『木堂逸話』(2004)
財団法人岡山県郷土文化財団 犬養木堂記念館発行 平成16年(2004)
本冊子は犬養木堂こと犬養毅(1855~1932)に深く関係した人々の話をまとめたものだ。木堂とは、犬養毅の号のことだが、尊敬の意味を込めて木翁と呼ぶ人もいる。
今回、本冊子をめくってみると頭山満、萱野長知という玄洋社員が犬養との思い出、功績を語っている。そのほか、古島一雄という玄洋社系機関紙「九州日報」の初代編集長を務めた人も犬養の功績を述べている。犬養自身も『玄洋社社史』を編纂するにあたり編纂資金を提供し、「社史編纂芳名帳(No,56)」にも署名を遺しているだけに犬養と玄洋社との関係は浅からぬものがある。故に、犬養の履歴を追うことは玄洋社の動きを再確認することが可能になるのだ。
頭山満、犬養毅といえば、明治政府において絶対的な権力を握っていた長州閥の山縣有朋が「俺のところに(挨拶に)来ないのは、犬養(毅)と頭山(満)だけだ」と言い切るほど、権力中枢にすり寄らなかった。さほど、この両名「反権力」という強い信念を有していたということになる。それだけに、表裏一体を成す仲であり、同時に囲碁の好敵手だった。
そして、萱野長知となれば、犬養の使命を帯びて行動する玄洋社の志士だった。昭和6年(1931)に起きた満洲事変では、犬養の意を受け萱野は事変の収束に動いた。しかし、この工作は事前に外務省、陸軍に察知され、和平交渉は握りつぶされたのだった。
本冊子を読み進んだ際「面白いなぁ」と思ったのは、冒頭に大隈重信が登場し、次に頭山満が来ることだ。それというのも、いまだ世間は大隈に爆裂弾を投じた玄洋社として、大隈VS玄洋社という対立構造で見るからだ。故に、大隈と頭山とを離すという配慮をみせるが、犬養との人間関係においては、そんな世間の認識などは問題にもならない。
それを言い出せば、犬養毅が落命した五・一五事件(昭和7年)では、頭山満の子息である頭山秀三が事件に連座している。ここにまで配慮をすれば犬養の懐旧談である本冊子に頭山満の談話などは収録しないだろう。
ましてや、大隈重信の右腕といわれた神鞭知常の名前も見いだせる。この神鞭の娘は玄洋社員である山座圓次郎(外交官、中華公使)に嫁いでいるのだ。もう、このあたりまでくると、玄洋社を大隈襲撃の「テロリスト集団」と誹謗する方々には理解不可能となる。物事を理解するには、タテ、ヨコ、ナナメと複合的に分析を試みなければ真相は究明できないのだ。
尚、本冊子で犬養毅の囲碁仲間として頭山立雲として名前が出てくるのは、頭山満のことであり、「立雲」は頭山の号になる。
『犬養木堂とアジアの人々』
財団法人岡山県郷土文化財団 犬養木堂記念館発行 平成18年(2006)
本冊子は、平成17年(2005)5月15日、岡山県の犬養木堂(毅)生家で開かれた「犬養木堂を語る会」での内容をまとめたもの。5月15日、まさに犬養毅が凶弾に倒れた五・一五事件に合わせて開催されたものだ。
まず、第一部として基調講演を時任英人(倉敷芸術科学大学教授)が行い、第二部として犬養康彦(犬養毅の孫)、緒方貞子(犬養毅の曾孫)、時任英人の三人によるフリートークで構成されている。
本冊子の11頁には、時任教授が「木堂さんと一緒にアジアに対して行動した玄洋社の人たち」として、犬養毅が玄洋社の面々とアジア対策を行ったことを語っている。15頁にも玄洋社員の萱野長知がアジアの革命家たちを犬養毅に紹介したと述べられている。17頁にも、「頭山満さんや玄洋社の関係者たちと」として、犬養が玄洋社と行動をともにしたと記されている。
そして、アジアの革命家といえば辛亥革命の孫文を忘れてはならない。21頁には孫文が「頭山(満)先生とか犬養(毅)先生はお元気ですか」と尋ねたというエピソードが出ている。さほど、頭山、犬養の両名は孫文の信頼が篤かったということになる。
第二部のフリートークでは、基調講演を行った時任英人に加え、犬養の子孫である犬養康彦、緒方貞子の二人が加わるという興味深いものだ。
それというのも、犬養康彦は共同通信社の社長を務めたジャーナリストであり、緒方貞子は国連難民高等弁務官を務めた人だからだ。物事の視点を多角的に見る立場にあった両名の話は、聴衆に分かりやすく、それでいて親族しか知り得ない事を語っている。更に、緒方貞子の夫である四十郎は銀行マンだが、実父は朝日新聞から政治家に転じた緒方竹虎だ。緒方竹虎も玄洋社員として名前が刻まれるが、ここでも犬養毅と玄洋社との深い関係性を窺うことができる。
このフリートークでは、緒方四十郎が大東亜戦争(太平洋戦争)後の吉田茂首相誕生の裏話を59頁に披露している。古島一雄(「九州日報」初代編集長、犬養逓信大臣時の政務次官)が吉田茂を首相に推薦したというのだ。ワンマンの吉田茂を政権から退任させる際には緒方竹虎が動いたといわれるが、時代の裏面を見るようで興味深いものだった。
本冊子では、犬養毅がアジア主義者であると同時に産業立国主義者であるという考えがわかるものだった。ある意味、産業立国においては合理的な改革を進めなければならない。海軍青年将校たちは、犬養の合理的な改革を軍縮と誤認したのではないか。この点から事件を解析してみても良いのではと思った。
いずれにしても、玄洋社の面々と犬養毅とが深く、複雑な人間関係にあることが犬養木堂記念館の冊子で理解できる。それだけに、要確認の資料である。