狼の見たチベット

第10回

最もチベットに密着した動物、ヤク

 我輩は狼である。チベットの空は青い。
 ナンパラ峠の虐殺に始まり、九回に渡ってチベットについて語ってきた。
 チベットで今どんなことが起きているのかの片鱗ぐらいは伝えられたのではないかと思っている。
 今、どうなっているのかを知ったら、次に出てくる疑問はどうしてこんな状況になったのか。今までの経緯という奴を知りたくなるのが人情というものかと思う。もっとも我輩は人でなく狼なのだが。

 チベットの青い空の下、我輩は我輩にチベットの過去を語ってくれそうな相手を求めて駆けた。
 求める相手は決まっている。ヤクだ。昔のことを聞くのだから、できるだけ年をとったヤクがいい。
 ヤクは日本にいないためにお前さんたち日本人には馴染みのない動物かもしれないが、日本でも侍の兜に着ける飾りとしてヤクの尻尾を大陸から輸入していたそうだ。特に家康とかいう狸親父が大変好んでいたと、観光に来た日本人が連れに語っていた。
 なぜ我輩がヤクにチベットのことを聞こうと思ったかというと、ヤクこそ最もチベットに密着した動物だからだ。
 10人のチベット人に、もっとも身近に感じる動物は何かと聞けば、そのうち10人がヤクと答えるだろう。
 狼と答えてくれないことは残念だが、たまには鈍重な草食動物に花を持たせてやることにしよう。

ヤク ヤクはウシ目ウシ科に属する。オスメスともに長い角を持ち、その体は足元まで黒い長い毛で覆われている。
 高度3500m〜4500mの土地に生息し、チベット人同様に、まさにチベット高原に生きるために生まれてきたような生き物である。
 ヤクという名前自体チベット語なのだが、チベット語では正確にはオスのヤクだけをヤクと呼ぶ。メスのヤクにはディという別な名前がつけられている。雨の多いお前さんたちの国には、雨を意味する言葉が、霧雨、五月雨、時雨、等多数ある。雪が身近なエスキモーの言葉には雪を意味する単語が20以上ある。それと同じようにヤクとディという呼び名の違いからだけでもチベット人にとってはヤクという生き物が身近なものだということが感じられる。
 日本人が、かって捕鯨した鯨の体を余すことなく使い切っていたように、チベット人たちはヤクから多くのものを得ている。
 チベット人にとって乳製品といえばヤク(ディ)の乳からとったものが普通だ。チベットを代表する飲み物であるバター茶もヤクの乳から作ったバターを用いて作る。濃い目にいれた黒茶にヤクのバターと岩塩をいれ、ドンモと呼ばれる専用の器具で攪拌してバター茶は作られる。匂いだけ嗅ぐと甘いミルクティを連想するが、材料を見ればわかるとおり実際に飲むとむしろ塩辛い。そのため初めて飲む者はそのギャップに驚くことになる。高地での生活のために不足しがちな塩分や脂肪分を補ってくれるチベットには欠かせない飲み物だそうだ。
 ヤクは乳製品だけでなく、食肉としてもチベット人の胃に納まる。この辺りは世界各国での普通の牛と同じ扱いだ。
 だが、最初に言ったようにこれだけでは終わらない。ヤクの毛はより合わせて縄として用いられたり、テントを作ったり、毛製品の材料となったりする。
 また皮はなめして服等に使うし、糞(フン)は乾燥させてから燃料に使う。骨すら加工して工芸品にしたり、薬の材料とするそうだ。
 チベット人は、ヤクの体を文字通りあますことなく使い尽くしている。
 それだけではない、ヤクはチベットでは一般的な騎乗用の動物としても用いられる。空気の薄い高地では馬はすぐに疲れてしまう。ヤクならば荒地でも重たい荷物を背負ったまま力強く進んでいくことができるのだ。
 ヤクはチベットの遊牧民の生活にとって欠かすことができないパートナーと言えるだろう。
 遊牧民たちは、5人家族程度で500〜600頭ほどのヤクを飼って生活している。ところが中国政府は近年この飼育数を一家族あたり一桁にしろと言っているらしい。それでどうやってチベット人に生きていけと言うのだろうか。

 我輩は、運良く一頭の年老いたヤクに出会った。食肉にならずに年終えたのだ、運がよいヤクだろう。もっとも年老いたといってもヤクの寿命は20年〜25年、我輩の知りたいことを直接は見ているわけはなく、伝聞の話しか聞くことはできなかった。
 我輩は、まず何故チベットが中国の支配下にあるのかをヤクに聞いてみた。
 中国では国民党と共産党という二つの勢力が支配権を握ろうと長い間戦いを続けていたそうだ。
 長い戦いのすえに1949年に共産党が戦いに勝利し、国民党の残党は台湾に逃げ込んだ。
共産党は中華人民共和国の建国を宣言し、その中でチベットやウイグル、台湾などの地域も歴史上中国の領土なので中華人民共和国の領土だと主張した。
 歴史上中国の領土か。それの真偽が一つのポイントだな。これについても調べなければならないと我輩は頭に刻み込んだ。
 中国共産党は、チベットを白人の支配から解放するためと称して、チベットに軍を送り込んだそうだ。
 そういえば、20世紀前半まではアジア各地は白人の支配下だったと聞いたことがある。白人の支配から解放するための進軍なら仕方ないなと我輩は納得をした。
 我輩が納得したというとヤクは慌てて言葉を続けた。だけど当時チベットには旅行者をいれても10人程度の白人しか実際はいなかったのですよ。
 10人? 我輩の足の裏が磨り減るほど広大なチベットを10人で支配していた? そいつらはみんなスーパーマンか何かか? いくら何でもありえない話だ。
 我輩の驚きを確認するとヤクは続けた。さすがに中国も白人からの解放は無理があると思って、今では農奴だったチベット人を支配階級である僧侶や貴族から解放するための戦いだったと主張してるそうですよ。
 なるほど、しかしチベット人といえば遊牧民が主じゃないか。遊牧民なのに農奴というのも無理がある。もう少しうまい言い訳ぐらい思いつかなかったのか中国人は。
 チベットの人たちは抵抗したが、圧倒的な軍事力を持つ中国によってまたたくまにチベット各地が占領されていった。
 1951年、中国は軍事力を背景に17か条の協約の締結をチベットに強制した。これによりカムやアムドといった東チベットは分割され中国領土に組み込まれた。中央チベットについては中国の宗主権を認める代わりに今まで通りチベット人自身の手で統治することを中国側も認めた。
 なるほど、それが今のチベット自治区という枠組みの始まりだなと。我輩は頭の中で整理しながら話を聞き続けた。
 我輩はヤクに聞いた。軍事力に脅かされた結果とはいえ17か条の協約とやらを正式に結んだのならば中国がチベットを支配するのも一理あるんじゃないか?
 ヤクは答えた。そもそも17か条の協約を結んだチベットの使節団には、条約を結ぶ権限をもつような使節団じゃなかったのですよ。状況を確認するために送られた使節団にすぎなかった。そんな彼らを中国側は監禁し、最後は条約の調印に使う印綬まで中国側がチベットの印綬を勝手に作って押させたのですよ。
 そこまで無理やり結ばねばならないほど形式にこだわるのか、人間というのは面倒くさいなと思いながら我輩はヤクの話を聞き続けた。
 ヤクは続けた。そして17か条の協約を破ったのも中国の方ですよ。当初協約でチベット側に認められていた権利を力を背景にして、なし崩しで奪っていき、直接支配を強めていったのですよ。

 ヤクの話で中国がチベットを支配していった経緯がだいたいわかってきた。
 次回もヤクから聞いた話をもう少し続ける。

コラムニスト
太田 秀雄
1971年福岡に生まれる。地元筑紫丘高校を卒業後、九州大学で生物学を専攻する。コンピュータプログラマを生業とする傍ら、いまだに学究心が捨てきれず大学に戻ろうと画策している。2008年3月のチベット騒乱を機にチベット支援に積極的に関わるようになり、国内外のチベット支援者や亡命チベット人達と広く交友関係を持つ。チベット支援をしているものの、別段中国の全てに否定的というわけではなく、とくに『三国志』や中華料理は大好きである。尊敬する人物は、白洲次郎、ホーキング博士、コルベ神父。
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