BOOKレビュー

浦辺登氏書評:劉震雲著、 劉燕子訳『人間の条件 1942』

人間の条件 1942

人間の条件 1942
誰が中国の飢餓難民を救ったか
劉震雲著/劉燕子訳
四六判上製本 364頁
ISBN:978-4-904213-37-7 C0097
集広舎刊 定価:1,836円(本体1,700円+税)  
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民の真実は権力者によって葬られる

 不思議なことに、本書は、同一内容の小説、映画の脚本が収められている。訝りながらも読了したのだが、理解が及ばない「空白」が生じた。それは、この作品が抱える問題が複雑、多岐にわたっていたからだ。

 舞台は1942年の中国大陸の河南省。日本では昭和17年にあたる。当時、日本と中国は戦闘状態だった。中国国民党からいえば日本は「侵略者」。日本からいえば中国国民党は治安を乱した欧米の走狗。トップの蒋介石は、米国、英国、ソ連などの連合国軍の一員でもあった。
 事件は中国国民党支配下の河南省で起きた。大旱魃で3000万人が難民となり、300万人が餓死したという。直ちに難民救済を進めるべきだが、蒋介石は連合国軍における地位保全が最重要課題。日本軍との戦闘において功績を挙げることが急務。国際世論に自国の難民救済を要請することは、面子が許さない。3000万人の難民、300万人の餓死者は蒋介石の頭脳が「無かった」こととして処理した。逆に、蒋介石の忠実な部下は軍費調達のため、過酷な徴税を河南省に課すのだった。
 しかし、蒋介石が「無かった」ことにした難民は、日本軍が放出した救援物資によって救われた。「貨幣に色(善悪)はついていない」といって世間は揶揄するが、餓死寸前の難民にとって、食糧の色の識別は不可能。売国奴と罵られようが、危機を救ってくれるものが「善」である。敵対する日本軍が中国民衆を救援したという事実は、本書で初めて知った。従前、日本軍は中国を蹂躙した「侵略者」と教えられてきた。それだけに、驚きだった。
 驚愕するのは、難民の実態である。すでに、樹皮、雑草の類までをも食べつくしていた難民は、娘や若い妻を娼妓として人買いに売り渡す。それも、わずかな穀物と引き換えにである。売り渡す肉親を持たない難民は餓死し、野犬の御馳走になるだけ。大旱魃は1942年だけではない。341ページから347ページにわたって旱魃による悲劇がズラリと並んでいる。その悲劇の陰には、蒋介石夫妻の喜劇ともいうべき飽食が彩を添えているのだ。

 冒頭、小説と脚本の二部構成になっていると述べた。その重複の理由については「訳者あとがき」に詳しい。解説を兼ねる一文からは、想像を超えた事実が判明する。台湾に逃亡した蒋介石。その後をうけ、毛沢東の共産党軍が政権を握った。その施政において、河南省の難民に劣らぬ、いや、それ以上の餓死者が発生していたというのだ。読了後、頭を悩ます「空白」の正体は、為政者が「無かったこと」として歴史の襞に押し込めた「事実」であり、民を顧みる事の無い「傲慢」だった。この「空白」には、主義主張、宗教すらも割り込む隙がない。本書が私たちに示唆する問題は複雑多岐と述べたが、人間とは何ぞや、人間の条件とは何ぞや。次々と問いかけてくるからだ。

 言論統制下、真実は小説や映画でしか表現できない。状況によっては曖昧な表現も致し方ない。なぜ、本書が二部構成なのか。その隠れた意図を、是非、掴んで欲しい。

令和3年(2021)8月18日
浦辺 登

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