玄洋社を究めるための資料ガイド

第02回

『玄洋社社史編纂芳名帳』(私家版、未定稿)

 玄洋社社史芳名帳とは、大正6年(1917)7月10日に刊行された『玄洋社社史』の発刊に賛同する方々の記名帳であり、同時に『玄洋社社史』購入予約の受付帳でもある。『玄洋社社史』の「緒言」(論文の「はじめに」に該当)と本芳名帳に記載される文面とを照合すると、幡掛正木(『玄洋社社史』発行人)が芳名帳の序文を書いたと思える。
*幡掛正木(はたかけ・まさき、明治21年~昭和29年、1888~1954)は、筥崎宮(福岡市東区箱崎)宮司を務めた神道人。

 芳名帳において重要なのは、「小川平吉、尾崎行雄、犬養毅らの諸氏に援助を願い出て」という箇所である。これは、三氏が社史編纂にあたって資金提供をしたということだが、『玄洋社社史』の「緒言」にも記載が無い。金額は不明ながら、三氏の支援無くして社史編纂事業の成功は難しかったといえる。芳名帳には玄洋社員の氏名も散見されるが、その編纂において、三氏が関与していた事実は興味深い。

 『玄洋社社史』の編纂に取り掛かった頃は、1914年(大正3年)に勃発した欧州大戦(第一次世界大戦)の最中だった。1919年(大正8)のヴェルサイユ条約によって長い世界大戦は終結したが、これは完全なる平和の到来ではなかった。むしろ、世界が未曽有の大混乱に突入する世界大戦の序章でしかなかった。

 当時の日本は、明治維新から半世紀を経た頃であり、明治6年(1873)の人口統計3330万人が、大正9年(1920)には5596万人と1・68倍にまで増加していた。日本国内での生活困窮者はハワイ、東南アジア、アメリカ西海岸、中南米への移民によって生き延びていた。欧米諸国が、日本の経済発展、日本人の海外移民を膨張主義として危機感を抱いても不思議ではない。社会改革としての明治維新も、本来の目的を見失い、活力の低下すら感じられる頃であり、再び欧米列強による経済的締め付けが厳しくなっていった時代でもあった。

 そんな時、自由民権運動から議会制民主主義を推進した玄洋社の記録を纏めることは、日本の社会に対し、維新の目的、目標の再確認に最適な事業である。編者の菊池秋四郎、幡掛正木はそう確信したのかもしれない。更には、先輩諸氏の行動を記録することで、その継承者たらんと強く認識したのではないか。

 芳名帳には、個人もしくは団体名で310の記載がなされている。

  1. 玄洋社という九州福岡を母体とする郷党の関係者
  2. 自由民権運動団体での連携を深めた関係者
  3. 自由民権運動から派生した新聞社、雑誌社の記者、編集者、発行人の関係者
  4. 小川平吉、尾崎行雄、犬養毅という政界実力者たちに連なる関係者
  5. 渋沢栄一という日本財界の実力者に連なる関係者、団体、組織など
  6. 孫文の辛亥革命を支援した関係者、革命家、アジア主義者たち

 しかし、独特の書体、署名でもあり、氏名が容易に判別できないものがある。さらには、個人の場合、履歴が簡単に調査できない、などがある。これら不明者については、今後も調査を継続することで判明するものと考える。

コラムニスト
浦辺登
歴史作家・書評家。福岡県筑紫野市生まれ。東福岡高等学校卒業。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌への投稿を行なうが、卒業後もサラリーマン生活の傍ら投稿を続ける。近年はインターネットサイトの書評投稿に注力しているが、オンライン書店ビーケーワンでは「書評の鉄人」の称号を得る。「九州ラーメン研究会」のメンバーとして首都圏のラーメン文化を研究中。地元福岡で学習会を主宰し、オンラインでも歴史講座を行い、要請があれば各地で講演を行っている。