玄洋社を究めるための資料ガイド

第11回

玄洋社を知りたいインドのロヒト青年

旧福岡県公会堂貴賓館にて旧福岡県公会堂貴賓館にて

 令和7年(2025)7月16日(水)、インドから24歳の大学院生ロヒト(Rohit)さんが福岡市にやって来た。午前10時、待ち合わせ場所の福岡市役所(福岡市中央区)1階ロビーで待っていると「浦辺さんですか……」と流暢な日本語で話しかけてきたのがロヒトさんだった。ロヒトさんは私(浦辺)のホームページからアクセスしてきた。指定のメールアドレスに返信すると、正確な日本語で「福岡市を訪問するので会っていただけますか」との用件が返ってきた。そこで、指定の日時に待ち合わせをした次第だった。

 ロヒトさんの福岡市訪問の目的は「玄洋社のことを知りたい」ということだったが、どうやって、私を知ったのかと質問すると、九州プリンシプル・テレビというインターネット番組で流している「玄洋社チャンネル」を見たことからだった。それにしても、スムースな日本語の会話は、どこで覚えたのかと尋ねるとインドの日本語学校で覚えたという。初の海外旅行が日本で、初めて降り立ったのが福岡とは、とても信じられないほど、環境になじんでいる。

 まず、福岡市役所から歩いて5分ほどのところにある「旧福岡県公会堂貴賓館」に案内する。明治43年(1910)、第13回九州沖縄八県連合共進会記念として建設された公会堂だが、現在は迎賓館だけが残り、国の重要文化財に指定されている。大正2年(1913)3月18日、午後6時から、孫文がこの公会堂にて演説をする。

 最近における吾国の大事業(中華民国の建国)たる革命に際しても、最も多大の援助力を貴国の人士殊に九州の人士に仰ぎたりき

 今まで、何度も中国からの来客をこの場所に案内したが、そのたびに彼らは興奮した。しかし、インド人のロヒト青年がどんな反応をするのかはわからない。ここで孫文が演説をしたと説明すると、ロヒト青年は喜んでくれた。孫文が(辛亥)革命を起こしてくれたから、インドにもその革命の波が押し寄せ、イギリスからの独立運動が起きたからという。

 次に、中洲(福岡市博多区)にある、「西本コレクション」に案内する。ここは郷土福岡県が生んだ偉人の書画などを保管、展示する個人の所蔵庫だ。以前、玄洋社記念館があった際は玄洋社ゆかりの頭山満、平岡浩太郎、廣田弘毅、中野正剛、緒方竹虎、末永節などの書に親しむことができた。しかし、残念ながら今は福岡市立博物館の倉庫に眠ったままなので、玄洋社という自由民権運動団体の実態を知ることはできない。それだけに、ここは貴重な収蔵品があるので、ロヒト青年には喜んでもらえた。この「西本コレクション」でロヒト青年からの質問に回答したが、驚くのは三島由紀夫、出口王仁三郎(大本教)の名前も知っていたことだった。更に、玄洋社とともに超国家主義団体として解散させられた黒龍会についても知っていたことだ。黒龍会といえば内田良平だが、「西本コレクション」には内田良平の書もあるので、盛んにロヒト青年はスマホのシャッターを切っていた。

玄洋社墓地にて玄洋社墓地にて

 本来、黒龍会は経済シンクタンクだが、現在、イギリスのケンブリッジ大学では黒龍会についての研究論文も発表されている。イギリスが研究を進めるということは、黒龍会が調査分析をしていた満洲・シベリアに関心があるということだ。何らかの利権を得たいとのイギリスの目論見が見えてくる。このケンブリッジ大学が黒龍会の研究をしていることをロヒト青年は知っていた。果たして、現今日本において、黒龍会を研究している機関はあるだろうか。

 せっかく、玄洋社発祥の地・福岡に来たならば玄洋社墓地に行こうとなり、崇福寺(福岡市博多区千代)を訪ねた。ここには玄洋社ゆかりの方々の墓碑が並んでいるが、やはり、圧巻なのは墓地正面に居並ぶ頭山満、来島恒喜、高場乱の墓碑だ。さらに、高場乱の牛に乗った座像だろうか。炎天下、ロヒト青年と並んで頭山満の墓参をする。大隈重信外相に爆裂弾を投じて後、自決した来島恒喜のことも知るロヒト青年だが、高場乱の墓碑右側面に勝海舟の名前が刻まれていることに驚いた風だった。

 墓地中央にある玄洋社社員の合葬墓碑裏面には「殺身成仁」と頭山満手跡で刻まれているが、その「身を殺して仁を成す」という意味をロヒト青年は理解していた。現代日本の教育現場の教師は「殺」という文字に過剰反応し、「怖い」と拒否反応を示す。論語の孔子の言葉とも知らない日本の教育界の底の浅さを嘆くが、そのうち、日本人はインド人から日本史を学習する日が来るのではないかと不安を抱いた。

 玄洋社墓地の敷地内には多数の「松ぼっくり」が落ちている。来訪者はこれをお土産に持ち帰るのだとロヒト青年に伝えると、大事そうに幾つかを拾い上げていた。

 次に、西新公民館(福岡市早良区西新)に向かう。ここには頭山満の生家(筒井家)にあった頭山満手植えの楠がある。案内看板、石碑もある。立派な人になれるようにと、若き日の頭山青年は、この楠を抱いて誓いを立てたという。ロヒト青年に頭山満のように楠を抱いてみるかいと言うと、頭山満になりきって喜んで楠にしがみついた。尊敬する人は西郷隆盛、なりたい人は頭山満と言い切るロヒト青年だけに、実に嬉しそう。その表情を見る私も嬉しくなった。

頭山満の書頭山満の書

 そして、この西新公民館から頭山家の菩提寺である圓応寺えんのうじを訪ねた。ここには参道右手の藤棚の側に頭山家の墓所がある。ロヒト青年と合掌、礼拝。この寺の本堂入り口には玄洋社社長、福岡市長を歴任した進藤一馬手跡の額が掲げてある。本堂には頭山満、峰尾夫妻の扁額もある。副住職の三木英信師の案内で頭山満の書、高取焼の頭山満座像なども拝見することができた。つい最近もインドの方々が寺を訪ね、頭山満の頭像を奉納していかれたという。それも拝見させていただく。

 寺には檀家の方々の名札があり、頭山泉(頭山満の次男)の名前もあり、日本杖道連盟の会長も務められた。圓応寺の本堂隣は空手道場だが、早速、三木副住職のてほどきでロヒト青年は杖道の基本の型を教えてもらった。インドで剣道をやっているというロヒト青年は竹刀を杖に持ち替えて、早速、基本型を実践。

頭山満墓前(玄洋社墓地)にて頭山満墓前(玄洋社墓地)にて

 ちなみに、この圓応寺が最もロヒト青年の印象に残ったようだ。
 ロヒト青年を次に案内したのは、玄洋社跡(福岡市中央区舞鶴)だった。現在はNTTドコモのビルが建っているが、その一隅の花壇の中に「玄洋社跡」の石碑がある。裏面に廻り、玄洋社がアジアの解放を推進したと刻まれる文字をロヒト青年に示す。アジアの解放、すなわち、インドの独立も含まれる。ロヒト青年の玄洋社探訪の目的の一つが、インド独立の歴史を辿ることでもあるのだ。

 この玄洋社跡碑の対面には玄洋社記念館の妹尾館長の自宅がある。外出の準備中で忙しい中、突然の来訪にもかかわらず、ロヒト青年の玄洋社探訪を喜んでいただけた。早くに分かっていれば詳しく話ができたのにと、残念がられた。

 限られた時間だけに、ロヒト青年を各所に引き回したが、次に聖福寺(福岡市博多区)の廣田弘毅(首相、外相)、平岡浩太郎(初代玄洋社社長)という玄洋社ゆかりの方々の墓参をした。

頭山満墓前(玄洋社墓地)にて。筆者(左)と。頭山満墓前(玄洋社墓地)にて。筆者(左)と。

 廣田弘毅の墓所では、GHQによる戦争裁判で絞首刑になった外交官出身の首相であると解説する。極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判ではインド代表のパール判事には随分と助けてもらったとロヒト青年に語る。そして、そのパール判事が福岡市を訪れ、戦争裁判で処刑された遺族を慰めてくれた話もする。本当に、インドには世話になってありがたいと語ると、ビハリ・ボース(インド人)の庇護に玄洋社の方々が貢献してくれた事がインド独立につながったことを考えれば、こちらの方がお世話になりましたと逆にお礼を述べられた。

 平岡浩太郎の墓碑に刻まれる撰文を示し、この撰文には頭山満の名前が刻まれていると説明する。そして、孫文も中華民国が建国された後、平岡浩太郎の墓参りをしたと伝える。孫文が記念撮影で立った場所にロヒト青年にも立ってもらい記念撮影をする。平岡浩太郎の墓碑向かいにある顕彰碑を示して、大隈重信の名前が刻まれているのを見てもらう。大隈が平岡の悼辞を読んだこと、その悼辞の中に来島が爆裂弾を投げたことも記してあるとロヒト青年に解説をする。武士と武士の意地の張り合い、戦いであると言うと、その精神をロヒト青年は理解している。これには、驚くが、現代の日本人で即座に武士の生き様を理解できる人はどれほどいるだろうか。

平岡浩太郎墓前(聖福寺)にて平岡浩太郎墓前(聖福寺)にて

 午前中から休憩らしい休憩を取らずにロヒト青年を引き回したが、最後に節信院(福岡市博多区)の加藤司書公の菩提寺に案内する。ここには、朝鮮王高宗の妃であるミンビを慰霊する子安観音像がある。朝鮮を侵略するロシアに取り込まれたミンビを消さなければ、東洋全体の安寧はないとして日本の壮士が王宮に乱入し、ミンビを殺害したのだった。ミンビ個人に怨みはないが、アジアを侵略するロシアを止めるには、その手先であるミンビを始末しなければということからだった。故に、ミンビの慰霊をということである。この難しい国際環境、事情をロヒト青年に解説して理解は及ぶだろうかと懸念したが、「わかります」という返事だった。

 節信院本堂裏手には、筑前勤皇党の首領である福岡藩家老加藤司書の墓がある。毎年行なわれる加藤司書、筑前勤皇党の慰霊法要では、頭山満が加藤司書の墓前に羽織袴姿で平伏して参拝した。晴れていても、土砂降りの時でも、その姿勢は変わらなかった。そのことをロヒト青年に伝えると、では、と言って頭山満と同じように墓前に平伏して参拝をしたのだった。流石に剣道をやっているだけに、その参拝の所作には感心するしかなかった。

 こうして、ロヒト青年に玄洋社関連の史跡案内を少しだけ終えることができた。肉、魚を口にしないインド青年だけに、昼食は簡単に「うどん」で済ませ、夜は「野菜の天ぷら」だった。上手に箸を使う姿に、日本人以上に日本人なのではと感心する。

 このロヒト青年との一日から考えなければならないのは、いかに日本が大東亜戦争(太平洋戦争)後、あらゆる面においてGHQに骨抜きにされてきたかということだ。そして、明治時代の先人達が、いかにアジアの解放に尽力してきたかを再確認しなければならないことだ。GHQの占領支配下、バイアスのかかった情報を鵜呑みにしてきた日本人だが、今一度、80年前に遡って日本と日本人の置かれた環境と時代を振り返らなければならない。真実を広く周知しなければ、日本の将来は無く、使命も果たせないということだ。

コラムニスト
浦辺登
歴史作家・書評家。福岡県筑紫野市生まれ。東福岡高等学校卒業。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌への投稿を行なうが、卒業後もサラリーマン生活の傍ら投稿を続ける。近年はインターネットサイトの書評投稿に注力しているが、オンライン書店ビーケーワンでは「書評の鉄人」の称号を得る。「九州ラーメン研究会」のメンバーとして首都圏のラーメン文化を研究中。地元福岡で学習会を主宰し、オンラインでも歴史講座を行い、要請があれば各地で講演を行っている。