パラダイムシフト──社会や経済を考え直す

第39回

バスク式社会的経済とカタルーニャ式連帯経済の違い

 私はこれまで、スペインの社会的連帯経済について何度も書いてきましたが、スペインの中でも特にこの運動が活発なのは、バスクとカタルーニャの両州です。スペインの中でも経済的に豊かで、また独立運動でも知られる両地域にはある程度共通点もありますが、その一方でその社会構造や文化には大きな違いがあるのも、また確かです。スペインは国内の多様性が非常に大きい地域であり、バスクとカタルーニャの間でも、ましてやそれ以外の地域との間ではさまざまな違いがあるので、十把一絡げの粗雑な議論を防ぐべく、今回は両地域の違いにスポットを当てようと思います。

スペインにおけるバスクとカタルーニャの位置スペインにおけるバスクとカタルーニャの位置

 両州はどちらもスペイン北部に位置していますが、スペイン国内での地域区分では別の地域になります。スペイン北部にはカンタブリア山脈と呼ばれる山脈があり、その北に位置する4州(東からバスク州、カンタブリア州、アストゥリアス州とガリシア州で、北部というと通常この4州を指す)は降水量が多く西岸海洋性気候となっており、地中海気候の他地域とは植生が大きく異なっています(日本風にいうなら、冬の新潟県は積雪が多い一方、山を越えた関東平野では空っ風が吹く感じ)。マドリードやバルセロナからバスクを訪れると、青々と茂る緑の多さに感銘を受ける人が少なくありません。その一方カタルーニャは典型的な地中海性気候の地域で、気候的にはスペインのみならず、南仏やイタリア、ギリシャなどと非常に似ています。地域区分としては、南隣のバレンシア州やさらにその南のムルシア州、そして地中海に浮かぶバレアレス諸島とともにレバンテ(東部)に属すことになります(ムルシア州は南部扱いされることもあるが)。

 この地政学的な違いにより、両州の指向性の違いも説明できます。バスク州は伝統的に漁業が盛んな地域で、バスク人は魚を追い求めて大西洋各地へと航海に出かけていました。北米には、カナダのニューファンドランド島に隣接する形で、今もフランス領のままのサン・ピエール・ミクロンという小さな島がありますが、ここの住人はバスク移民の子孫です。また、アジアとの関連で言えば、16世紀の日本までキリスト教を伝道しに来たフランシスコ・ザビエルや、フィリピンをスペインの植民地にしたミゲル・ロペス・デ・レガスピは、どちらもバスク出身です。その一方で地中海に面したカタルーニャは地中海方面への関心が高く、中世には現在のイタリアやギリシャとの交易で栄えました。今でもイタリア領サルジニア島のアルゲロ市ではカタルーニャ語が使われていますが、これはその当時の名残なのです。

 また、言語面でも両州の間には大きな違いがあります。カタルーニャ語はローマ帝国時代のラテン語に起源を有する言語で、その文法や単語を見ると、スペイン語との共通点も多いですが、むしろフランス語やイタリア語と共通する面も少なくありません。その一方で、ローマ時代以前のことばの唯一の生き残りであるバスク語は、ラテン系どころかインド・ヨーロッパ語族(印欧語族)でさえなく、スペイン語から見た場合バスク語は、英語やドイツ語、ギリシャ語やロシア語、そしてペルシャ語やヒンディー語などよりも疎遠なのです(印欧語族は、紀元前4000年前後に今のウクライナからロシア南部あたりで話されていたインド・ヨーロッパ祖語に由来する諸言語をまとめたもので、印欧語族についての詳細はこちらで。現在のEU域内の言語で印欧語族でないのは、バスク語以外にはマジャール語(ハンガリー)、フィンランド語、エストニア語、そしてフィンランドのサーミ語だけ)。スペイン語しか知らない人にとってのカタルーニャ語が、東京の標準語を母語としている人にとって東北弁ぐらいの難しさだとすると、バスク語はまさにアイヌ語に相当する難しさだと言えます。実際にはバスク語の中にスペイン語起源の単語が数多く存在しますが、それでも両言語の文法は日本語と英語の文法ぐらい全く異なっており、普通のスペイン語話者の場合(そして日本人の場合も含めて)、本気でバスク語を勉強しない限り理解は覚束ないことでしょう。さらに、山がちのバスクではバスク語といっても方言差が大きく、以前は「一山越えるとバスク語が分からなくなる」と言われたほどであり、村を単位とした伝統的で、どちらかというと保守的な共同体意識が今も強く残っています。その一方、特にカタルーニャでもバルセロナは、世界各地のトレンドに敏感で非常に進歩的な気質が強いという特徴があります。

インド・ヨーロッパ語族の分布地図(出典:ウィキペディア)。スペインからフランスにかけての国境地帯にある小さな空白地帯がバスク語圏インド・ヨーロッパ語族の分布地図(出典:ウィキペディア)。
スペインからフランスにかけての国境地帯にある小さな空白地帯がバスク語圏。

 両州の文化的な違いの起源は、ローマ時代に遡ることができます。現在のバスク州にあたる一帯はそれほど重要視されなかったことからローマ化がそれほど進まず、その結果この地域ではバスク語が現在に至るまで維持されることになります。その一方カタルーニャ州はイベリア半島の中でも最も早くローマの支配下に入ったところで、その中でもタラゴナはローマ属州ヒスパニア・タラコネンシスの州都となり、同市には今でもローマ時代の遺跡が残されています(中世以降は、レコンキスタが遅れたタラゴナに代わり、バルセロナがカタルーニャの中心となりますが)。

 イベリア半島史にとって最大のできごとの一つは、711年に始まるイスラム教徒の侵攻です。これによりイベリア半島の大部分がイスラム教徒の支配に入ることになりますが、現在のバスク州からアストゥリアス州にかけての地域はイスラム教徒の支配を受けず、ここに721年に建国されたアストゥリアス王国は、その後合併などを繰り返して今のスペインの一部を構成することになります。その一方、ピレネー山脈南麓の地域は8世紀末にカール大帝によりレコンキスタが行われ、スペイン辺境領として小さな伯爵領が数多く設置されることになりますが、その中から801年にバルセロナ伯領が成立し、後にカタルーニャへと発展してゆくことになります。その一方、この時期の歴史は複雑ですが、基本的にバスクは13世紀からカスティーリャ王国の一部であり続け、バスク人イグナチオ・ロヨラが創設したイエズス会がスペインによる中南米支配やカトリック布教において大きな役割を果たした一方、カタルーニャはアラゴン=カタルーニャ王国の一部として18世紀初頭まで自治権を維持し、特にバルセロナ市内では13世紀以降商工業者などによる百人評議会(クンセイ・ダ・セン)という、一種の市議会による市民自治の仕組みが存在していたのです。

 また、バスクとカタルーニャの違いを知る上で大きな出来事としては、19世紀のカルリスタ戦争や20世紀のスペイン内戦(1936~1939)を忘れるわけにはいきません。この両戦争の時期について、ちょっと解説したいと思います。

 カルリスタ戦争は、フランス革命や産業革命により、伝統的なカトリック教会や大地主による支配から近代資本主義企業支配へと移行していた19世紀のスペインにおいて、前者を守ろうとしたカルリスタと、後者に加えてフランスのような中央集権型の近代国家への転換を目指した自由主義者との間で3度にわたって行われた内戦です。この戦争でバスクとカタルーニャの両州はカルリスタの牙城となりましたが、その中でもバスク州は最後までカルリスタの影響が強かった一方、産業革命が進み工業化が進んだカタルーニャの、特にバルセロナ市内は自由主義者の拠点になってゆき、カルリスタ対自由主義者から、自由主義者(ブルジョワ階層)対プロレタリア労働者という対立構造へと移り変わっていったことも注目する必要があるでしょう。そして、まさにこの文脈から、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、さまざまな協同組合などがカタルーニャで開花することになるのです。

 さらに、スペイン内戦では当初、バスクとカタルーニャの両方が共和国側につきましたが、かなり異なる運命をたどることになります。北部3州(バスク州・カンタブリア州・アストゥリアス州)は共和国の支配が続いたものの、フランコ反乱軍により他の共和国の支配地域と地理的に切り離されたため孤立化し、1年ほどで陥落してしました。それに対しカタルーニャはスペイン共和国の牙城として最終盤まで持ちこたえ、州内各地では経営者が逃げ隠れて不在になった工場や農場などが労働者の手により集産化され、経済史的にも非常に興味深い事例を数多く残されています(その中でも最も有名なのは、バルセロナ市内の路面電車の事例でしょう)。

1937年10月(内戦開始後1年4か月)時点でのスペインの勢力地図(出典: ウィキペディア)。ピンクの部分が共和国側の支配地域で、ベージュ色がフランコ反乱軍の支配地域。1937年10月(内戦開始後1年4か月)時点でのスペインの勢力地図(出典: ウィキペディア)。
ピンクの部分が共和国側の支配地域で、ベージュ色がフランコ反乱軍の支配地域。

 このような文化や歴史を持つバスクとカタルーニャでは、当然ながら社会的連帯経済の発展の仕方も大きく異なっています。バスクでは、確かにモンドラゴンが世界最大の労働者協同組合グループに成長するという快挙を成し遂げており、日本を含む世界中の社会的経済から注目される存在になっていますが、逆にいうとモンドラゴン自体が財閥のように支配的な立場を占めるようになってしまい、大規模化に伴い階層化が進んでいることに加え、発足から60年以上が経過し、当初の組合員の子どもや孫が組合員になっている現在、当初のような労働者による民主的経営という理念がかなり薄れている現状が挙げられます。世界最大の協同組合グループとしてのモンドラゴンは確かに素晴らしい存在であり、社会的経済の可能性を世界に示していますが、その一方で特に社会運動とつながりがあるわけではないため、連帯経済の一員とは言えません。もちろんバスクにも連帯経済は存在し、実際スペインの中でも活発な地域ですが、モンドラゴンの巨大さの前でその存在感がやや薄れがちになっています。

モンドラゴングループの紹介ビデオ(2016年、英語)

 その一方でカタルーニャでは、歴史的な伝統のある各種社会運動と密接に関連した連帯経済が非常に活発で、カタルーニャ連帯経済ネットワーク(XES、シェス)に属する事例数や売上高が伸びているだけではなく、連帯経済の推進に関連した新たな実践例(カタルーニャ連帯経済展示会社会的バランスシートPam a Pamと呼ばれる事例のマッピングなど)も生み出しています。

カタルーニャ連帯経済展示会の報告ビデオ(2018年)

 バスクとカタルーニャは、共通点もありますが違いも多く、またその土地ならではの伝統が社会的連帯経済の発展にも大きく影響していることがお判りになれば幸いです。

コラムニスト
廣田 裕之
1976年福岡県生まれ。法政大学連帯社会インスティテュート連携教員。1999年より地域通貨(補完通貨)に関する研究や推進活動に携わっており、その関連から社会的連帯経済についても2003年以降関わり続ける。スペイン・バレンシア大学の社会的経済修士課程および博士課程修了。著書「地域通貨入門-持続可能な社会を目指して」(アルテ、2011(改訂版))、「シルビオ・ゲゼル入門──減価する貨幣とは何か」(アルテ、2009)、「社会的連帯経済入門──みんなが幸せに生活できる経済システムとは」(集広舎、2016)など。
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