特別記事

檻の中の自由/「南方週末」元ニュースディレクター長平氏へのインタビュー

ベルリンの壁と長平氏ベルリンの壁と長平氏

2008年、チベットについてのコラムで攻撃を受ける

私は2005年末に広州に戻り、「南都週刊」を創刊しました。南都週刊は都市のニュースや文化に注目したメディアでしたが、報道の範囲は当初の狙いから外れていきました。当時、中国は市民権運動やNGOが出現し、新しいアイデアが生まれました。南方報業集団傘下の出版物はこれらの新しい発展に非常に興味を持ち、南都週刊のこの分野のルポルタージュも際立っていました。南都週刊の編集長として、また南方週末や南方都市報のコラムニストとして、市民社会の概念について読者に伝えるように努力しました。また、メディア以外の組織と組んで、この問題に関するパネルディスカッションやワークショップを開催しました。

2008年になりました。08年は非常に重要な年でした。中国は初めてオリンピックを主催することになっていました。世界は、中国が世界と統合し、国際ルールをさらに受け入れるだろうと期待していました。中国の民間社会は別の希望を抱いていました。つまり、中国の民主化を促すということです。08年に誕生した「零八憲章」は、その希望を具体化した重要な文書でした。

しかし、中国共産党にとっては、08年は別の意義がありました。08年以前の共産党は、「自分の能力を隠し、時間を稼ぐ」(韜光養晦)ことと「国際社会の軌道に接続する」(与国際接軌)という方針を取っていました。ところが08年以降、中国共産党は自らが世界の中心となることを目指すようになりました。07~08年の世界的な金融危機の後、共産党は人々に中国のシステムが資本主義よりも優れていると宣伝することができると気づきました。中国はその力を集中して大きなことを達成できる、オリンピックを主催できるだけでなく、世界の他の国々が金融危機を乗り切る手助けができるというのです。したがって「中国の夢」の始まりは、習近平が共産党を掌握した12年ではなく、08年でした。

08年は世界が最も中国を誤解した年なのです。

08年は私にとっても非常に重要な1年だった

個人的にも、この年は私にとって非常に重要でした。4月中旬のある日、私はレストランで食事をしていて、友人からネットを見るようにと携帯のメッセージを受け取りました。彼が送ったリンクを開いて驚愕しました。私が最近書いたウェブサイトの見出しの記事には、40万回以上の閲覧と2万件以上のコメントがあり、その約90%が私を批判、非難、叱責、さらには脅迫するものでした。それはフィナンシャル・タイムズの中国語版に掲載したコラムでした。

その年の3月14日、チベットのラサで抗議行動が勃発しました。チベット人は、世界が(中国を)注目するこの年に、自分たちの権利を世界に向けて訴えたかったのです。事件は欧米のメディアで広く報道され、海外の一部の中国人学生は、CNNの報道に誤りを見つけ、「事実を歪曲し、中国を中傷した」として非難しました。彼らは反CNNキャンペーンを開始しましたが、CNNだけでなく、ラサ事件を報道する米国、英国、フランス、ドイツなど多くの西側メディアが反中国報道を行っていると信じていました。

私はメディア業界のプロとして、この事件をニュースのテーマに取り上げられるのではと考えました。チベット問題は中国では敏感なテーマであることはよく知っていましたが、ジャーナリストとしてのキャリアの中で、地面に箱を描いて自らを投獄する(自己規制する)べきではないと常に信じていました。また、私たちの言論の自由は絶えず変化する檻であり、あなたがそれを大きくする努力をしなければ、それは縮小し続け、あなたを制限し続けると信じていました。

4月初め、私はFT中国語版に「チベット:真実とナショナリズム」(西藏:真相与民族主義)というタイトルの記事を書きました。私は慎重に二つの点を指摘しました。まず、誰もが報道の真実性に関心を持っていますが、メディアは完璧ではなく、間違いを犯す可能性があることを理解する必要があります。しかし、言論の自由のある社会では、中国の留学生がしたように、私たちはそれを公然と訂正し、反駁することができます。より多くの情報が広がるほど、誤りが修正される可能性が高くなります。しかし、我々は報道の統制が、誤報よりも深刻な問題であることを認識する必要があります。外国人記者が追い出され、中国中央テレビ(CCTV)だけが独占的に報道することが許可され、国民がCCTVの報道に反論することを禁じられ、真実を探求する機会を奪われた場合、私たちはより深刻な問題に直面するのです。

私が言った第2の点は、少数民族が抗議している時、「私たちはあなたに多くのお金を与えたのに、なぜあなたはまだ満足していないのか?」と言って責めるべきではなく、むしろ平等な立場で彼らの声を聞くべきだということです。さらに言えば、チベット人が尊敬する宗教指導者であるダライ・ラマ法王を「羊の服を着たオオカミ」と無礼な呼び方をすべきではない。このコラムでは、これら二つの点について説明しました。

「チベット:真相とナショナリズム」「チベット:真相とナショナリズム」

記事はいくつかのウェブサイトのトップに掲載されましたが、記事を最もプッシュしたウェブサイトは、ナショナリズムを扇動するいわゆる「愛国的ウェブサイト」でした。彼らは実際にはこの事件を利用して、自由主義の知識人と南方報業集団を攻撃しました。しかし、ネットでは反論も多く、両派が対立する状態でした。

私はすぐに脅威を感じ、急いでネットから家族や出身地などの個人情報が含まれている以前に書いた記事を削除しました。ただ同時に、記事が論争を引き起こしたのを見てうれしかったです。残念ながら、私はすぐに、両者が議論する場が平等に与えられていないことに気づきました。

私は反論を書き、もし平等の立場で議論できるならいいことであり、さらに私の支持者は声を上げている人ほど少なくはないと指摘しました。この問題について語り、私の見解を支持するのは危険だという理由で声を上げていないのです。言い換えれば、プロパガンダは暴力によって支えられているのだと、その時感じました。

北京晩報に載った長平氏への批判記事北京晩報に載った長平氏への批判記事

4月11日、北京晚報は「『デマを流す自由』を行使する南方都市報の長平」という記事を発表した。中国では、党のマウスピース(宣伝機関)が個人を攻撃する時、特にその人を名指しすることは異常な出来事であり、その目的は議論に参加することではなく、政治的な風向きを伝えることだということを誰もが理解しています。

この記事は、私の「言論の自由」はショッキングなだけでなく、恐ろしいものだと言っています。記事は「文峰」というペンネームで出されました。数カ月後、北京日報報業集団の社長、梅寧華は、別の共産党メディアのインタビューで自分が「文峰」であり、自ら私を批判する記事を書いたと誇らしげに語りました。それは政治的な脅迫だと私は感じました。

また、多くの匿名の電話がかかってきました。電話は2種類ありました。乱暴に罵倒し、電話を切るのと、もう一つは「気をつけろ」と私を脅迫するもので、さらには直接お前を殺してやるというものもありました。

米デューク大学の中国人学生、王千源米デューク大学の中国人学生、王千源

ラサの抗議に関して中国のインターネット上で広まった別の事件がありました。米国のデューク大学では、新入生の中国人学生、王千源(Grace Wang)が、チベット人の権利運動を支援したとして、中国人留学生や中国ネット市民から攻撃されました。彼女の家族の住所がすぐにネットで晒されると、彼女に対する攻撃はより激烈になり、彼女の殺害を命じ、家族を攻撃しようとの呼び掛けもありました。彼女の両親は、ホテルに隠れ、誰かが自宅のドアに排泄物をぶちまけました。

環球時報の英語版の記者はブログで、FTの記事を書くために、長平が米国政府から40万ドルを受け取ったと主張し、読者にウィキリークスからもっと情報を得るようにと指示しました。

当時、ウィキリークスには中国の反体制派に関するいくつかの情報が出現していました。私の名前は、他のいくつかの名前とともに、「レベル2保護」として出ていました。事の真実は、北京の米国大使館が、私や賀衛方など、さまざまな時点で何人かの公共知識人と会ったということです。それは彼らが中国社会を理解するためでした。彼らとの会談で、公の場で言えないことは何もない、秘密などはないと率直に話しました。私は常に表現の自由と情報の公開を提唱してきました。しかし、彼らの手順のどこかで、ホワイトハウスに報告した文書の中で奇妙にも私たちに「レベル2保護」のマークを付けました。彼らは私たちを保護したことはなく、私たちも彼らの保護を必要としませんでした。彼らは私たちを保護しなかっただけでなく、自分たちの文書も保護しようとせず、ウィキリークスによって暴露されてしまいました。

中国のインターネットには、私の腐敗した私生活を暴露するという写真も掲載されていました。私の写真が、日本のポルノスターと一緒いるかのようにフォトショップで加工されるという、笑い事のようなものでした。

しかし、南方報業集団にとって、それは笑い事ではありませんでした。宣伝部に関する限り、これは政治的な事件でした。その後間もなく私は解雇され、再びジャーナリズムの最前線から外され、主任研究員として南部メディア研究院に異動しました

国家安全省の訪問、南方集団から追い出される

2009年1月、私は有名な知識人のグループと一緒にインドに旅行しました。私たちの計画には、ダラムサラでのダライ・ラマ法王への訪問が含まれていました。しかし、私たちがニューデリーに到着するとすぐに、グループの1人のメンバーが中国から電話を受け、ダラムサラを訪問しないよう言われました。そこで私たちは計画を変更し、代わりにインドの他の場所に旅行しました。

2010年5月、広東省の2人の国家安全省の職員が私に会い、1時間以上私と話しました。彼らはすぐに私に、彼らは任務を実行するために来たと言っただけでなく、いくつかの政策に関する情報を私に伝えました。彼らは、私が党の方針を理解し、ジャーナリズムの規律を遵守し、記事を書く前によく考えてほしいと言いました。また、私が中国の困難を理解しなければならず、海外の反中国勢力に気をつけるべきだと言いました。彼らは、私が広州にいたことに感謝すべきだと言って脅迫しました。もし私が北京や上海にいたら、彼らはここに座って私に話しかけることはなかったと。

私は彼らに反論しました。男女の2人の職員は、「私たちは任務を実行するために来たのだ、そして任務を遂行した」と言いました。つまり、それは議論の余地はないということです。

彼らは去り際にもう一度、自分たちは任務を果たした、すでに私にメッセージを与えたと言いました。そして「あなたは私たちのメッセージを受け取ったか?」と尋ねました。私は受け取ったと言いました。やり取り全体が口頭で行われ、書面には残されませんでしたし、私の署名も何もありませんでした。

2010年の夏までに、南方都市報は私が国家安全部の調査に基づいて2010年にインドに旅行し、ダライ・ラマに会ったので、私は南方報業集団を完全に去るように求められていると私に言いました。私はその場でパスポートを取り出して見せました。2010年はインドに行ったことがありませんでした。数カ月後の2011年の初めに、彼らは私を再び呼び出し、関連機関の命令により、私は南方報業集団で働くことができなくなり、私の契約を更新しないと言いました。

事件はすぐにニュースになり、ニューヨークタイムズ、ガーディアン、および他のメディアが報じました。

香港でのメディア創刊と、当局による労働許可の拒否

2011年の初めに、私は香港バプテスト大学から駐在記者および訪問学者として招待を受けました。私が香港に着いた直後、中国政府はジャスミン(革命)の大量逮捕として知られる、何十人もの人々を拘束しました。何が起きたのかというと、アラブでのジャスミン革命に続いて、中国でもソーシャルメディアで集会を求める呼び掛けがありました。このことに中国政府は神経を尖らせました。

彼らは、呼び掛けをした人を特定できませんでした。代わりに、彼らは弁護士、人権活動家、艾未未、冉雲飛ら知識人を拘束しました。彼らは密かに拘束されました。その後、私たちは彼ら一人一人がひどく拷問されたのを知りました。

ある日、誰かから電話があり、私も逮捕者リストに載っているので、中国本土に戻らないように言われました。著作以外は何もしていない、ジャスミン革命とは無関係だったので、当時は本当に信じていませんでした。

当時、私は週末に広州の家族に戻っていました。妻と娘は広州にいて、娘は1歳になったばかりでした。警告を聞き入れるかどうか迷っていた時、フランスの団体から文化イベントの招待状を受け取り、そこで私は行きました。余華、展江、于建嶸(ら作家や学者)もこのイベントに参加しました。パリにいる間、警察は四川省の私の実家に行きました。その時、警告が本物であり、中国本土に戻ることができなくなったと分かりました。そこで私は香港にとどまることにしました。

「陽光時務週刊」「陽光時務週刊」

香港にいる間、何人かのジャーナリストと私は「陽光時務週刊」(iSunlight Affairs)という新しい雑誌を創刊しました。本土から来た数人の編集者と記者が香港の労働許可を取得しましたが、編集長である私は得ていませんでした。我々は香港の入国管理局に繰り返し問い合わせを行い、毎週手紙を送りました。そして毎週、「まだ処理中です」という同じ内容の返事を受け取りました。しばらくして、私たちが受け取った返事に変化がありました。香港当局は、私が香港バプテスト大学から6,000香港ドルの奨学金を受け取ったため、大学での訪問学者の地位が違法就労かどうかを調査しているというものでした。

調査は際限なく遅いようでした。私の中国のパスポートでは、香港に1週間しか滞在できず、就労許可がなければ、毎週末に香港を出て、周辺国を旅行し、次の1週間のために戻ってくる必要があり、非常にコストがかかりました。ある時、入管の検査官から、マレーシアから来て、またマレーシアに行くことはできないと言われました。私は彼に第三国、例えばカンボジアに行くことができるかどうか尋ねました。彼は可能だと言いました。そこで、次の週末、私がカンボジアに行くために香港を出ていたとき、私は再び遮られました。検査官は、もう香港に戻ることができない、中国本土に戻らなければならないと言われました。私は彼らに言いました、私はもう本土に戻ることができない、と。

それから彼らは私のパスポートに2つの✕が付けられました。私は香港を出てカンボジアに行きました。私はドイツのハインリッヒ・ベル財団からの招待を受けるまでそこに1か月滞在し、その後カンボジアを離れてドイツに向かいました。

ハインリヒ・ベル・ハウスハインリヒ・ベル・ハウス

ドイツ到着後、アーティスト・イン・レジデンスのハインリヒ・ベル・ハウスに1年間滞在し、その後もドイツに残りました。私は現在ドイチェ・ヴェレのコラムニストを務めています。私の滞在中、中国の国家安全省は3回仲介人を送り、私に中国に戻るように求めました。私が断ると、彼らは私が中国に戻りたくない理由を理解しているが、私に会うためにドイツに来るのは不便なので、第三国であるシンガポールで私に会いたいと伝えてきました。私は彼らのメッセンジャー、香港と本土の両方に住んでいる有名なコメンテーターにノーと言いました。

ドイツにいる間、私は2013年まで「陽光時務週刊」の編集長の役割を続けました。その後間もなく、雑誌の発行人、陳平氏は香港の路上で野球のバットを持った正体不明の2人の男に襲われ、雑誌は停刊しました。

中国のインターネットから一掃される

2004年から2010年の間に、私は、中国新聞週刊、瀟湘晨報、新聞晨報、FT中文網など、多くのメディアに定期的にコラムを書きました。南方週末や南方都市報のほか、新京報、時代週報、南方伝媒研究、天涯雑誌、香港の明報にも不定期で執筆しました。

その間、さまざまな中国の主要なウェブサイトに多くの私のブログがあり、それらのほとんどはサイトの編集者またはボランティアのネットユーザーによって運営されていました。2008年から、私の執筆はオンラインで制限され始めましたが、2010年以降、当局は私が書いたすべてのものを中国のインターネットから一掃しました。今日、中国で「長平」を検索すると、地名の長平、または(明代の)長平公主しか見つかりません。

近年、往時の南方週末について回顧する文章を書いている多くの元同僚がいます。彼らは私が在籍した時の人々や事件について、さらには私が書いた記事についてさえも、私がまるで存在しなかったかのように、私の名前を決して言及することはありません。

南方週末の衰退

数年前、改革開放時代の中国メディアについて台湾で出版された本(注:「具有中国特色的新聞自由」2010年)は、1996年から2002年が南方週末の最高の時代であり、その期間の編集者と記者は「黄金世代」であったと匿名の情報源を引用し記述しました。そのジャーナリストのグループは、2001年から2004年の間に辞任または異動、転職しました。

2002年、編集長の江芸平、副編集長の銭剛、およびニュースディレクターの私がすべて解任された後、新しい編集長は南方日報から来た向熹(シャン・チー)でした。向熹は非常に懸命に働きましたが、彼の価値観は彼が来る前の南方週末と完全に対立していました。彼が編集長だった05年に、十数人の記者が一斉に辞任し、大幅な賃金削減と新聞社の方向性に抗議しました。南方週末の売上高も、私が去った後に秘密になり、従業員に知らされることはなくなりました。

しかし、向熹でさえ党にとって十分ではなく、彼も09年末に異動させられました。彼の後継者である張東明(チャン・ドンミン)は、広東省党委員会宣伝部から直接来た人で、宣伝部の新聞部門の責任者を務めていました。

12年、新華社の庹震(トゥオー・チェン)副局長が広東省党委員会の宣伝部長に任命されました。彼はメディアをより厳密に管理し、南方週末や南方都市報の集中管理を実施しました。それまで、行政レベルでは最下位の部門である南方週末は、すでに10年以上にわたって異なった扱いを受けていました。つまり、科級単位(課レベルの組織)として、親新聞の南方日報によって管理されるべきでしたが、広東省では南方週末は広東省党委員会宣伝部による直接の検閲を受けていました。北京では、南方週末の北京駐在記者の責任者がしばしば中央宣伝部に会議のために呼ばれていました。

庹震が省の宣伝部門の責任者になると、南方週末と南方都市報の検閲はさらに強化され、出版後の検閲から出版前の検閲に変わりました。「両南グループ」と呼ばれる検閲チームが結成され、2つの新聞の記事や解説を発行前に具体的に検閲し、このチームが許可した記事のみが発表を許されました。2013年、南方週末の記者と編集者は、編集部の同意なしに、庹震の命令に従って新聞の新年の社説を書き換えたことに抗議しました。

2013年南方週末新年社説書き換えへの抗議活動2013年南方週末新年社説書き換えへの抗議活動

この事件は国際的な注目を集め、一般市民や活動家による抗議があった。残念ながら、それはおそらく、南方週末のジャーナリストと編集者が検閲に反抗した最後の事件でした。

2年後、庹震は中央宣伝部の副部長に昇進しました。2018年に、彼は再び人民日報の編集長および共産党中央委員会の候補委員に昇進しました。

中国では、メディア管理システムは多面的です。一方では、宣伝部からの命令に違反した編集者と記者は、軽微な違反に対しては罰金を科され、重大な違反に対してはニュース部門からの配置転換、さらには投獄される可能性もあります。しかし、幹部クラスは、大部分は事態が厳しくなり、投獄される前に解雇されるでしょう。

一方、従順なメディアワーカーには報酬が与えられます。第1に昇進であり、次に金銭的な報酬が与えられます。新しいメディアが発展するにつれて、金銭的報酬のやり方もますます多くなっています。ライセンスやポストの管理を通じて、宣伝部門に協力する人々は多くの利益を得られるようになり、私の過去の同僚の中には、億万長者になった人もいます。

私はここ数年、執筆をやめたことはありません。私の仕事は世界の同業の仲間から認められ、支持されています。CJFE 2016 International Press Freedom Awardの式典での私の受賞演説で、私は言論の自由はすべての始まりであり、言論はそれ自身が自由だと述べました。亡命生活はとても大変です。しかし、作家として、私は故郷とは何かということをいつも考えています。故郷とは、生まれた場所や、ある国の言語というだけではありません。ものを書く人間にとって、故郷とは自分が話す言葉の中にあるのです。

後記

長平氏とのインタビュー旅行はベルリンの壁で終わり、そこで「ベルリン1933-1945、プロパガンダと脅迫の間」という展示を見に行きました。残念ながら、展示は最近取り換えられていました。カタログのコピーには次の一言がありました。「オーウェルは、すべての著作は宣伝だと言った」。学生グループや観光客の間で壁に沿って歩きながら、長平は言いました。「そうかもしれません。しかし、その背後に暴力による脅迫がなければ、言論は自由なのです。恐怖によって強制されるとき、嘘は広まるのです」。

—「チャイナ・チェンジ」編集長、曹雅学

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