特設記事

増補改訂『我的西域、你的東土』増補部分の翻訳

『我的西域、你的東土』出版から十六年後の思索

王力雄

イリハム──中道穏健のウイグル知識人

 イリハム・トフティは『我的西域、你的東土』(日本語版『私の西域、君の東トルキスタン』集広舎、二〇一一年)を読むと、自分から進んで私との面会を打診した。彼は中央民族大学准教授であり、また「七・五事件*」の前後、中国の域内でウイグル人が声をあげられる唯一のプラットホーム「ウイグル・オンライン」を創設し、その責任者にもなった。
 イリハムは拙著を『私の東トルキスタン、君の西域』と呼んだが、これは決して言い間違いではなかった。それはウイグル人として必要な置き換えであり、ウイグル人はみな拙著をこのように称しているとイリハムは説明した。
 私とイリハムとの交友は、彼が二〇一四年一月に収監されるまで何年も続いた。彼が自由を失う直前の写真がある。

* 二〇〇九年七月五日、新疆ウイグル自治区の中心都市のウルムチで抗議するウイグル人と漢人の間で流血事件が起き、死者は一九七人,負傷者は約二千人にのぼった。

王力雄、イリハム・トフティ、ツェリン・オーセル(2014年1月15日、中央民族大学のキャンパスにて)王力雄、イリハム・トフティ、ツェリン・オーセル(2014年1月15日、中央民族大学のキャンパスにて)

 三人で民族間の怨嗟や憎悪の解消、真の平和の実現のための各民族の対話のルートを開通させることについて話しあった。その一週間後、イリハムは拘束された。

 私はイリハムをキーパーソンであると思っている。他のウイグル人とは、ただひとりの個人として付き合うだけであるが、イリハムはバックグラウンドにある広範なネットワークと繋がっており、ウイグル民族の中間的な部分の代表的な存在となっているからである。その一方は中国当局に忠誠的なウイグル利益集団であり、もう一方はウイグル独立のために闘う各種勢力である。中間的な部分は人数が多いが、その語る声は上がってこない。このようなわけで、漢人とウイグル人の民間における対話を展開しようとするならば、イリハムは中間的部分を代表できる重要な役割を担っていた。
 さて、私は二〇一〇年五月、既にツイッターを通してダライ・ラマ法王と中国国内における一般市民のネットユーザーとの対話、及びテレビ電話による人権派弁護士との対話を主宰したが、さらにウイグル民族と漢民族の民間の対話をも進めようと思案していた。私とイリハムはすぐに意気投合し、彼はウイグル人の参加を呼びかけた。イリハムがいれば両民族の間に架け橋ができる。確かに現実的にみれば、民間における両民族の対話の効果が直ちに現れるとは期待し難い。それでも、当時の政治的な環境においては、わずかながら可能性があった。たとえ参加者が多くなくとも、一定のメカニズムが形成され、維持され、それが社会的ネットワークに結びつくならば、ひとたび政府側のルートが断絶したとき、この民間のメカニズムは重要なキーとなる。これがあるかないかでは、その結果はかなり異なる。そこでこそ、イリハムが役割を発揮し得るのであり、これは他では代えがたいものなのである。
 私が知り得たウイグル人の異論者ディシデントの中で、イリハムただ一人、自治を求めて、独立は主張しなかった。彼は新疆をめぐる問題の解決を中国政府の民族政策の転換に見定め、その中でウイグル人の権利の保障や中国政府を批判する権利の取得に努めた。私からみれば、それはダライ・ラマ法王の中道路線のウイグル版であった。
 私とイリハムは、次の点で一致していた。即ち、「大一統」的な国家であろうが、民族独立の国家であろうが、国家のためということを第一にするのではなく、さらに民族間の衝突による民衆の災禍や犠牲を避けなければならない。
 だが、海外のウイグル民族運動の活動家たちはほとんど中道路線に反対している。ダライ・ラマ法王はチベット人民に長年の時間をむだにさせただけで、何も得られなかったという事実は既に明らかになっている。
 その上、イリハムが逮捕されてしまった。これにより、チベット人だけでなく、ウイグル人にとっても中国政府と中道路線について議論することは一方的な願望にすぎないということが再確認された。
 二〇一四年九月、中国政府はイリハムに国家分裂罪により無期懲役と全財産の没収を宣告した。イリハムに関心を寄せていた者はみな、この判決に驚愕した。その時、イリハムは既に九カ月も拘禁されており、刑罰が下されるに違いないと考えていたが、これ程の重刑が言い渡されるとは思いも寄らなかった。何故なら、様々な要素をバランスよく比較してみると、イリハムの刑期は、二〇〇九年に漢人の異論者ディシデントである劉暁波に言い渡された十一年より長くはなるはずがなかった。だが、イリハムが上訴しても二審で十一月に無期懲役が確定した(なお、劉暁波は二〇一〇年に獄中でノーベル平和賞を受賞するものの、二〇一七年七月十三日に事実上の獄死)。
 このように大きな格差は、明らかにイリハムを死に追いやるに等しい。この判決も、ウイグル人にとって、当局は敵視する異論者ディシデントに対して民族によって不平等であると思わせた。

 イリハムの身柄拘束な二度であったが、いずれの時も、私は内外の学者や文化人にネットを通して、彼の解放を訴える署名活動を進めた。二〇〇九年には一カ月半の拘束の後、彼は帰宅できた。しかし二〇一四年では、首を長くして待っていたところに終身刑が下された。これに対して、私は友人たちに彼の家族への義援金を募るだけで、政府への共同署名による声明など徒労であると思い、止めた。
 それでも、私は中央に建白を記した書状を奉った。しかし、これは今でも物笑いの種になっており、私自身も苦笑している。つまり、イリハムへの判決の再審の意義を執筆し、プライベートのルートを通して最高指導者に奉呈するということを期待した。宛先は明確に書かなかったが、習近平が政権の座について一年余りの指導部を想定していた。
 その建白を、私は指導者の立場から指導者の利益を考えるように書いた。その内容につていえば、まず、イリハムに重刑を下したことは、指導者自身のイメージと執政に不利になると指摘した。そして、具体的な状況に応じて不利な局面を有利へと導く方策や知恵を示し、指導層に貸しをつくろうとした。即ち、イリハムはなおも判決に不服を申し立てて新疆の高裁に上訴するつもりだが、これを全国の最高法院(最高裁)に向け、それから最高裁は判決を差し戻し、新疆人民法院(地裁)が判決を変更する。これによりイリハムの刑罰が軽くなるだけでなく、中央政府が新疆地方政府の方式を必ずしも完全には認めていないことの表明にもなり、これだけでもウイグル人は再び希望を持ち、さらに、それは路線を調整する端緒となり、民族間の緊張が緩和されるだろう。同時に、中央政府は決して事前に方向性を定めてはいないことも外部に示し、中国の法治のイメージの改善にもなるだろう。
 さらに、同時に四川省チベット地域における「テンジン・デレク爆破事件」の再審と判決の変更ができれば、全国の少数民族は中央が新時代に入ったと見なし、また、国際社会から非難される中国は主導的な地位に立ち返ることができる。それは最小の代価で重大な局面を突破することになる。
 確かに、建白は従来から民間の有志に軽蔑されてきた。権力の本質はいずれにせよ同じだと思われるためである。しかし、専制体制の特徴は正に「人治」であり、最高権力者の変化により政治に変化がもたらされた前例は少なくない。無論、より悪い方向に変わったのが大部分であろう。それでも良い方向に変わったことも皆無ではない。毛沢東から鄧小平への交代が中国に変化をもたらしたことは、その典型例であった。
 ここで当時(二〇一四年)の状況についてみると、中央政府の新指導部は周永康*とその一味を取り調べ、綱紀粛正しているところであった。しかも、周永康は長年にわたり中国の司法で「皇帝」の座に就いていたため、各級の司法関係部門の至る所で徒党たちがおり、粛清される寸前にあった。これに対して、徒党の一つである四川省司法部門は、もしかしたらポリティカル・コレクトネスに沿って、これまでと一線を画そうと劇的な判決を出し、これは新指導部の周永康への追及に合うため、この路線に基づかざるを得なくさせるかもしれなかった。
 このように推論した私は、権力の内部闘争により、たとえ民族政策が転換できなくとも、イリハムやアーナク・タシ(テンジン・デレク)の獄中での処遇が改善できればという夢想に走った。言うまでもなく、これは事前の予測であるが、その後の事実に即してみれば、私の建白が蔑視されて当然である。ただ私は体制には見込みがないと分かっていたが、運よく行くかもしれないと試したのであった。しかし、予測は絶望に終わった。私は嘲笑を受けざるを得ないと自覚している。
 なお、二〇一九年、イリハムは優れた人権活動などに取り組む個人や団体を表彰する「サハロフ賞」を受賞した、だが、獄中のため出席できず、娘が代理で出席した。

* 前中国共産党中央政治局常務委員、中央治安治理委員会主任、国土資源部公安部長など歴任。党内の序列は第九位であったが、二〇一五年に汚職により無期懲役の判決が下された。

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