ムフタル──獄中で出逢ったウイグル青年
二〇〇九年の「七・五事件」の後、私はかつて新疆で「国家機密窃取」で罰せられた身分であるため、迷惑をかけないようにと、新疆域内のウイグル人との連絡を中断した。但し、ムフタルとだけは連絡を保った。数年前に新疆に赴いた時、予備に電話番号と連絡方法を打ち合わせていた。電話番号は一人の老人の固定電話であった。毎回、私は老人の家に行くと携帯電話でムフタルにショートメッセージを送った。するとムフタルは公衆電話か監視・盗聴されていない知人の携帯電話で老人に電話をかけ、私と話した。このような方法を何年も続けてきたが、情勢はますます緊迫し、この方法でも思うように言えなくなった。確かに個人的な範囲だが、新疆の様々な方面で状況が日増しに悪化していることを聞くことができた。
私はムフタルと電話で最後に話した時、彼は「いつ、こっち(新疆)で再会できるだろうか」と聞いた。私は「新疆の情勢がもう少しよくなってから」と答えると、彼はしばらく沈黙し、ひとこと「それじゃおそらくもう来れなくなるよ」と言った。
私たちは笑いあったが、内心はもの悲しさでいっぱいだった。その時、験(ゲン)が当たるとは思いも寄らなかったが、あれから私は新疆に行けなくなり、ムフタルとの連絡もできなくなった。老人の自宅から彼にショートメールを送っても、固定電話が鳴ることはなかった。さらに私は彼の携帯電話に直接かけたが、彼本人も家族も返事はなかった。まるでブラックホールに突き落とされたようであった。
私はますますムフタルの安否が心配になった。拙著『私の西域,君の東トルキスタン』が焦慮の根本になった(二〇〇三年に二回、二〇〇六年に二回、合計四回の「極秘」の訪問と対話が収録)。
拙著は二〇〇八年に書きあげられたもので、当時、北京オリンピックを前にして、当局は国際社会の圧力を受け、開放的な姿勢を見せ、民間にいくぶんゆとりのある環境を与えていた。無論、それは「外松内緊(国外には緩和を見せて国内では締め付け)」であり,抑圧は密かになされていた。その手法により、これからの社会はより自由や人権が保障され、これは歴史的発展の必然的な趨勢であると人々に信じ込ませようとしていた。そのため、私はムフタルの身の安全を熟慮しながらも出版に踏み込んだ。著者にとって出版することは臨月の赤ん坊のように阻止できないものである。「むしろ鳴いて死すとも、黙して生きず」とムフタルは選択したと、私には分かっていた。但し,当時の出版を決定した基本的な条件は、情勢がより悪くならないということであった。当時でも良いとはいえなかったが、必要な代価は自分が担えると考えていた。
しかし、あの時、今日ほど情勢が悪化すると思えたならば、私はきっと考え直したに違いない。たとえムフタルが登場せず、本にならなくとも、彼の部分を削除するか、当局に尻尾を捕まえられぬように書き直しただろう。だが今となっては、如何に自責の念に駆られようとも遅すぎる。拙著の中で彼の言葉を引用した部分には目が釘付けになり、その都度、現在の厳重で残酷な状況において、彼がどのような罪状をなすり付けられているか、想像するだけで私は身の毛がよだつようになる。
ある身元も実名も分からないツイッターのフォロワーが私に、拙著の電子版をネットで友人に転送しただけで、警察に身柄を拘束され、訊問された。そして、暴力的なテロの読み物を伝播したという罪状で十五日間の監禁の処罰を受けた。警官の話によると、拙著は警察内のリストにおいて「二級レベルの暴力的」な書物と規定されている。この電子版を一度転送しただけで十五日間の監禁という「基準」に照らし合わせれば、この拙著の主人公であるムフタルの身にどれほどの悪運が降りかかったことだろう? 私は胸が切り裂かれるように痛み、息が詰まってしまう。
私はまだ出国が許されていた頃*、台北を訪れ、「誠品書店」で拙著『私の西域、君の東トルキスタン』が「旅行・観光」のコーナーの書棚に置かれているのを目にした。その周りには旅行記や観光ガイドブックが並んでいた。私にとってこれほど強烈なコントラストはなかった。正しく台湾と中国は二つのパラレル・ワールドのようであった。
その時、私は心の中で考えてみた。もし、ムフタルが台湾で暮らすならば、新疆の観光を紹介するアップローダーになるか、それともウイグルの歴史を講義する学校の教員になるだろうか? ただ社会制度が異なるだけで、彼──そして幾千万のウイグル人は全く異なる世界で暮らして、全く異なる人生を歩むことだろう。