直接責任があると考えられていました。中央宣伝部の命令に従うために、私は2002年3月に編集部を離任しました。中央宣伝部への回答で、南方週末は長平を編集部から離任させ、いかなる取材、編集に関わることを許されないと述べました。

しかし、中央宣伝部は満足せず、さらなる是正を要求しました。数カ月後、南方報業集団は、中央宣伝部の要請により、編集長の江芸平と副編集長の銭剛の職を解きました。結局のところ、この事件は、南方週末がそれまでに受けた最も深刻な打撃であり、編集幹部全体が更迭された歴史のターニングポイントでした。

「青春墓地に埋葬された重慶の文革闘争」「青春墓地に埋葬された重慶の文革闘争」

私が解任された後、南方週末のニュース管理と編集長の立場は大きく変わりました。まず、実績による昇進という伝統が終了しました。その時点から、ニュースディレクターは親新聞の南方日報によって任命され、政治的に信頼できる人物が担当することになりました。

私は発行部門に異動しました。しばらくの間、私は遊んでいました。発行部門は私にこう言いました、あなたはここに流刑となったから、何もやらなくてよいと。

CCTVでの短期間の仕事

その時までに、多くのメディアが市場化を進め、南方週末の編集者と記者は業界で高い尊敬を集めていました。その上、私はニュースディレクターのオーラを持っていました。私が中央宣伝部の直接の標的にされたにもかかわらず、多くの新聞が私を探し求めました。湖南省では、ある組織が新しい都市報を始めるので、私を編集長として雇いたいと、非常に高い待遇をオファーしてきました。しかし、自分は社会問題への深層報道をしたかったので、申し出を断りました。

2002年、中国中央テレビ(CCTV)は新しいチャンネル、Channel 12を立ち上げ、プロデューサーから「新聞夜話」というニュース番組の編集長になるよう依頼されました。CCTVでの運営やテレビ制作に興味があったので就職しました。番組の立ち上げ、コンセプト、司会者の募集、番組のリハーサルを行いました。しかし、CCTVの文化と検閲メカニズムが南方週末とは非常に異なっていることに気付くのにそれほど時間はかかりませんでした。

その頃、長春テレビでの事件により、検閲はさらに厳しくなりました。2002年3月5日、法輪功信者のグループが、2001年に法輪功信者7人が天安門広場で焼身自殺した事件の『真相』という40分のドキュメンタリーを番組に忍び込ませることに成功しました。江沢民政権が法輪功を迫害したという内容に長春の数百万の視聴者は驚き、中央政府は激怒し、大きな放送事故として扱われました。

CCTVも検閲をより厳格化、放送内容だけでなく、ビデオテープの保護も厳しくなりました。当時、私たち他の多くの番組の制作班は、すでに満室だったCCTVビルの外に部屋を借りていました。事前に収録したテープをCCTVの建物に届けるために、数人の武装警官が車両に同行しました。どれほど深刻で緊張していたかということです。

ある時、番組の責任者としてCCTVの中層以上の幹部の会議に出ることがありました。ある幹部が、党の宣伝部からの検閲命令を、非常に厳粛かつ声高に読み上げました。命令を読んでいる人は顔見知りで、CCTVの有名な番組「東方時空」「実話実説」の創設者の1人でした。ある会食の場で、彼は南方週末と私を称賛していました。ところが彼がそれらの命令を叫んだ時、彼は完全に別人でした。私は聴衆の中で思わず笑い声をあげてしまいました。それは私たちが南方週末にいた時の方法でした。彼は説明を中断し、2分間ほど私を厳しく叱責しました。会食の場で私を称賛してくれた番組制作者と、今の幹部のどちらが本当の彼なのか、考えさせられました。

曹雅学:それはおそらく無関係だと思います。大多数の人々は環境によって形作られ、故意であろうとなかろうと、その環境の求めに順応します。南方週末のやり方が慣例であり、例外でなかったら、彼は会食の場での人だったでしょう。人は信念を持つことはまれだし、信念に従って行動することはさらにまれです。

法輪功と言えば、私が在籍した数年間の江沢民による弾圧についての南方週末の報道について少し述べたいと思います。党の宣伝部は、中国全土のメディアに法輪功の問題について新華社通信の標準記事を使用することを要求していましたが、南方週末はそれをボイコットし、新華社の記事を使ったことはありませんでした。法輪功に対して最も批判的な意見を出したのは南方週末のコラムニスト、鄢烈山でしたが、1999年に全国的な弾圧が始まったとき、私たちは法輪功について書くのをやめ、方針に従うことを拒否しました、これは私たちが非常に誇りに思っていたことです。

個別のテーマに限らず、南方週末を誇らしげに思う気持ちは、販売、広告、校閲部門にも広がっています。南方週末のスタッフはこの独特な新聞のために働いていることを誇りに思い、不条理で反動的な宣伝命令を軽蔑しました。

私は数カ月後にCCTVを去りました。私はカリフォルニア大学バークレー校のジャーナリズム学院でフェローシップの誘いがありましたが、それはできませんでした。妻が深刻な自動車事故に見舞われ、脳と脚に怪我を負ったためです。

「外灘画報」

2002年末までに、南方報業集団の元同僚数名と私は、上海で「外灘画報」という新聞を創刊し、私は副編集長を務めました。上海は中国最大の都市であり、永住者と移民を合わせた人口は2,000万人余りです。しかし、当時は市場志向の時事問題を扱う新聞はありませんでした。その頃、南方報業集団は、市場を拡大するために、「瀟湘晨報」(2001年)、「東方早報」(2003)、「新京報」(2003)など他の都市部で新しい新聞の発行を始めました。

これらの新聞はすべて、南方報業集団の編集者および記者により設立されました。こうした取り組みの原動力となったのは、南方集団でメディア市場を開拓した経験を積んだことから、報道の自由の価値観に基づいて提供するニュースには市場や需要があると信じていたことです。そこで私は数人の友人と香港人からの投資と上海文芸出版社との提携を通じて外灘画報を設立ました。

意外に思うかもしれませんが、上海では、メディアの検閲は他の都市よりも厳しいものでした。上海人は「私たちはファッションの都市であり、政治ニュースに興味はありません」というのが好きです。しかし、実際には、彼らの「無関心」は報道機関の厳格な抑圧の結果です。

創刊して最初に気づいたのは、広州よりも上海の方が検閲命令が多かったことです。広州では、報道禁止の命令は多かったり少なかったり、週に3〜4回の時もあれば毎日出ることもありました。しかし、上海では、ほぼ毎日3~4本の命令がありました。大部分は社会の安定のため、あるいは事なかれ主義のためで、禁令により役人の腐敗や企業の贈収賄に関する報道を禁止していたのです。

1990年代上海のある宣伝部長は、大きな事件が起きると新民晩報で直接指揮を執っていました。彼は自分でページレイアウトを決め、どの見出しを赤字にするか、どのフォントを使用するかまで決めていました。私は他の場所でこうしたことをめったに見たことがありませんでした。

他の都市では、宣伝部門はスタートアップしたばかりのメディアをあまり重視せず、影響力のあるメディアに目を光らせています。しかし、外灘画報は当初から監視され、検閲され、抑圧されていました。

長平氏が「外灘画報」で発表したSARSに関する社説長平氏が「外灘画報」で発表したSARSに関する社説

(上海に)製品に安全性の問題がある会社があり、調査のために記者を派遣しました。その会社は私たちに記事を発表しないように頼み、代わりに40万元の広告を申し出ました。南方週末でも同様のことがあり、編集長はかつて中国電信から300万元の広告の申し出があったのを拒否しました。当時、外灘画報は資金が非常に不足していましたが、緊急会議の後、私たちは彼らの申し出を断り、記事を発表することにしました。翌日、市の宣伝部から直接記事の発表を禁止する命令を受けました。突然、私たちは何が起こっているのかを理解しました。誰かがその会社に何をすべきかを教えたか、もしくは自ら気づいたのでしょう。直接宣伝部門に話をすれば、40万元を支払わなくても、その10分の1の賄賂を検閲部門に払えばよいと。私たちはその背後にある腐敗を知ることは決してありません。

その後、宣伝部は上海文芸出版社に外灘画報を上海文新集団(上海文広新聞伝媒集団、SMG)に売却するよう強要しました。同集団は、文匯報と新民晩報を運営する上海最大のメディアグループです。上海文芸出版社は自分たちが創設した外灘画報を売却したくはありませんでした。同時に、文新集団は、彼らにとってトラブルの原因となるため、私たちの買収に関心がありませんでした。しかし、宣伝部の要求に応じて取引を進めなければなりませんでした。上海文新集団の幹部は私たちに非常に厳格でしたが、それにもかかわらず、私たちはそれでも報道したいことのいくつかを報道することができました。年末に、私たちの反抗のために、文新集団全体が宣伝部から罰金を科されました。

これは、中国が一人っ子政策を実施した方法と似ています。村の一つの家族が2人目の子供を出産した場合、村全体が罰金を科されるか、拘束されることさえあります。そのため、文新集団の千人以上の従業員は私たちを嫌っていました。彼らは、私たちが「目立とうとする」行動のつけを払わされ、経済的損失を被ったと信じていました。これは私たちにとって大きなプレッシャーでした。

治安警察の訪問

しかし、検閲よりも悪いことに、「国保」(公安省国内安全保衛局)と呼ばれる国内の治安警察が私たちを訪れ始めました。経営陣や編集長に通知することなく、彼らは頻繁に私たちの記者や編集者に「お茶を飲む」(事情聴取に応じる)よう求めました。普段は事情聴取を受けた記者が後に教えてくれたのですが、そうしなかった記者もいたようです。彼らはとても恐れていました。国保の工作員から情報提供者として行動するよう繰り返し「お茶に招待された」編集者が1人いました。編集者は非常に困っていて、私に話しました。私は、あなたが拒否することを願っていますが、私はあなたに面倒なことが起きてほしくはありませんと答えました。彼ら工作員は愛想が良いかもしれませんが、拒否した場合に何が起こるか分かりません。彼らはあなたをお茶に呼び出すのに、強制力を使うことはなくても、あなたは約束を断る勇気はないでしょう。理屈上は、彼らが情報提供者になるように頼んだとき、あなたはノーと言うことができます、しかし、あなたがノーと言ったら、彼らが次に何をするか分かりません。その編集者は、非常に恐れており、国保のために働きたくありませんでした。後に彼はやむなく上海を離れました。

ある日、国保がとうとう私のところにやって来ました。以前、宣伝部から自分の書いたもので批判されていたのですが、国保の事情聴取を受けたのはこれが初めてでした。最初は私のオフィスに来ましたが、2度目は私にティーハウスに来るよう言われました。どちらの場合も2人の工作員が来ましたが、毎回異なる組み合わせでした。

彼らのスタイルはかなりコミカルだと思いました。彼らはすべて黒い服を着ており、そのうちの1人はサングラスをかけていました。彼らは香港の映画に出てくる警官を真似しているのではと思いました。

「国保」の訪問

なぜ彼らは来たのでしょうか?2005年、広東省汕頭に文化大革命博物館が登場しました。これは、これまでのところ、中国で唯一の文化大革命の記念館でした。私は記事を書くために記者を派遣しました。同時に、南方都市報のコラムも執筆しました。

作家の巴金は生前、文化大革命博物館の建設を繰り返し呼びかけていました。共産党は文化大革命を公式に否定していましたが、そのような博物館を建設しなかった。そこで汕頭の元副市長が民間から資金を調達して文革博物館を立ち上げたのです。多くの人々が失望を表明しました:なぜそれは国によってではなく、民間によって建設されたのか? 私はコラムで博物館への支持を表明し、翌日、新浪網のブログにもコラムを投稿しました。

国保の工作員は私のオフィスに腰を下ろし、単刀直入に言いました。「我々は君に会う任務で来た。汕頭の文化大革命博物館に関する記事を調査している」。彼らは私に質問をし、私はそれに一つずつ答えました。国保は、調査の結果、我々が陰謀を企てていたことが分かったと言いました。南方都市報、上海外灘画報、新浪網の3者が共謀、協力し、この反動的な世論の嵐を引き起こした、これら3つの編集者は、以前はすべて南方報業集団に所属していたというのです。

これはばかげていると思いました。私は彼らにそのような陰謀はなかったと説明しました。彼らは政策を説明し、それからやんわりと脅迫をしました。つまり私たちは部外者であり、上海を理解しておらず、おそらく上海の法律も理解していない、つまり、上海は他の場所とは異なり、より厳格だということです。彼らは言いました、あなたたちがメディアを続けたいのなら、自分に何ができて何ができないかを知らねばならないと。

意見交換の間で少し論争がありましたが、私は自制していました。彼らが権力者としての優越感と、強い自尊心を持っていると感じました。国保の工作員の1人が、「あなたが私たちをどう思っているか知っている」と言いました。私は「何も言っていません」と答えました。すると彼は「あなたたち知識人の方が我々より物事をよく知っていると思ってはいけない。我々はあなたたちよりも我々の国を守る方法を理解している」と言いました。私は彼らを怒らせたくなかったので、雰囲気を和らげ、彼らを送り出しました。

約1週間後、レポートのコピーが編集部と編集長に届けられました。それは工作員が私に言った陰謀説を繰り返していました。そして、それは公式の国家安全文書になりました。
(注:汕頭文化革命博物館は2016年に封鎖された)

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