
書名:頭山満と玄洋社
副題:大アジア燃ゆるまなざし
著者:読売新聞西部本社編
出版:海鳥社(2001/10)
本書は豊富な写真資料を駆使した図録だが、福岡市中央区舞鶴にあった「玄洋社記念館」に展示されていた品々も掲載されている。現在、記念館にあった資料は、福岡市立博物館に寄託されている。常設展示ではないため、一般の方が見ることはできない。それだけに、この一冊に収められている写真は貴重だ。なかでも、36頁の「玄洋社員名簿」「規約」、37頁の「国会開設建白書」、38頁の「大日本帝国国憲見込書草按」は、玄洋社が自由民権運動団体から派生したという証拠になる頁だ。
特に、「大日本帝国国憲見込書草按」については頭山統一著の『筑前玄洋社』の巻末資料に憲法草案の全文が出ており、内容を確認しても、充実した憲法草案であったことが理解できる。三木(小野)隆助、箱田六輔の連名で元老院に提出された憲法草案だが、その草案については福岡県立図書館収蔵資料の「大賀文書」に原文があり、写しが公開資料とされている。(矢野信保著、『「大日本帝国憲法見込書大略」について』、「現代と歴史教育」第38号、1984年6月)
*三木(小野)隆助とは、真木和泉守の甥であり、玄洋社員。太宰府天満宮の「定遠館」を残した人。
ここまで筆者が大日本帝国憲法に拘るのは、明治22年(1889)10月18日の外相大隈重信襲撃事件があるからだ。これは閣僚の立場でありながら、大隈が憲法違反を承知で不平等条約改正を進めたことから起きた事件だった。厳しい言論弾圧下、最終最後の諫止が大隈襲撃だった。それは、玄洋社の面々が憲法について熟知していたからこそ、大隈の憲法違反に敏感に反応した結果だ。
金子堅太郎(伊藤博文の憲法草案に参画)の「自叙伝」によれば、大隈重信は自身で考えた憲法草案を個人的に伊藤に差し出している。伊藤はその憲法草案を見ただけで受け取りもしなかった。そこで、無理矢理、大隈は伊藤に押しつける。
「受け取った以上、私の裁量でどうにでも処理してよいか?」と伊藤。
「どうぞ」と応える大隈。
すると、伊藤は大隈の目の前で、大隈の苦心作である憲法草案の綴りを暖炉に放り込んだ。すでに原案はできあがっている。あなたの草案は無用の物(大隈重信の憲法草案)だと意思表示したのだ。かつては大隈の部下であった伊藤だが、この行為一つをみても、立場は完全に逆転したのだ。本書の写真一枚一枚を見ながら、ノンフィクション・ドラマが浮かび上がる。それだけに、玄洋社を理解する確認資料として本書は貴重なのだ。
蛇足ながら、中野正剛がイタリアのムッソリーニと対談し、その際、書記役だった進藤一馬(第10代玄洋社社長、元福岡市長)が筆記具を忘れ、ムッソリーニの卓上にあった鉛筆を借用。うっかり、その鉛筆を持ち帰ってしまった。その鉛筆も福岡市立博物館の寄託資料にあるといわれる。どんな鉛筆なのか、一見したいものだ。
封印された史実を図録で追う楽しみ
「玄洋社」といえば、右翼の源流、テロリスト集団、秘密結社と称される。その元凶は、大東亜戦争(太平洋戦争)敗北後、GHQ(連合国軍総司令部)に潜入していたコミンテルン・スパイのハーバート・ノーマンによる仕業。まさか、GHQに調査分析課長としてコミンテルン・スパイが席を占めていたとは、想像だにできないだろう。そのノーマンによって、「侵略」戦争を押し進めた「悪」の代表として糾弾されたことで、玄洋社は解散命令を受けた。更には、玄洋社員であった廣田弘毅(元首相、外相)は東京裁判こと極東国際軍事裁判において死刑判決を受け、処刑された。
明治22年(1889)10月18日、外相の大隈重信は玄洋社の来島恒喜に襲撃された。当時の厳しい言論弾圧、大隈の帝国憲法に反する行動などは考慮されず、暴力的という一面だけで、玄洋社はテロリスト集団と批判される。ここにも、巧妙な世論誘導が垣間見える。
本書は資料としての写真も多く掲載されている。『人ありて-頭山満と玄洋社』(井川聡、小林寛著)の必須資料として持っておきたい。玄洋社は思想的には「右翼」であると称される。しかし、無政府主義者など左翼思想の人々との交流も多い。このことから思想など何も持たず、ただ単に「情」で行動を起こす集団であると定義づける評論家もいる。しかし、それは玄洋社の成り立ちや本質を調べず、GHQが下した風評を鵜呑みにしているだけに過ぎない。憲兵大尉であった甘粕正彦に扼殺死させられたという大杉栄、伊藤野枝が頭山満、杉山茂丸の紹介で後藤新平に金を融通してもらったことを指すのだろうが、頭山満にとっては我が身を省みずに国家、国民のために尽力する人の思想は右も左も関係ない。更に、伊藤は頭山の親族という関係だからだ。
玄洋社最後の社長である進藤一馬は戦争犯罪人として巣鴨に収監された。本書に掲載される新聞記事写真にその名前が出ている。戦後も衆議院議員から福岡市長を歴任し、日中国交樹立直後に「青少年の船」を仕立てて中国に乗り込んでいる。日本に亡命した孫文を支援しつづけた玄洋社だからこそ、国父・孫文の薫陶を受けた中国要人との友好関係が維持できるのだ。
「大アジア主義」を標榜した玄洋社だが、このことは覇権主義を押し進めた欧米にとって危険思想の何ものでもなかった。今、GHQによって封印された玄洋社の史実を図録で追いかけることは、楽しみの一つになっている。
令和3年(2021)10月25日