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檻の中の自由/「南方週末」元ニュースディレクター長平氏へのインタビュー

広州での長平氏広州での長平氏

改革開放20周年

改革開放20周年、だが何を記念するか?

私が南方週末に到着した直後、1998年12月18日に大きなイベント、すなわち中国の改革開放20周年に遭遇しました。20年前の1978年12月18日、中国共産党は北京の京西賓館で11期3中総会を開催しました。この会議は改革開放の方向性を定める重要な決定をしたと考えられており、改革開放の記念日とされる歴史的な日となりました。それゆえ10年ごとに非常に重要な記念日で、中国のメディアはこれを報道します。もちろん、主な仕事は中国を賛美することです。

南方週末でも企画会議を行いました。でも、何を記念するのでしょうか?「改革開放」という言葉は、かなりの程度、半分は真実、半分は虚偽でした。確かにかなりの程度の改革と開放がありました。しかし、共産党は当初から、改革や開放をしない面があると決めていました。それまでの党のレトリックは「漸進的な改革と漸進的な開放」でしたが、実は20年を経て振り返ると、政権の安定に影響を与える可能性のある部分については、改革も開放もしなかった。そこで、「改革開放」という言葉は避けることにしました。私たちは、改革開放は真実と虚偽が混じった概念であると考え、「思想解放」という言葉を選びました。思想の解放も不完全でしたが、歴史的な事実として、改革開放よりも真実に近いものでした。

編集部は、思想解放はいわゆる改革開放の20年の中で最も重要な問題だと考えたため、記念号のテーマを「思想解放20周年」としました。

私が受けた仕事は、フロントページに掲載される記念の文章を書くことでした。当時、南方週末はすでに改革開放の橋頭堡、自由と民主主義の旗振り役と見なされ、大きな影響力を持っていました。フロントページの文章を書くことは、当時の編集部の私に対する信頼と期待を示しており、壮大な歴史的視点と状況にふさわしい高尚な表現を備えた作品であることが期待されました。

私はそれまで十数年コラムを書き、多くの調査報道もしました。さらに小説を書き、出版したこともあることから、この任務を達成できると(編集部は)考えたのでしょう。編集部は執筆を私に任せましたが、この仕事全体は編集部のものなので、この社説を書くためのサポート役として、十数人の編集者と記者が割り当てられました。さまざまな資料を探す人もいれば、党の歴史を掘り起こすことや、人民日報を読み込む人、さらに海外からの情報収集を担当した人もいました。すぐに資料室の大きなテーブルに資料が山積みになりました。そして皆が去り、それをすべて読むために私1人が置き去りにされました。同僚が私を同情的に見ながら、「では私たちはここで失礼します」と言ったのを覚えています。

しかし、その時私が感じたのは、改革開放について宏大な歴史的視点から論ずるために、その莫大な記録と議論の海に目を通す必要はないということでした。そこで、私は編集部と話し合うことなく、自分で決断しました。私は別の種類の記事、その歴史的な分岐点での中国人の日常生活や普通の人々の運命についての記事を書くことにしたのです。

でも、取材に出かける時間はもうありませんでした。その時、南方週末が「私と20年」という題名のエッセイを求める呼びかけに対して、何百人もの読者から寄稿を受け取ったことを思い出しました。そこで私はすべての寄稿を受け取り、読み始めました。それはまるで豊かな鉱山でした。全部読むことはできませんでしたが、連絡先を書き残した、興味のある話を選びました。また、20年前の全国の新聞から普通の人々の日常生活の詳細を収集するよう同僚に依頼しました。そして私は電話インタビューをしました。

そして「20年前の12月18日」という非常に短い記事を書きました。それは誰もが予想していたものではなく、驚きをもって迎えられました。記事には、当時上映されていた映画、天気予報、北方、南方、中部の人々が食べていた食事、散髪費用などが記載されていました。そして20年前のその特定の日の人々の行動が書かれていました。

例えば、中国青年報の思想評論部の編集者だった馬立誠氏が、数人の友人とアパートで夕食会を開いたことについて書いています。参加者の1人の妻は、1976年4月5日の周恩来の死を記念した、四五運動として知られる天安門での抗議活動で逮捕されました。馬立誠氏は、白菜のスープがテーブルの上にあり、ビールは店でどこにも手に入らなかったことを覚えていました。しかし、彼らは楽しい時間を過ごし、パーティーは夜中の1時まで続きました。

もう1人、京西賓館で歴史的会議が開かれた時、50歳の理髪師楊奔さんは仕事で忙しく、子供は2.5角(0.25元)、坊主頭は3角、他は3.5角だったと説明しました。

広州の工場の学校の先生がその日の食事を日記に記録し、それを読んでくれました。朝食は茶漬けに漬物、昼食はキャベツと豆腐、夕食はきゅうりの漬物を添えたスクランブルエッグでした。

こうした記録から見えるのは、変革を切望しつつも、全体主義の下で自分の運命に無力だった人々です。

「20年前の12月18日」「20年前の12月18日」

この例から、南方週末の編集者と記者に多くの自由が与えられたことが分かるでしょう。あなたは与えられた課題に、自分自身の考えに従い、自分が集めた資料とインタビューを基にどのような文章を書くか決めることができました。宣伝面での要求も、形式上の制限もありませんでした。それは創造性が発揮できる自由な領域であり、記者や作家として自由に表現したいという私の欲求を満たし、人々の生活や運命、私の関心も満たしました。それはまだ私の意識の中で秘められていた渇望でしたが、徐々に明らかになっていきました。

宣伝部が3人の記者の異動を命じる

南方週末では、記者としての仕事をとても楽しんでいました。私は全国を旅し、上から下まで各方面からこの国と触れ合いました。私の計画は中国の全ての場所をカバーすることでした。同僚と私は長期取材を計画していましたが、南方週末が大きな変化によって動揺したため、その計画はすぐに中止されました。

共産党中央宣伝部によって厳しく批判されたのです。南方週末はその変容以来、南方週末は広東省の宣伝部や中央宣伝部から批判されていました。しかし今回、1999年1月、中央宣伝部は3人の編集者を南方週末から追放するように特に命じました。一人は当時のニュースディレクター(新聞部主任)の沈灝(シェン・ハオ)、もう一人は消費者ページの編集長である曹西弘(ツァオ・シーホン)、そして最後はコラムニストの鄢烈山(ヤン・リエシャン)でした。

沈灝は腐敗防止の報道に力を入れていました。曹西弘の消費者ページは、消費者の権利と利益のために戦いました。これは、国内で最も早い取り組みであり、消費者の権利の観点から、中国国鉄、中国電信、銀行業界など、中国の独占的な国有企業の慣行と繰り返し戦っていました。たとえば、携帯電話会社がなぜ送信と着信の両方に課金するのか、また、なぜ費用が非常に高いのか。さらに、列車の運賃はなぜ値上げするのか、なぜ管理部門は消費者を犠牲にして鉄道部門の利益のみを保護するのか、といったことです。

鄢烈山は、時事問題について批判的な立場から多くの記事を書いていました。当時の南方週末では、私たちの目標は人々のために働き、汚職を暴露し、報道の自由を擁護し、政治改革を促進することだと組織全体が一致していました。そのために、これらの3人のメンバーは多大な貢献をしました。

新聞社の幹部たちは、できるだけ彼らを守ろうとしました。指名された3人のうち、沈灝は去らなければなりませんでした。彼を保護するため、一時的に南方日報の他の部門で働いてもらうことにしました。鄢烈山は、オフィスに来るのではなく、自宅で仕事をし、ペンネームで記事をするように求められました。やがて、読者は、南方週末の劉友徳という新しいコラムニストが鄢烈山のようなことを書いていることに気づきました。

曹西弘が編集した消費者版曹西弘が編集した消費者版

曹西弘の仕事は家ではできませんでした。彼の仕事の大部分は、記者を派遣し、多数の読者の手紙を読み、記事にして発表することでした。彼はオフィスで働かなければならなかったので、私たちが思いついた解決策は、彼を日中は寝てもらい、夜に働いてもらうことでした。

これが、南方週末が中央宣伝部の命令に対処した方法でした。新聞が記者や編集者を保護ために非常に勇気を持っていたことが分かります。

そこで、曹西弘は夜にオフィスに来て、日中は家で寝ました。コンピュータ入力や植字のような他の部門は、彼の昼夜逆転の仕事に対応しなければなりませんでした。さらに日中オフィスで事務処理をし、新しい編集長のふりをするアシスタントを手配する必要がありました。

読者が消費者ページの編集者を探してニュースルームに来ることがありました。さらに重要なことに、宣伝部門が手先を送って、誰がページを担当しているかを確認するためにランダムなチェックを行うのではないかと心配していました。そのため編集者のふりをする人が必要でした。

ある日、見知らぬ人が消費者ページの編集長を探して編集部にやって来ました。アシスタントは、「私が編集者です」と言いました。男は「私は曹西弘を探しています」と答えました。「私が曹西弘です」「いいえ、あなたは曹西弘ではない。私は彼の中学の同級生です」。そのような笑い話がいくつかありました。

1年以上たち、南方週末は曹西弘と鄢烈山を復帰させました。しかしより重要なポスト、ニュースディレクターはこのようにすることは困難だったので、沈灝の後任を決める必要がありました。

ニュースディレクターに任命される

私は時事問題について10年以上書いていたので、適切な候補者の1人と見なされました。南方週末では、私は読者や同僚に評価された報道を行い、論説も執筆しました。しかし、2つの障害がありました。1つ目は、私は南方週末に来てからわずか6か月の新参者だったということでした。もう1つの大きな障害は、当時の中国のほとんどのメディアと同様に、同紙には2つのカテゴリーの従業員がいたことでした。1つは正規の職員、もう1つは非正規の職員でした。

当時、南方週末はすでに非常に有名で、象徴的なメディアでしたが、その内部のシステムの一部は依然として非常に硬直化していました。私が行く前は、正規の給料は非正規の2倍でしたが、同紙の評判を高め、改革開放を推進しようとドラムを打ち鳴らしていたのは新しく来た、非正規の記者でした。

非正規の職員として、私は管理職に任命されることはできませんでした。これは、幹部を選別および制御するためのシステムでした。しかし、当時、他に適切な候補がいなかったため、経営陣は私と、同じく非常に若い編集者である陳菊紅を副ニュースディレクターに任命しました。私たちはこの肩書でほぼ1年間働きました。

ただし、1999年までに、南方週末は内部改革を実施しており、その1つは正規職員と非正規職員の「同一労働同一賃金」、平等な待遇でした。1999年末の年次総会で、一部の編集者や記者は私をニュース部門のディレクターに任命するよう要求しました。彼らは編集長と対峙し、ストライキをすると脅かしました。編集長は、南方報業集団の許可を得た後、私がニュースディレクターに就任したことを発表しました。

もちろん、それは私にとって大きな名誉でした。今日まで、私は南方週末、さらに南方報業集団の他の新聞の歴史の中でも、体制外の非正規のスタッフから選ばれた唯一の中堅幹部でした。

ベオグラードの中国大使館のNATO爆撃に関する社説

1999年1月から、私はニュース部門の管理を担当しました。私は、ニューストピックの選択、記者の割り当て、編集者と記者の仕事の評価、およびさまざまなページのチェックを担当しました。実際には南方週末のニュース制作に関連するほぼすべての責任者でした。その間、私はまだ報道に興味を持っていたので、私はほぼ毎週末に取材に出かけました。

この期間中に、私自身が企画、あるいは参加した、言及する価値のあることがいくつかあります。それらは当時の南方週末の状況を反映しています。

「ミサイルよりも強い力」「ミサイルよりも強い力」

1つは、1999年5月の旧ユーゴスラビア連邦共和国の中国大使館に対するNATO爆撃の報道でした。これは、全国にナショナリズムの波を引き起こした事件でした。中国人が、抗議するために一斉に街頭に出ることを許可されたのは1989年以来初めてでした。若者の中には後に、自分たちを「ユーゴ大使館爆撃の世代」と呼ぶことを好む人もいました。この事件が当時の大学生の思考や行動に影響を与え、その影響が何年も続いたと考えられています。彼らの前には、中国の自由と民主主義を促進したいと考えた天安門世代がいました。89年の後の10年間、中国共産党はその思想教育の方法や内容を変更し、中国の経済発展と相まって、ナショナリズムの新世代を生みました。

NATOの下での米軍機による爆撃は非常に突然起こったので、それは本当に衝撃的でした。3人のジャーナリストが殺された。メディアの報道は、衝撃とそれに伴う反米感情にほぼ集中していました。「怒り、涙、血! 私たちは決して忘れてはならない!」インターネット上の感情は、目には目を、歯には歯をというものでした。

南方週末では、ショックを受けただけでなく、冷戦後の平和における紛争のリスクについても心配していました。一方で、共産党がこの事件を利用してナショナリストの感情や愛国教育を強化しようとしており、国民の間に非理性的な声や行動が出ていることを知りました。そのため、トップページの主見出しは「比導弾更強大的力量(ミサイルよりも強い力)」、社説の見出しは「没有高度的紀念碑(高さのない記念碑)」とする、慎重な一連の報道をしました。

この社説では、3人のジャーナリストを失ったことに対する悲しみと哀悼の意を表し、暴力を非難しました。しかし、報道や社説の核心は、人々に理性と平和を保つよう呼び掛けることでした。社説は次のように訴えました。「私たちは平和と人類の旗を掲げるべきです。平和は大地に築かれなければならず、人々の心に根ざさなければなりません。この世界には巡航ミサイルや高性能の爆弾よりも大きな力がある。それは正義、良心、そして理性です」。

社説はパスカルを引用しています。「なぜあなたは私を殺そうとするのか?私は武器を持っていない。友よ、あなたが川のこちら側に住んでいたら(あなたを殺せば)私は殺人者になるでしょう、そしてあなたをそのように殺すのは不当でしょう。しかし、あなたは川の対岸に住んでいるので、私は英雄であり、あなたを殺すのは正義なのです」。パスカルがこの川を境界線とした奇妙な正義を語る時、彼は正義や良心、理性によって判断することを読者に望み、国や民族、川の境界によって敵味方にならないよう望んでいるのです。

当時のこの事件に対する全国のメディア報道の中で、南方週末によるこの報道は、その形式から内容まで、非常に独特でした。婉曲な言い回しでしたが、読者は違いを感じ、受け入れました。この号は発売後ただちに売り切れ、150万部を売り上げました。これは、南方週末の歴史の中で私が知る限りで最高の売り上げです。中国の新聞の発行部数はすべて水増ししていますが、150万部の売り上げは本物でした。

新聞が出た後、広州の路上にある新聞売り場に行きました。他の新聞がナショナリズム、さらには憎しみを扇動している一方で、南方週末は際立って対照的であることが分かりました。私は南方週末を心の底から誇りに思いました。

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