戦争──モンゴル人にとって
何故、私は内モンゴルに関心を寄せていないのか? 読者がこのように質問した。たとえ中国の域内のあらゆる民族に関心を向けられなくとも、内モンゴル自治区は重要である。その面積は約百二十万平方キロメートルであり(新疆、チベットに次いで三番目に広く、国土の十二パーセントを占める一級行政区)、しかもチベットや新疆ウイグルと同様の民族問題を抱えている。しかし、私は内モンゴルについてほとんど書いてこなかった。
とは言え、私は何度も内モンゴルを訪ねた。二〇一四年には車を一万キロ以上も走らせ、自治区内の主要な「盟」*や市を回り、何か書こうと考えていた。しかし、結局、何も書けなかった。何故なら、私は旅行記ではなく、民族問題の角度からモンゴルの人々について書こうとしていたが、そのための情報が十分に得られなかったからである。『天葬:西蔵的命運』(明鏡出版、一九九八年、大塊文化出版、二〇〇九年)を執筆する時は、まだチベットで各種の文献を収集でき、様々なチベット人と語り合えた。『我的西域、你的東土』執筆の時は「機密文書」のコピーで投獄されたものの、新疆の地元住民とのコミュニケーションができた。
しかし、昨今の内モンゴルでは文献収集どころか地元の人々との交流さえできない。歩き回った地域の範囲だが、そもそもモンゴル人に出逢うのが難しく、至る所に漢人があふれている(約二千五百万人の人口で八十パーセントが漢人で、モンゴル人は十七パーセント)。人間だけでなく、生活様式全般まで漢化されている。出会ったモンゴル人で,既に漢化された者は漢人と同じ意見であり、まだ漢化されていない者は話すことができないか、或いは話すことなどないという状態である。
このような本来的なモンゴル人の「失声」の要因は、文化大革命において人民解放軍の主導で漢人が行使した大規模な拷問・虐殺に求められる。過去の民族自決を目指した闘いを理由に「内モンゴル人民革命党(内人党)」は「反党叛国集団」であると決めつけられた。さらに,連座制をとる中国にあって、罪科は家族全員に及び、百万人のモンゴル人が迫害に巻き込まれた(楊海英『墓標なき草原』岩波書店、二〇〇九年等を参照)。当時の自治区の人口は千三百万人で、そのうちモンゴル人は二百万人弱であり、正に災禍はモンゴル民族の全体に及んだ。粛清運動においておよそ数万人が殺害され、エリートは政治から文化までほぼ壊滅した。
ジェノサイドを蒙った民族は、普通、自由を得られた環境においても数世代の努力で復興するものである。しかし、不自由な環境ではそのような努力は中断され、次世代に繋がらず、復興は永遠にできない可能性がある。
私見によれば、中国域内のモンゴル民族は満州民族のように消えゆく方向性にある*。かつて満州民族はモンゴル民族に比肩する強い民族であり、モンゴル人が建てた征服王朝「元」よりも長い「清」を興した。
私は中国の東北地区で生まれ育った。そこは満州人の故地であり、身近に清の「旗人」の末裔が多くいたはずだが、みな満州人としての民族的アイデンティティを喪失していた。従って、言語(満州語)、歴史、伝統文化などはなおさらであった。現在、現実の生活において純粋な満州人は全く存在しておらず、ただ古書や史料、ニセの景観、清の時代の宮廷ドラマなどでしか満州人は見出せない。
そして内モンゴルのモンゴル人にとって、民族的アイデンティティは馬頭琴や「長調(長い歌を意味する)」の他に酒席でチンギスハンの栄光を偲び、それにひたり、過去に消えてゆく歴史に慟哭するくらいである。
それでも内モンゴルの北にはモンゴル人の共和制国家がある。また、連邦制のロシア領内にはモンゴル人が居住する共和国がいくつかあり、私はそこがモンゴル問題にアプローチできる入口になるかもしれないと考えた。
そして、私のチベット問題に関する論集のロシア語版がブリヤート共和国で二〇一四年に出版されると、ブリヤート国立大学から翌年に開かれるシンポジウムに招聘された。私は首都のウラン・ウデに向かい、北京首都空港から出発しようと準備していた。ところが、その直前に北京の「国保(国内安全保衛隊)」により自宅で阻止された。
後に分かったことであるが、ロシアの官憲がブリヤート国立大学を訪れ、大学でのシンポジウムの禁止を通告した。それは、ブリヤート共和国ではモンゴル系のチベット仏教徒が暮らしており、中国における民族問題のシンポジウムが好ましくない影響を及ばさぬように取り締まったためであった。ここから私は、出国禁止はロシアの官憲が北京の官憲に協力を求めたためと推定した。無論、証拠はないが、種々の要素を付き合わせることで次第に明らかになった。以後、今日に至るまで、私の出国禁止は解除されていない。
さて現在、ロシアのウクライナ侵略戦争における軍事作戦の前線でモンゴル人の戦死者は多い。ロシア軍の死傷者を出身地域で分類したところ、ブリヤートのモンゴル人の割合はロシア人兵士よりも高い。ここで歴史を振り返ると、一九五九年三月、人民解放軍が「チベット叛乱」を平定するときモンゴル人騎兵隊が駆り立てられ、それはチベット人の抵抗を壊滅させた軍隊の一つであった(楊海英『チベットに舞う日本刀』文藝春秋、二〇一四年、参照)。ウクライナ侵略においてロシア軍の戦死者でモンゴル人が目立つのは、実にこの構図と通じ合っている。ウラン・ウデでは、子供たちが周囲で遊ぶ大会堂の中が棺でいっぱいになっている。葬儀が毎日執り行われているという報道は余りにも悲しい。
私の自宅にまで訪ねてきたブリヤートの若いカメラマンのケサンは、今どうしているだろうか? 二〇一五年にブリヤート国立大学でのシンポジウムが終わったら、ケサンの実家に赴く予定であった。そこはバイカル湖の南東側の湖畔に位置し、私はケサンの家族とともに数日過ごすという、とても魅力的なスケジュールであった。
だが、彼の家族はどのような運命にあるのだろうか? 彼本人と男兄弟は戦場に送り込まれてはいないだろうか? そうであっても、無事だろうか? 私はあれこれ気がかりだが、連絡は控えている。その理由は二つある。
第一に、ロシアの通信の監視である(私の連絡は迷惑をかけるだろう)。
第二に、立場の問題がある。私は戦争に反対し、プーチンを非難する。しかし、ケサンはどう考えるだろう。やはりロシアは彼の国であり、プーチンはその大統領である。民族問題に触れる場合、異なる民族の友人との間ではどうしてもジレンマに陥る。そのため何もできず、ただケサンの無事を祈るのみである。