玄洋社を究めるための資料ガイド

第10回

草香江の現在から世界を見てみると

令和7年(2025)6月22日(日)
於:草香江公民館
(一社)もっと自分の町を知ろう

草香江碑草香江碑

 皆様、こんにちは。浦辺登と申します。どうぞ、宜しくお願いします。ご縁がありまして、こちらの公民館で話しをすることになりましたが、そのきっかけは「草香江碑」という石碑を読み解いたことからでした。草香江碑は、福岡市中央区鳥飼3丁目の埴安神社はにやすじんじゃにあります。この神社の元宮は鳥飼八幡宮になります。中野正剛先生(衆議院議員、朝日新聞社、玄洋社)の大きな銅像がある神社が鳥飼八幡宮です。

 もともと、この埴安神社を私が訪ねたのは、草香江碑を確認するのが目的ではありませんでした。草香江碑の横にある金子堅太郎の生誕地碑を確認したかったからです。しかし、金子堅太郎の生誕地碑の横に立つ草香江碑が気になって仕方ありませんでした。芸術的な文字で書かれていて、全て漢字です。本日、配布の資料にその草香江碑の写真が出ていますが、芸術的な石碑です。けれども、芸術的であっても、読めなければどうしようもありません。福岡市立総合図書館に行って『福岡県碑誌』という、今から100年ほど前に出された百科事典のような分厚い本があって、その中に草香江碑の解説文が出ていました。ところが、解説があるとはいえ、昔の本ですから、論語から引用した言葉、今では使わない単語、古い言い回しが並んでいます。解説文の文字も旧字体という、簡単に読めないものでした。

 しかし、なんとか、現代文に翻刻してみて、この草香江という土地が、昔は博多湾につながる大きな入江に面していたことがわかりました。現在の大濠公園もその入江の名残です。そんな昔のことから、中世の時代のことなどが述べられていました。ただ、この石碑の文章、芸術的な文字を書いた上野うえの就賢しゅうけんという人がどんな人かわかりません。この石碑は明治時代半ばに立ちましたので、この上野就賢という人のことは『黒田家譜』という、福岡藩黒田家の武士名簿、今でいえば会社の社員名簿のようなものですが、それに出ていないかを調べました。しかし、出ていません。困ったなぁと思っていたときです。金子堅太郎の「自叙伝」を読み込んでいたら、この上野就賢の名前が出てきたのです。

金子堅太郎金子堅太郎

 金子堅太郎といえば、明治4年(1871)の遣欧使節団(岩倉使節団)に便乗してアメリカに留学、ハーバード大学を卒業しました。明治新政府では農商務大臣、司法大臣を務めました。金子は草香江の近く、現在の福岡市中央区鳥飼に生まれ育った人です。金子の家も、もともと福岡藩の下級武士の家ですが、上野就賢という人も下級武士です。福岡藩というのは面白い藩で、一芸に秀でた人、例えば茶道、武道、音曲などの人に僅かな禄を与えてサムライにするのです。そういった一芸に優れた人が、身分は低いながら武士。そういった集団が多く住むのが鳥飼周辺であったと金子の「自叙伝」には述べられているのです。その人々の名前がずらずらと出てくるのですが、学問に優れた人として先ほどの上野就賢の名前があったのです。同じく、金子が学んだ塾の先生である正木まさき正陽しょうようもその集団の中におりました。

 金子の家は両親ともに教育熱心な人でした。さらに、お祖母さんも教育、いわゆる幼児教育に熱心な人でした。幼い金子に童話を聞かせ、鳥飼八幡宮の絵馬を見せては、物語をする人でした。例えば、豊臣秀吉が草履取りから天下をとった話などです。少し大きくなると、正木正陽の塾に通いましたが、やがて、福岡藩校修猷館(現在の福岡県立修猷館高校)に入ります。これは塾の師である正木正陽が藩校修猷館の教師であったことが幸いでした。金子は藩校修猷館で最優秀賞を三度獲得するほどの秀才でした。

金子堅太郎生誕地碑金子堅太郎生誕地碑

 やがて、明治になり、黒田家の殿様からアメリカに留学をして、学士の称号を得るようにと厳命されました。アメリカでは公立の小学校教育から始めましたが、ここでも優秀でしたので、飛び級という制度を使って、短期間に必要な単位を得て中学、高校、そしてハーバード大学に入学しました。金子はスピーチ、いわゆる演説がとても上手でした。それは、アメリカの世論が言論、特に演説によって大きく変化することを知ったからです。明治37年(1904)に始まった日露戦争では、アメリカのルーズベルト大統領に日本支持の工作をするようにと伊藤博文から厳命されたのです。ルーズベルト大統領はハーバード大学の同窓会組織を使って、金子に演説をさせました。日本はロシアと正義の戦いをやっている。正義のために日本を支持して欲しいとアメリカの世論に訴えたのです。このことが功を奏して、ロシアとのポーツマス講和条約では日本にとって有利な交渉ができるようになったのです。

 金子の功績としては、日露戦争でのアメリカの世論工作を成功させたこと、大日本帝国憲法草案を伊藤博文、井上毅、伊東巳代治らと考えたことを言われます。しかし、もう一つ、大きな功績として製鉄所、いわゆる官営八幡製鉄所を誘致したことがあげられます。八幡、現在の北九州市八幡西区、東区一帯になりますが、鉄は国家と言われるだけに、日本の浮沈を掛けた事業が八幡製鉄所だったのです。

 製鉄所では鉄鉱石を溶かすために大量の石炭が必要になります。しかし、当時の福岡県中部の筑豊炭田は海軍が押さえていました。当時の軍艦の燃料は石炭ですので、良質の石炭が埋まっている筑豊地区の炭田は海軍が採掘権を握っていました。金子はこの筑豊炭田の石炭埋蔵量、地域の実情などを早くから調査していました。そして、政府との交渉の末、ようやく海軍が独占していた筑豊の炭鉱が民間に開放されたのです。ここで活躍したのが、自由民権運動団体の玄洋社です。炭鉱夫という荒くれ者を統率するには、玄洋社の力自慢たちの威力がものを言ったのです。玄洋社の社員の多くは旧福岡藩の武士たちですので、炭鉱夫の頭たちも統率することができたのです。

團琢磨像團琢磨像

 炭鉱と言えば、北部九州では福岡県と熊本県の境にある三井三池炭鉱も有名です。ここの開発はだん琢磨たくまが率先して行いました。團琢磨は金子堅太郎とともに黒田の殿様の命令でアメリカ留学をした人です。鉱山学を学んだ團琢磨は三井三池炭鉱の開発に実力を発揮しました。三池炭鉱で採掘された石炭を運び出すには大型の運送船が必要ですが、干潮、満潮の干満差が大きい有明海では大型船が入ってこれません。そこで團琢磨は港の入り口に大きな閘門と呼ばれる水門を作り水位を調整していました。この設備を作れば今後百年は大牟田地区は産業を維持できるだろうと予見していました。この團琢磨のおかげで今の大牟田があるとして、九州新幹線「新大牟田駅」前には團琢磨の大きな石像が立っています。

 團琢磨と同じく、金子が誘致した八幡製鉄所ができたことで、北九州一帯は関連産業も含め発展していったのです。黒崎(北九州市八幡西区)の安川電機は世界的なロボット工場がありますが、もとは八幡製鉄所に石炭を納める明治鉱業が母体にあったのです。

 そして、製鉄所の鉄の原料や製品の輸出入には港が必要ですが、そのために若松港(北九州市若松区)を開発しました。当初、港の入り口の干潮時の水深は1メートルほどしかありませんでしたが、洞海湾を浚渫して大型の貨物船が横付けできるようにしました。この港の開発(築港)にも的野半介、安川敬一郎、平岡浩太郎といった玄洋社の面々が活躍したのです。玄洋社といえば、政治的な動きばかりが目に付きますが、地域経済の活性化のためにも尽力しているのです。それもこれも、金子堅太郎という政府の中枢にいる人物がいたからこそです。表面からは金子堅太郎と玄洋社の関係は見えませんが、水面下では人的関係がしっかりとありました。特に、初代玄洋社社長の平岡浩太郎と金子堅太郎の結びつきは強いです。

廣田弘毅像(福岡市立美術館)廣田弘毅像(福岡市立美術館)

 蛇足ながら、福岡県護国神社の反対側には廣田弘毅先生の銅像があります。他所からお見えになった方々は、一様にあの銅像を目にして驚かれます。あの極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判でA級戦争犯罪人として絞首刑となった人の銅像があるからです。他地区で、戦争犯罪人であった人の銅像が建つことだけで問題にされるのですが、それがまったく無い。逆に、あの裁判で絞首刑となった廣田弘毅先生は冤罪であると主張しているのですから。

 あるとき、中学校の先生方を案内して、草香江地区の史跡の案内をしたことがあります。その際、廣田弘毅先生の銅像側にある石碑が話題になりました。石碑には廣田弘毅先生の略歴が彫り込まれていますが、最後の年月日が和暦では無く、西暦になっているのです。その意味を質問されました。考えられるのは、この廣田弘毅先生の銅像を建てるにあたり、寄付金が集まったと思うのですが、日本人だけでは無く、外国人の寄付もあったのではと考えられます。インド人、中国人もいたと思われます。インドといえば、当時、インド代表のパール判事は、極東国際軍事裁判では判事という立場でしたが、日本側の無罪を主張した判事でした。パール判事はこの福岡にもやってきて、戦争犯罪人で処刑された遺族の方々の慰問をしています。

 この廣田弘毅が外務省に入り、外交官、外務大臣、総理大臣の道を歩むことになったきっかけは、山座圓次郎の強い引きでした。山座は自身の中学修猷館の後輩であり、東京帝大の後輩にあたる廣田弘毅を高く評価していました。山座は福岡市中央区地行の生まれです。山座は自身がイギリス大使館勤務の時も廣田を伴い外交の基本を教え込んだ人です。日露戦争でのポーツマス講和条約では、小村寿太郎の側にいた人です。「小村外交」の内助者と称えられる人です。惜しいことに、将来を嘱望されていましたが、中華公使の時に急死してしまいました。廣田弘毅もそうですが、山座圓次郎も玄洋社の社員でした。

 ポーツマス講和条約といえば、日本の全権大使である小村寿太郎は交渉成立後、疲れからアメリカで寝込んでしまいます。その側で、小村を看病していたのが金子でした。かつて、ともにハーバード大学で学び、同じ下宿にいて、なんと同じベッドで寝起きする仲でした。もしかしたら、小村はアメリカの地でくたばってしまうのかと心配されましたが、なんとか、小村寿太郎は金子とともに帰国できたのです。

團、金子、栗野團、金子、栗野

 ちなみに、日露戦争といえばロシアに国交断絶書を渡したのは栗野慎一郎です。この栗野もハーバード大学に進学し、外交官となった人です。ハーバード大学時代、金子堅太郎、團琢磨と一緒に写った写真が残っています。栗野の実家は西公園(福岡市中央区)にありました。この栗野がフランス公使、ロシア公使の時の駐在武官が明石元二郎です。明石も大名町(福岡市中央区)の生まれですが、福岡出身の栗野、明石ペアでフランス、ロシアと渡り歩いたのです。

 埴安神社に残る草香江碑ですが、この一本の石碑から、世界に飛び出ていった人々の壮大なドラマを読み取ることができます。まだまだ、草香江周辺を探れば、偉人の物語を発見できるのではないでしょうか。

艸香江碑

艸香江くさがえ【意訳】
筑前國早良郡鳥飼の里(現在の福岡市中央区、城南区にあった鳥飼村)は最も古いところで、その名前の由来は垂仁天皇の時代、鳥養とりかいという鳥の飼育場所があったからのようだ。鳥飼の里は早良郡(現在の福岡市中央区、城南区、西区、早良区一帯)のうしとら(東北の方向)の端にあり、東は那珂郡(現在の福岡市中央区博多区一帯)に隣接し、今の福岡城本丸大工町浄念寺中央(現在の福岡市中央区大手門二丁目一帯)を貫いて博多湾に面していた。西南方向は田島、七隈、荒江、祖原に接し、北側は海だった。荒津山(現在の西公園)の東より博多湾の海水が鳥飼村にまで通じ湾となっていた。千賀の浦とも呼ばれていたが、遠浅の草香江は古歌に「草香江の入江の田鶴も諸聲に千代にやちよと空になく」と歌われ当時の風景を彷彿とさせてくれる。干潟では塩を精製するかまどの煙がたなびき、その光景が浮かび上がってくるようだ。この近くに巨大な老松が六本あり、下り松、龍王の松などと呼ばれていた。戦乱の世においても伐採されることなく枝葉は鬱蒼と繁っていた。残念なことに今は枯れてしまい、一本だけがかろうじて生き残った。これは「鹽屋しおやの松」と呼ばれ、長い年数、緑色を保ちとても美しかった。幹は六圍ろくかこい(六人で囲む大きさ)に渉り枝葉は三十餘間(五十四メートル)にまで大きかった。文政(一八一八~一八三一)年間の大風の時に折れたけれども、冬になっても、まだ緑色が深かったという驚きの松だった。
この鳥飼の村は神功皇后が三韓御凱旋の時に宿泊場所され、里人が夕餉の膳を整えた。その頃、神功皇后は懐妊中で、お腹の皇子が無事に誕生し、育ちますようにとの祈願をした場所だった。後世、この地に祠を建て若八幡として崇めた。このあたりは、探題の館跡の礎があった。鳥飼氏は豪族にしてこの地に住み、その邸宅の趾もあった。海岸線には元寇襲来に備えての防塁趾もあった。南朝前後(一三〇〇年頃)には南北朝の争乱から戦場となり菊池氏(肥後の菊池一族)もこの地で戦った。古墳が甚しく多い。
慶長五年(一六〇〇)黒田家(初代藩主黒田長政)が筑前領主となり福崎の潟(現在の福岡市中央区福崎)に福岡城を建築される際、樋井川を西に疎通させ、湾や入江を埋め立て、福岡の市街を設けた。そこに武士や町人の住居を置いた。黒田家がこの鳥飼村に別荘を設けられた際、若八幡をいぬい(北西の方向)に移し今の鳥飼八幡宮となった。このため、村落が別れることになったが、変わらず村人の信仰を集めた。
延宝年間(一六七二~一六八〇)、入江の西に堤を築き、草香江の地名とし、谷、荒戸の村を設けた。寛文年間(一六六一~一六七二)鳥飼と麁原の間を分け、西新町を設けた。古くからの入江も変貌を遂げ、今では住居が建て込み繁昌している。この埴安神社は巨大な松の樹木があった場所だけに、有志がここに碑(草香江碑)を立てる計画を立てたのだ。

明治二十二年五月吉日 上野就賢七十八齢謹撰幷書
碑は福岡市鳥飼埴安神社境内に在り。

*埴安神社の「金子堅太郎生誕地碑」の左手
にある。金子家は南朝方として菊池一族
とともに北朝方と戦った。

【補記】
*鳥飼(とりかい)=朝廷に献上する水鳥を飼育していた場所
*垂仁帝(すいじんてい)=紀元前69年~70年、第11代天皇
*御宇(ぎょう)=帝王の治める世
*鳥養部(とりかいべ)=大化の改新前、朝廷の求めに応じて鳥類を飼育した部民、職
*艮(うしとら)=風水による方位、東北
*福岡城(ふくおかじょう)=黒田家の筑前支配の拠点となる城、黒田長政が築城した
*大工町浄念寺(だいくまちじょうねんじ)=福岡市中央区大手門の浄土宗寺院
*田嶋(たじま)=現在の福岡市城南区田島
*七隈(ななくま)=現在の福岡市城南区七隈、菊池神社がある
*荒江(あらえ)=現在の福岡市城南区荒江
*麁原(そはら)=現在の福岡市城南区祖原
*晩翠(ばんすい)=季節としての冬を表す
*神功皇后(じんぐうこうごう)=第14代の仲哀天皇の后
*三韓御凱旋(さんかんおんがいせん)=大和朝廷の朝鮮半島における新羅、百済、高句麗の三国を平定したこと
*皇子(おうじ)=第15代の応神天皇
*探題(たんだい)=幕府の出先機関、役所
*外賊防御の築石(がいぞくぼうぎょのちくいし)=文永11年(1274)に元寇が襲来し、次の襲来に備えて築かれた防塁、弘安4年(1281)に二度目の元寇襲来があった
*菊池氏(きくちし)=平安時代中期から戦国時代までの肥後国の豪族、大宰権帥藤原隆家の子孫が菊池に土着したと伝わる、菊池武時は北条英時を攻めて戦死(元弘の変)、菊池武重、菊池武士(たけひと)、菊池武光らは代々南朝方、菊池重朝は隈府(わいふ)で城下を整備、天文元年(1532)大友に滅ぼされる、
*埴安神社(はにやすじんじゃ)=福岡市中央区鳥飼にある神社。鳥飼八幡宮の元宮。境内には金子堅太郎生誕地碑がある。
*上野就賢(うえのしゅうけん)=文化9年(1812)~明治30年(1897)12
月21日、86歳で没する。福岡県士族。福岡藩士であった上野利作の子。家督を継ぎ、藩の政務に精勤する。維新後は福岡県官吏となり福岡県の殖産興業、士族授産に務める。鳥飼地区が生んだ秀才の一人、金子堅太郎の「自叙伝」にも紹介される。墓所は金龍寺。

【原文】
艸香江くさがえ
筑前國早良郡鳥飼の里は最も古く有て其名は垂仁帝の御宇鳥養部を置れしに起るものか此郡の艮隅に位し東は那珂郡に隣り今の福岡城本丸大工町浄念寺中央を貫き海中に至る西南は田嶋七隈荒江麁原に接し北は海に臨めり荒津山の東より海水村内に通ひ彎をなせしより或は千賀の浦の名有り草香江とは良淺にして後の名にもあらせむ古歌に草香江の入江の田鶴も諸聲に千代にやちよと空になく也と干潟には鹽燒烟も立そひて風光甚美景也しとかや此汀に巨大の老松六本有下り松龍王の松なんと皆共に亂世の斧鉞を免れ枝葉鬱蒼成しも今は枯てなく獨此松は昔の儘にて鹽屋の松と呼幾千代を保ち緑色いとうるはしく幹六圍に渉り枝葉三十餘間に蟠蔓せしか文政の大風折摧けとも晩翠尚濃也實に稀代の観と可謂此里は神功皇后三韓御凱旋の時御泊座有せられ里人夕の御饌を奉る皇后御胎内にまします皇子の御榮も祝はせ給ひし所とて後世其地に祠を建若八幡と崇む此邊に探題の館跡の礎と有り鳥飼氏は豪族にして此地に住し宅趾有り海邊には外賊防御の築石の趾今尚在り南朝前後戦場の街となり菊池氏も此地に戦ひしとそ所々古墳甚多し慶長五年黒田侯入國後福崎の潟にて新に城郭建築せられ樋井川を西に疎通し海口又江を埋め福岡の市街を設け士宅商戸を所々に置く又此里に別墅を営まれし時若八幡の宮居を乾の方に移す鳥飼八幡宮是也町村と部落と別るれと皆此神と仰く延寶中江西に堤を築き濠となし草香江の名をととめ谷荒戸の村を分け寛文中鳥飼麁原の内を裂き西新町をも立られいにしへの江海も變して今は人烟繁榮の地となれり此埴安神社は巨松懐古の地なれは有志謀て此碑を建つ

明治二十二年五月吉日 上野就賢七十八齢謹撰幷書
碑は福岡市鳥飼埴安神社境内に在り。

令和5年(2023)8月17日(改)
(一社)もっと自分の町を知ろう
浦辺 登

コラムニスト
浦辺登
歴史作家・書評家。福岡県筑紫野市生まれ。東福岡高等学校卒業。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌への投稿を行なうが、卒業後もサラリーマン生活の傍ら投稿を続ける。近年はインターネットサイトの書評投稿に注力しているが、オンライン書店ビーケーワンでは「書評の鉄人」の称号を得る。「九州ラーメン研究会」のメンバーとして首都圏のラーメン文化を研究中。地元福岡で学習会を主宰し、オンラインでも歴史講座を行い、要請があれば各地で講演を行っている。
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