特設記事

増補改訂『我的西域、你的東土』増補部分の翻訳

アーナク・タシ(テンジン・デレク)──獄死したチベット高僧

 アーナク・タシは四川省カンゼ・チベット地域のリンポチェ*であり、国外では法名のテンジン・デレクと呼ばれる。しかし、司法により彼の身分証での登記は、俗名のアーナク・タシでなければ認められなかった。
 テンジン・デレク・リンポチェはチベットのカム地方南部の人々から絶大な崇敬を集めていた。彼は、チベットの文化と宗教を徹底的に破壊した文化大革命の余韻もまだ冷めやらぬ一九八〇年代に、農村や遊牧地帯に深く入り、打ち壊された寺院の復興に努めた。仏法を教える中で、多くの慈善活動を進めた。学校、児童養護施設、老人福祉施設を設立し、地域の教育や福祉の推進に尽力し、特に孤児や独居老人を支援した。道路や橋を改修し、環境保護に取り組むとともに、喫煙、飲酒、賭博を戒め、不殺生を説き、また自分自身は質素な生活を送り、とても敬愛された。
 ところが、彼は二〇〇二年に身柄を拘束された。しかも裁判がなされないうちから政府側の「甘孜(カンゼ)報」紙は早くも「四川省成都市で発生した七件の爆破テロ事件に関与」し、「ダライ集団の秘密地下組織の一員」であると断定した。しかし、このような罪状を信じるチベット人は一人もいなかった。
 私はかつて彼との知己を得て、彼の人格や行動をよく理解し、これに基づき「VOA(ボイス・オブ・アメリカ)」のコラムで、この事件を公表し、疑義を呈し、当局が公正に処理すべきことを呼びかけた。それにより国際社会は関心を向けたが、逆に四川省政府は判決の確定を早めた。
 二〇〇二年十二月二日、カンゼ中級法院は「国家分裂を煽動」し、「一連の暴力テロ事件を実行した」という罪状で死刑を宣告した(執行猶予二年)。さらに、アーナク・タシ(テンジン・デレク)の「指示命令」で「爆破」を実行したとされたロプサン・ドゥントゥプの死刑は直ちに執行された。
 アーナク・タシは不当な判決で罪を着せられたと、同年に四川省高等人民法院に上訴した。私は「全国人民代表大会、最高人民法院、四川省高等人民法院への建白」を起草し、以下の三つの意見を提案した。

* 漢人の呼び方は活仏。本来の意味は宝石で、転生ラマに限らず、学識などが評価される高僧もリンポチェと呼ばれる。ツェリン・オーセル、王力雄、劉燕子『チベットの秘密』集広舎、二〇一二年、四三頁、七八頁、参照。

一、四川省以外の弁護士に二人の弁護を依頼。(法的な支援の提供)
二、国内外のメディアの法廷での審理の取材の許可。(透明性)
三、海外チベット人の代表者のオブザーバーとしての招聘。(公正性)

 これには、国内外の多くの学生、編集者、記者、作家、教師、医師、デザイナー、学者、仏教界の有識者たちが賛同し、実名で署名した。これ以来、実名の賛同署名は民間ネットにおける共同声明の方式になった。
 政府側はいかなる反応も示さなかった。そのため、前述の三項目の建白において、私たちができることは四川省以外の弁護士の依頼だけであった。「中国の弁護士における第一人者」で「中国の法曹界の良心」と海外メディアで呼ばれた張思之は義理に篤く、費用特約として実質的には負担ゼロ円で引き受けてくれた。他の経費は共同署名者たちの募金でまかなった。
 このように準備を進めてきたが、張弁護士は成都に赴く直前に、四川省高等法院から突然、緊急電話で「アーナク・タシは自分自身で二名の地元弁護士に依頼した」と告げられた。もちろん、私たちは四川省高等法院の口実など全く信じなかったが、アーナク・タシ本人の面会が不可能であるため、当局の捏造に対して方策を講じることができなかった。しかも、カンゼ州の警察はアーナク・タシの親族の家に押し寄せて、北京の弁護士と接触しないように威嚇した。
 これこそアーナク・タシの「爆破」事件が間違いなくでっち上げであることの証拠である。そうでなければ張弁護士から他に変える必要などない。そもそも、よそから来た弁護士でさえ「爆破」事件が立証されるならば、それこそ説得力を増し、それは当局にとって実に願ってもないことになる。
 張弁護士は、かつて魏京生「軍事情報漏洩罪・反革命煽動罪」(一九七九年)、王軍濤の「反革命暴乱宣伝政府転覆煽動罪」(一九九〇年)、鮑彤の「国家機密漏洩罪・反革命宣伝煽動罪」(一九九二年)、高瑜の「国家機密漏洩罪」(一九九四年)などの裁判で弁護を務めた。だが、当局はこれらの「思想案件」など恐れなかった。何故なら「思想」は各々の主張があり、確証ができないからである。しかし「爆破」事件には白か黒が混じり合うグレーゾーンはなく、カンゼの地元政府の干渉を受けない張弁護士が関与するならば、でっち上げの冤罪をたちまち見破り、その詭弁の矛盾を暴きたててしまう。そのため何が何でも張弁護士を関わらせてはならない。他方、カンゼの弁護士ならば当局が決めた罪状に反対はできない。このような四川省当局による弁護士の統制は、正にこの事件が冤罪であることを示している。
 二〇〇三年一月二十三日、四川省高等法院は上訴を棄却し、原判決を維持し、ロプサン・ドゥントゥプには死刑が執行された。冤罪をでっち上げた画策者は秘密を知る者を殺して口封じを行うものである。つまり、ロプサン・ドゥントゥプを処刑することで、強圧的な手段で自白させた証言が──絶えず彼が供述を翻していたにも関わらず──アーナク・タシが有罪であるという唯一の証拠となった。

 この四川省管轄内のカンゼ・チベット族自治州で進められた本事件の調査や審理は、周永康が四川省共産党委員会書記から中央政法委員会副書記、公安部長へと進む過程でなされた。中国の警察システムは軍隊と同様にキャリアと専門性を非常に重視する。北京石油学院を卒業し、それまでの人生の大半で石油部門を中心にキャリアを重ねてきた周永康は「老公安(経験豊かな公安)」から軽蔑されるのは推して知るべしである。従って、全国的に注目された「爆破」事件で犯人を検挙し、結審にまで導けたことは、彼の出世の踏み台となった。
 このように述べても、それは、でっち上げ事件を周永康が直々に起こしたものであるということを意味してはいない。もしかしたら、最初、彼は本当に実状が分からなかったのかもしれない。画策した者はでっち上げだとは上級に報告せず、この事件を本当の「爆破」事件として報告し、周永康に業績になるとひけらかし、公安部長として赴任する前に結審して、公表したとも推測できる。
 この画策者が張弁護士の関与を阻止したことで、事態はさらに進んだ。それはカンゼ自治州、あるいは警察部門のみでできることではなかった。既に本件は四川省高等法院に受理されており、自分で認めていることを自分で取り消させ、法を司りながら法を曲げさせることができたのは、高等法院よりも高い権力、高等法院をコントロールできる権力を有する者だけである。正しく周永康はそのような地位に就いていた。
 たとえ周永康が初めは冤罪だと知らなかったとしても、官界で権謀術数を熟知している彼はすぐに真相が分かったはずである。しかし、自分が欺されたと知っても、そのペテンを追及しなかった。しかも、たとえ彼が示唆しなくとも、腹心は阿吽の呼吸で通じ、すべて都合よく手配するはずである。このようにして周永康はアーナク・タシと切っても切れない関係を持つようになった。
 公安部長として赴任したばかりの周永康にとって、この領域のキャリアで最初になる「爆破」事件が冤罪となるとしたら、致命的な打撃となる。新部長は「老公安」に向かって何ら指示できなくなる。さらに世論の批判の中で溺れてしまう。
 従って、このような瀬戸際に立たされた周永康は何としてもでっち上げ事件を本物の事件にしなければならず、冤罪の画策者を庇護しなければならなかった。さらに真相が暴露されるようなものは跡形もなく抹消させなければならない。ロプサン・ドゥントゥプを迅速に処刑したのは、このためであり、正に「死人に口なし」である。本来、二審で死刑が確定される場合、裁判所は半年から一年以上をかけて慎重に審理を尽くした上で判決を言い渡すものである。しかも、国際社会の批判にさらされる案件に関しては、さらに引き延ばす方策で対処されるものである。ところが、アーナク・タシの事件では正反対であった。一審からたった一カ月余りで二審が結審となり、ロプサン・ドゥントゥプの処刑も即時に執行された。このスピードは、本件における下心をさらけ出している。

 その後、周永康はトントン拍子に出世し、党中央政治局委員から常務委員となった(第十七期のチャイナ・ナインの一人)。警察のボスから、全国の情報、治安、司法の部門を翼下に置き、「公(安局)、検(察院)、法(院)」を全て統括する党中央政法委員会書記に登りつめ、法律を私物化した。
 このような状況において、中国の政治を少しでも知る者ならば、明確に理解できるであろう。周永康が政界にいる限り、アーナク・タシの運命が変わる可能性はいささかもなく、全ての努力は無駄になる。
 しかし、獄中のアーナク・タシは粘り強く自分が無実であると訴え続け、面会に訪ねた親族に頼み込んだ。ところが、彼の親族にはつてがなく、漢語(少数民族の言語に対する漢民族の言語)さえ正確に話せなかった。このためやむを得ず、私の妻、チベット人作家のツェリン・オーセルに絶えず連絡し、助けを求めた。私と妻のツェリン・オーセルは一貫して文章を書き、海外のメディアを通してアーナク・タシの名誉回復を呼びかけ続けた。
 アーナク・タシの求めに対して具体的な進展に役立つことがないことは分かっていたが、努力を続けた。自分の心理的なバランスを保つためといってもよい。私たちは放棄していないことを、彼の親族に知ってもらいたかった(王力雄、ツェリン・オーセル、劉暁波たち知識人の呼びかけで、法律を遵守し、新たに公正な審理を行うことを求める声が高まり、二〇〇五年、死刑は終身刑に減刑)。

親族に渡された獄中のテンジン・デレク・リンポチェの写真親族に渡された獄中のテンジン・デレク・リンポチェの写真

 二〇一二年、中国共産党第十八回全国代表大会が開催されたが、周永康は党の「新指導部」の主要メンバーには選出されなかった。それは私たちがずっと待ちわびた転機であった。私たちは切実に再審を期待した。少なくとも周永康の妨害はなくなるだろうと考えたからであった。
 私たちは北京華一弁護士事務所の夏霖弁護士に支援活動に加わるように招請した。夏霖は刑事事件の専門家で、全国的に知られた「崔英傑裁判」や「鄧玉嬌裁判」を弁護した*。夏霖はこの事件の起訴に関する記録を調べれば必ず落ち度を見つけることができると言った。つまり、でっち上げの尻尾が掴めれば、再審を要求する理由になる。弁護士としてそれを追及する中で訴訟の手続きが妨害されるならば、それを公開することもできる。法的なマシーンが動き出せば、必ず結果が出て、真相は明らかになる。

* 崔英傑は貧しい農村出身の退役軍人の露店主で、横暴な「城管(都市管理員)」を殺害。鄧玉嬌はホテルに併設のサウナにおいてフットマッサージで働く二十一歳の女性で、侮辱に耐えられず止むなく地元の役人を刺し殺した。

 しかし、正当な理由や名分をもって事件の記録を調べるには、どうしたらよいだろうか。何よりもまず夏霖はアーナク・タシ本人から依頼されなければ正式な弁護士になれない。親族ではだめなのである。こうして十年以上を経ても最初の難関に戻ってしまった。法治国家であれば全くシンプルな手続きになるが、中国では、囚人への面会は親族しか許されない。アーナク・タシは十三年も監禁された間に、親族の面会はただ六回しか許可されなかった。
 それでも初めの段階から私たちは周到に準備した。委託書を用意し、親族にアーナク・タシがどのように正確に署名したらよいか教えた。監獄側の妨害や委託書の没収など様々な難局への対策も指示した。
 そして面会を申請し、一年以上も過ぎてようやく許可された。二〇一三年十一月六日、アーナク・タシのおば(父の姉妹)と妹が面会できたが、常に刑務官の監視のもとであった。ガラス越しに向き合って話せたものの、委託書を渡すことはできなかった。それ以来、アーナク・タシが獄死するまで、親族がいかに懇願しても、面会は許可されなかった。
 ちょうどその時期、私は獄中のイリハムのために重ねて「建白」を提出していた。それは次のように論理的に考えたからであった。周永康は既に権勢を失い、「重大な規律違反」で拘束され、失脚に向けて確実に準備が進められていた。実際、二〇一五年六月には汚職容疑で起訴され、無期懲役の判決が下された。私は中共の新指導部から民主や自由の信奉者が出てくるとは期待していなかったが、前の指導部よりは賢明になるのではないかと、かすかな望みを抱いていた。中共自身の統治にプラスになるという立場からも、それ以前の政策を調整し、一つか二つの冤罪、でっち上げ、誤審を見直し、名誉を回復させれば、少数民族に希望を持たせ、民族関係が改善されるだろう。
 しかし、これは叶わなかった。何故か? 私は「建白」を持ち、様々な方法を駆使して中共の上層部へのルートを探したが、上に転送すると答えたのは一人もいなかった。彼らは口実を設けて断っただけでなく、「建白」が受け入れられる可能性がゼロであることを私より明確に分かっていた。
 当時の状況についていえば、イリハムの無期懲役が確定してから、彼の消息は全く途絶えた。彼の家族さえ面会できなくなった。彼の肉親の兄弟たちは、イリハムのことを聞くと顔色が変わった。だが、それは全然おかしくない。何故なら、イリハムの姪は若干二十歳だったが、町で警官にスマホを検閲され、彼の写真が見つかると、理に基づいて抗弁すると、それだけで逮捕・起訴され、十年の刑を言い渡されたからである。青春を棒に振るだけでなく、一生涯がダメにされるかもしれない。
 しかも昨今では「再教育施設」に百万人以上のウイグル人が強制収容されており、このことを考えれば、いかなる法的な手続きなしに、最末端の官憲のひと言で、そこに送り込むことができる。収容期間の長さも極めて恣意的である。
 そしてアーナク・タシ(テンジン・デレク)について視点を戻せば、二〇一三年以降、彼の親族が私たちを訪ねることはなかった。失望したのであろう。不満もあったろう。二〇一五年七月十二日、アーナク・タシは獄死した。彼の遺骨は官憲に奪われ、大渡河(四川省西部を流れる岷江の支流)に投げ込まれた。
 私たちが依頼した二人の弁護士は、それを問うどころか、親族への連絡もできなくなっていた。たとえアーナク・タシ本人が委託書に署名し得なかったとしても、それでも親族は署名していた。では何故、二人の弁護士は問題提起しなかったのであろうか?
 親族は知らなかっただろうが、アーナク・タシの獄死の前、二人の弁護士自身が受難していた。八十七歳の張思之弁護士は、二〇一四年、中共のイデオロギー的な監視・操作の真相を暴いたために起訴されたジャーナリスト高瑜を弁護した後、「六四」天安門事件の犠牲者を偲ぶ内輪の集まりに参加して拘束された浦志強弁護士の弁護を引き受けたが、疲労が重なり、病に倒れ、二〇一四年九月二十五日には脳溢血で半身不随になり、行動能力を失った。
 また、同年には香港で真の普通選挙を求める市民運動(雨傘革命)が広がったが、中国当局は国内の民主運動の呼応を恐れ、多くのNGO関係者が次々に拘束された。その一人に「北京伝知行社会経済諮詢有限公司」の創設者の郭玉閃がおり、彼は翌年に違法経営罪で正式に逮捕された。夏霖は彼の弁護を引き受けたが、夏霖自身も十一月八日に拘留され、二〇一六年には十二年の実刑判決を下された。
 かつて、二〇〇三年において郭玉閃はアーナク・タシの事件の公正な裁判を求める「建白」の署名者の一人であった。当時、彼は北京大学大学院に在学中であった。それから十年以上を経て彼はNGOの卓抜なリーダーへと成長していたのであった。
 ここで改めて二〇〇三年の「建白」について振り返り、その署名者への迫害について列記すると、以下のとおりになる。劉暁波は十一年の刑で服役中に獄死(二〇一七年)、師涛(ジャーナリスト)は十年の刑、浦志強は三年(執行猶予三年)、張祖華(「〇八憲章」起草者の一人)は軟禁、余傑や廖亦武は海外亡命、蕭翰は(中国政法大学講師・憲法学)は教壇から追放、徐暁(ジャーナリスト)、冉雲飛(作家)は一時身柄拘束、王怡(学者・牧師)は懲役九年、杜導斌は懲役三年(執行猶予四年)、趙達功は数回も一時身柄拘束、李剣虹は帰国不可能、盧躍剛はジャーナリストとしての活動停止などに見舞われた。
 そして、弁護士の受難は夏霖だけに止まらなかった。アーナク・タシの獄死の三日前、二〇一五年七月九日を発端に、人権派弁護士は全国で百名以上も身柄を拘束された。さらに、その助手や活動家たちは少なくとも三百名が取り調べられた。

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